美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

一乗谷・朝倉義景

朝倉義景の最期とは?賢松寺での自決と裏切った朝倉景鏡の末路

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越前の名門・朝倉家の第11代当主であり、一乗谷に華やかな文化を咲かせた朝倉義景。

足利義昭を保護するなど圧倒的な権勢を誇った朝倉義景ですが、なぜ織田信長によって追い詰められ、滅亡の道を辿ることになったのでしょうか。

 

 

その背景には、義景の最愛の嫡男・阿君丸(くまわかまる)の急死や、側室・小少将との過酷な運命、そして刀根坂の戦いにおける織田軍の苛烈な追撃がありました。

 

本記事では、朝倉義景のドラマチックな生涯から、小少将や愛王丸を襲った悲劇、さらには裏切り者・朝倉景鏡の末路までを分かりやすく解説します。

     ▲朝倉義景

1. 一乗谷の栄華と朝倉義景の台頭

北陸の地に「小京都」と呼ばれるほどの華やかな文化を築き上げた越前の朝倉氏。

その第11代当主として君臨したのが朝倉義景です。

まずは、義景が治めた一乗谷の栄華と、織田信長との対立に至る背景を見ていきたいと思います。

 

 

 

名門・朝倉家の第11代当主として

朝倉義景は、名将として知られる父・朝倉孝景の急死に伴い、わずか16歳で家督を相続しました。

義景が本拠地とした越前一乗谷(現・福井県福井市)は、京から多くの公家や文化人が避難してきたこともあり、北陸随一の城下町として目覚ましい発展を遂げます。

 

 

義景自身も武芸だけでなく、和歌や連歌、茶の湯、球技(蹴鞠)などに深い造詣を持つ屈指の文化人でした。

一乗谷では連日のように優雅な宴や歌会が催され、京の都と変わらぬ絢爛豪華な文化が花開いていたのです。

 

この高い教養と平和な領国経営により、朝倉家は戦国大名の中でも一目を置かれる名門としての地位を確立しました。

 

 

 

将軍・足利義昭の保護と織田信長との交差

永禄9年(1566年)、足利義秋(のちの15代将軍・足利義昭)は兄を暗殺した暗殺犯(三好勢)から逃れるため、そして室町幕府と古くから深い繋がりがあり、高い軍事力・経済力を持つ朝倉氏を頼って将軍に就任(上洛)するために、京を追われ一乗谷を頼って逃れてきます。

朝倉義景は義昭を歓待し、手厚く保護しました。

足利義昭は朝倉義景に対して「将軍を奉じて上洛(京へ上ること)し、天下を平定してほしい」と強く望みます。

 

室町幕府を再興するための絶好の好機であり、朝倉家の名を天下に轟かせる最大のチャンスでした。

 

しかし、義景はこの上洛の要請にすぐには動きませんでした。

 

その背景には、以下のような理由があったとされています。

◇加賀一向一揆への警戒
隣国・加賀の一向一揆との緊張状態が続いており、領国を長期にわたって離れることが難しかった。

◇嫡男・阿君丸の急死
頼りにしていた跡継ぎを病で失い、義景自身が深い悲しみに暮れていた。

◇一乗谷の平和維持
急激な天下取りの争いに巻き込まれることを避け、越前の安寧を優先した。

 

朝倉義景が逡巡している間に、痺れを切らした足利義昭は一乗谷を去り、尾張の織田信長を頼ることになります。

信長は足利義昭の要請を好機と捉え、怒濤の勢いで上洛を果たしました。

 

天下の主導権を握った信長は、将軍・足利義昭の名を傘に着て朝倉義景に上洛(伏服)を命じますが、名門としてのプライドを持つ朝倉義景はこれを拒否します。

 

これが決定打となり、朝倉義景と織田信長は激しい対立の渦へと巻き込まれていくことになります。

 

 

2. 政務から遠のいた「悲劇の連鎖」

織田信長との緊張感が高まる中、朝倉義景の足元では家臣や領国を揺るがす「内側の悲劇」が相次いで発生していました。

名門・朝倉家の崩壊の引き金となった、家庭内の悲劇と一門の亀裂について詳しく見ていきます。

 

 

嫡男・阿君丸の急死と義景の失意

永禄11年(1568年)、朝倉家を揺るがす大事件が起こります。

朝倉義景が溺愛していた嫡男・阿君丸(くまわかまる)が、わずか7歳で突如としてこの世を去ったのです。

一説には毒殺とも囁かれるこの急死により、義景は言葉にできないほどの絶望と悲しみに打ちひしがれました。

 

待望の跡継ぎを失ったショックはあまりにも大きく、これを境に朝倉義景は急速に政務への意欲を失っていったと伝えられています。

 

当主が失意の底に沈んだことで、朝倉家の政治的な判断力は鈍り、迫り来る織田信長という脅威に対して後手に回る要因となってしまいました。

 

 

