家康を支え、忠臣だった石川数正が、天正13年(1585年)突如出奔して秀吉の配下になった。
一体全体数正に何があったのか?
家康を、幼少の頃より仕え、今川氏の人質になったときも身辺で支え、家康を励ましてきた数正がどうして裏切ったのか?
理由は幾つも考えられます。
一般的に言われている事が
①叔父の石川家成が石川家の家督を継いだことに不満を持ったからか。
②数正が天正7年(1579年)に自害させられた信康(家康の嫡男)の後見人を務めていたため、徳川家中での立場が悪くなったか。
③小牧・長久手の戦い後、徳川家中では対 豊臣対策をめぐって、強硬派と穏健派が対立していたためなのか。
いろいろ考えられます。
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忠臣の数正が出奔した
出奔とは、辞書で引くと、逃げ出して行方をくらますこと。逐電(ちくでん)。親に逆らって郷里を◯◯する。または、江戸時代、徒士以上の武士の失踪をいう。とある。
では、そんなに忠臣の数正が出奔したことは、徳川家にとっても家康にとっても痛手であったと思う。
天正12年(1584年)、家康は小牧・長久手の戦いで、秀吉の大軍に押され、大義名分の織田信雄が秀吉と和議を結んだため敗れていた。
数正は使者として秀吉のもとへ派遣されたので、その力量を十分に熟知していただろう。
数正が秀吉から臣下となることを勧められたのか、自ら身を投じたのかは不明である。
ほかにも理由がある。
①叔父の家成が石川家の家督を継いだことに不満を持った。
②数正が天正7年(1579年)に自害した信康(家康の嫡男)の後見人を務めており、徳川家中での立場が悪くなった、などである。
③小牧・長久手の戦い後、徳川家中では対豊臣対策をめぐって、強硬派と穏健派が対立していた。
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秀吉の実力を知る数正は、穏健派だった。
しかし、やがて数正は孤立し、身の危険を感じて出奔せざるを得なくなったというのが真相に近いとされている。
重臣が主君あるいは同僚の家臣と意見が対立し、家中を飛び出す例はさほど珍しくない。
とはいえ、石川数正の出奔は、家康や徳川家中に大きな衝撃を与えた。
ただちに家康は岡崎城に入ると、秀吉との戦いに備えた。
家康は岡崎城だけでなく、ほかの城の普請を積極的に進め軍制を改めた。
というのも、数正は家康の懐刀だったので、徳川家のすべてを知り尽くしているからだった。
さらに家康は遠江に三河国衆の婦女子を移し、本多重次を岡崎城代に任命した。
数正が家康のもとから出奔したのには、今後を見据えての合理的な判断があった。
秀吉は大歓迎だったに違いない。今なら「裏切り者」のレッテルを貼られるのでカッコ悪いが、当時はそうでもなかったのだろう。
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石川数正の家系
数正が生まれた石川家は、古くから松平家に仕える累代の家臣と呼べる存在で、その出自も古く源平の戦いで活躍した源義時を祖とした名門中の名門です。
その源義時の子供が河内国(現・大阪府)石川を領有し、その地名から石川姓を名乗ったのが始まりです。
その子孫は後に下野国(現・栃木県)の小山という土地を領有してからは小山姓を名乗っていた、しかし、「本願寺中興の祖」とされる蓮如が浄土真宗の普及活動を進める中で、当時家督を継承していた小山政康に三河国での活動を指示。
三河国に移り住んだ小山氏は、再び石川姓を名乗るようになったとされています。
また、松平家に仕え始めたのは室町時代後期で、松平家四代目の松平親忠のときとされています、
これは松平親忠に請われてのことであり、仕え始めた当初から家老格の扱い受けていた、この厚遇※1は代々石川家が継承していくこととなっていきます。
※1.厚遇(こうぐう)とは、手厚くもてなすこと。
安城譜代であった石川家は、重臣として松平家に貢献し、松平家が今川家への従属を余儀亡くされた時代にも忠義を守り続けました。
秀吉に寝返った石川数正
家康にとっては大きな衝撃と損失でした。
数正は家康の側近中の側近であり、軍事的機密を知り尽くした人物だから、家康は数正の出奔に対して、激怒したとも悲嘆したとも言われています。
しかし、家康は数正に対して復讐や処罰を行うことはありませんでした。
むしろ、秀吉に仕えることで、秀吉との和睦の仲介役になってくれることを期待した、実際、数正は秀吉の命令で家康との交渉を担当することが多く、家康と秀吉の関係を維持する役割を果たしています。
数正は家康に対して「私は主君を裏切った罪人ですが、今は秀吉様の臣下です。どうか私のことは忘れてください」と言ったと伝わります。
この言葉は、数正が家康への恩義や恥辱を忘れなかったことを示しています。
数正は家康に対して敵意や恨みを持っていなかったのです。