側室・小少将の溺愛と一門の亀裂

阿君丸を失った悲しみの中、朝倉義景が深く心を寄せたのが側室の小少将(しょうしょうしょう)でした。

絶世の美女と評される小少将との間に、義景は新たな男子・愛王丸(あいおうまる)を授かります。

▲朝倉義景と小少将と愛王丸のイメージイラストです

 

失意の底にあった義景にとって、小少将と愛王丸の存在は大きな救いであり、いつしかその愛は深すぎる傾倒へと変わっていきました。

 

 

朝倉義景は小少将の言動に深く影響されるようになり、一乗谷での華美な生活や宴に一層のめり込んでいきます。

しかし、この政務の疎かに加え、愛王丸を露骨に優遇する姿勢は、朝倉家を支えてきた重臣たちの中に強い不満を生み出しました。

 

特に、一門衆の筆頭である朝倉景鏡(かげあきら)ら重臣層との間には決定的な亀裂が走り、かつて一丸となって越前を治めた朝倉家の結束は、内側から崩壊を始めていたのです。

 

 

 

3. 織田信長との決戦と刀根坂の戦い

内部に激しい動揺と不協和音を抱えたまま、朝倉義景はついに織田信長との全面対決へと突き進むことになります。

北陸の覇者と激突した「姉川の戦い」から、朝倉家崩壊の決定打となった「刀根坂の戦い」※1までの凄惨な展開を追っていきましょう。

▲※1.利根坂の戦いとは、刀禰坂合戦、「刀禰坂」と表記することも)」はあります。<br/>

天正元年(1573年)8月、織田信長軍が越前(現・福井県北部)の戦国大名・朝倉義景の軍勢を追撃し、決定的に破った戦いです。

刀禰坂は、現在の福井県敦賀市刀根付近にあたります。

東近江路と西近江路を結ぶ間道が通る交通の要衝で、古くから軍勢の移動にも関わる重要な場所でした。

この戦いは、単なる追撃戦ではありません。

越前を100年余り支配した朝倉氏の滅亡を決定づけ、さらに朝倉氏を頼っていた美濃(現/・岐阜県南部)の旧国主・斎藤龍興もここで命を落としました。

刀禰坂合戦は、信長が浅井・朝倉勢力を一気に追い詰めていく流れの中で、極めて重要な意味を持つ戦いだったのです。

※.上記の姉川の戦いをクリックして頂くと詳しい記事が載ってます。興味ある方は読んでください。

 

 

姉川の戦いから志賀の陣へ

元亀元年(1570年)、信長が朝倉領へ侵攻を開始すると、朝倉家と長年固い同盟関係を結んでいた北近江の浅井長政が信長を背後から挟み撃ちにし、信長は窮地に陥ります(金ヶ崎の退き口)。

※上記の金ヶ崎の退き口をクリックして頂くと詳しい記事があります。』興味ある方は読んでください。

 

勢いに乗る朝倉・浅井連合軍は、同年の「姉川の戦い」で激突。

激戦の末に破れはしたものの、反信長勢力を結集させた「信長包囲網」を形成し、信長を何度も絶体絶命の危機へと追い詰めました。

 

さらに「志賀の陣」では、比叡山延暦寺や石山本願寺と連携して信長包囲網の主導権を握ります。

信長に朝廷を介した和睦を乞うまでに追い詰めたこの時が、朝倉義景にとって信長を打倒する最大のチャンスでした。

 

しかし、義景は追撃の手を緩めて一乗谷へ撤退してしまい、致命的な「時の猶予」を信長に与えてしまったのです。

 

 

 

電撃的な追撃!刀根坂での大敗

武田信玄の急死により信長包囲網が瓦解し始めると、攻守は完全に逆転します。

天正元年(1573年)8月、信長は大軍を率いて浅井家の居城・小谷城(滋賀県長浜市)を包囲。

 

義景も自ら援軍を率いて出陣しますが、長年の戦乱で疲弊した朝倉軍の士気は低く、重臣の離反も重なって戦況を覆すことはできませんでした。

 

敗色濃厚と見た朝倉義景は越前への撤退を開始します。

しかし、信長はこの動きを完全に見抜いていました。

 

暴風雨が吹き荒れる悪天候の中、信長は自ら先頭に立って朝倉軍を激しく追撃。

 

敦賀近郊の刀根坂(とねざか)にて、逃げる朝倉軍を襲撃しました。

これが歴史に名高い「刀根坂の戦い」です。

不意を突かれた朝倉軍は大混乱に陥り、斎藤龍興をはじめとする多くの有力武将が戦死。

 

壊滅的な大打撃を受けた朝倉軍は組織的な抵抗力を完全に失い、朝倉義景はわずかな手勢とともに命からがら一乗谷へ逃げ帰るしかありませんでした。

 

 

4. 賢松寺での最期と小少将たちの悲劇

刀根坂の戦いで壊滅した朝倉軍に、もはや織田軍を迎え撃つ力は残されていませんでした。

逃亡の末に訪れた義景の自決、そして残された家族を襲った悲劇と、裏切り者の凄惨な末路について解説します。

 

 

朝倉景鏡の裏切りと賢松寺での自決

一乗谷へ逃げ帰った義景でしたが、城下町はすでに混乱を極めており、信長の大軍が迫る中で防戦を断念せざるを得ませんでした。

 

朝倉義景は再起を図るため、一門衆の筆頭として頼りにしていた重臣・朝倉景鏡(かげあきら)の勧めを受け、大野郡(現・福井県大野市)へと逃れます。

 

 

しかし、重臣に朝倉景鏡の誘導によって朝倉義景が入った山田庄の賢松寺(けんしょうじ)は、再起の場ではなく死に場所となってしまいました。

 

 

朝倉景鏡は裏で織田信長と通じており、賢松寺を突如として軍勢で包囲したのです。

信じた親族に裏切られたことを悟った朝倉義景は、もはやこれまでと覚悟を決め、天正元年8月20日(1573年9月16日)に賢松寺で自決しました。
享年41。

撤退戦からわずか一週間後の出来事でした。

 

 

護送途中に消えた小少将と愛王丸

朝倉義景の自決後、残された側室の小少将と幼い息子の愛王丸にも、容赦のない現実が突きつけられます。

朝倉家の血を絶やすことを恐れた信長は、織田軍の重臣である丹羽長秀に小少将と愛王丸の捕縛を命じました。

 

 

捕らえられた二人は京へ護送されることになりますが、その途上である今庄(福井県南越前町)付近にて、丹羽長秀の手によって惨殺されたと伝えられています。

 

 

朝倉義景が深く愛した側室と、朝倉家の未来となるはずだった幼い愛王丸の命は、権力闘争の渦中で悲しくも奪われてしまいました。

 

 

裏切り者・朝倉景鏡を襲った因果応報

主君を裏切り、朝倉家を壊滅へと追い込んだ朝倉景鏡は、信長からその功を認められ「土橋信鏡(つちはしのぶかがみ)」と改名して領地を安堵されました。

 

しかし、主家を売り渡して得た安寧は長くは続きませんでした。

 

 

朝倉義景の自決からわずか数ヶ月後の翌年、越前全域で猛烈な一向一揆が勃発します。

一揆勢の標的となったのは、朝倉家を裏切った朝倉(土橋)景鏡でした。

 

逃げ場を失った朝倉(土橋)景鏡は一揆勢に追い詰められ、朝倉義景の死から1年も経たないうちに非業の死を遂げることになります。

 

主君を裏切って自決へと追い込んだ男が、同じように非情な末路を辿ったこの出来事は、まさに「因果応報」「諸行無常」を象徴する歴史のひと幕と言えます。

 

 

 

5. まとめ

諸行無常の響きを残した朝倉義景の生涯と言えます。

北陸に「小京都」と呼ばれる圧倒的な繁栄をもたらしながらも、織田信長との戦いに敗れ、悲劇的な最期を迎えた朝倉義景。

最後に、一乗谷の栄華から賢松寺での自決に至る義景の生涯を振り返り、名門・朝倉家の滅亡が私たちに教えてくれる歴史のドラマを整理します。

 

 

一乗谷の栄華から賢松寺での最期までの振り返り

朝倉義景の生涯は、まさに光と影が激しく交差するものでした。

◇光の時代: 越前一乗谷にて公家文化や高い教養を昇華させ、足利義昭を保護するなど天下に名を馳せた栄華の時代。

◇影の時代: 嫡男・阿君丸の急死による政務離脱、側室・小少将への傾倒が生んだ重臣たちとの溝、そして刀根坂の戦いでの壊滅的大敗。

◇滅亡の最期: 信頼していた重臣・朝倉景鏡の裏切りにより、1573年9月16日(天正元年8月20日)に賢松寺で41年の生涯を閉じました。

 

義景が去った後、小少将や愛王丸は丹羽長秀の手で悲しくも命を奪われ、朝倉義景を裏切った朝倉景鏡も一向一揆によって非業の死を遂げるという、凄惨な連鎖が続きました。

 

 

名門の最期が教えてくれる歴史の儚さ

栄華を極めた一乗谷は織田軍によって焼き払われ、かつて絢爛豪華を誇った城下町は一瞬にして灰燼(かいじん)に帰しました。

 

「諸行無常」――どんなに誇り高き名門であっても、時代の大きなうねりと判断の過ち、そして身内の裏切りによって呆気なく崩壊してしまうという現実を、朝倉義景の最期は如実に物語っています。

 

しかし、一乗谷の跡地は現在も「一乗谷朝倉氏遺跡」として残り、義景たちが築いた美しき文化の呼吸を今に伝え続けています。

 

歴史の波に呑まれた朝倉義景の儚くもドラマチックな人生に思いを馳せながら、彼の生きた時代を振り返ってみてはいかがでしょうか。

 

 

-一乗谷・朝倉義景

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。