真田昌幸・真田信幸・真田幸村親子の真田氏とは、東信濃の古くからの豪族・滋野氏の流れを汲む海野氏の分流にあたり、現在の上田市真田町地域を本拠地とした土豪です。
応永7年(1400年)の大塔合戦で、信濃守護の小笠原氏に対抗して戦った東北信の連合諸将の中に、実田さなだ氏の名がみえ、これが後の真田氏に通じるものと考えられています。
江戸時代に書かれた歴史書である『真武内伝』によれば、天文10年(1541年)の武田・村上・諏訪三氏の連合軍と、海野氏との対戦の時、海野勢にあったのが真田幸綱(幸隆とも)とされています。
この戦いは海野勢の敗北となり、真田幸綱は上州へ逃れます。
しかし、遅くとも天文18年(1549年)頃までには武田信玄に仕えることとなりました。
家康の養女・小松姫となって真田信幸に嫁ぐ
天正元年(1573年)、小松姫(稲)は本多忠勝の娘として生まれ、母親については諸説あり、阿知和玄鉄の娘、or松下弥一の娘といわれています。
幼名は、於子亥(小松姫・稲姫)と呼ばれていました。
真田信幸の正室となったのは、天正14年〜18年(1586年〜1590年)にかけて婚姻の時期は諸説あり確定していないようですが、小松姫が13歳から17歳までの間に嫁いだと言われます。
小松姫は元和6年(1620年)47歳の若さで亡くなっていなす、夫の真田信之は93歳の長命です。
天正10年(1582年)織田氏の攻撃により武田氏が滅亡、その3ヶ月後に本能寺の変で信長が横死したため、その死後、上杉氏、徳川氏、北条氏などの諸大名が信濃・上野などの領有しようと争った。
その後、小牧・長久手の戦いを経て、豊臣秀吉が政治の主導権を握った。
天正13年(1585年)になると、徳川家康は北条氏直と和睦し、その際、北条氏直が真田昌幸が領する沼田城の引き渡しを条件にだしので、家康は、その旨を真田昌幸に通告したが拒否されました。
▲沼田城跡
そこで、同年に家康は真田家の上田城を攻撃するが、この上田合戦は失敗に終わる。
その年、真田昌幸は上杉景勝の仲介によって秀吉に臣従することになり、昌幸は、天正15年(1587年)に上洛して秀吉に面会、名実と共に配下に収まった。
豊臣秀吉の命令により、真田昌幸が徳川家康の与力になることで決着、でも二人は長年対立してきた経緯があります。
いくら秀吉の命令でも、おいそれと全てを水に流しして仲良くなるわけがなく、そこで豊臣秀吉は「小松姫と真田信幸を結婚させ、緊密な関係を築いてはどう」と提案します。
これを機に、両者は関係を強固にするため婚姻関係を結ぶことにしました。
いわゆる政略結婚です。
こうして、真田家の嫡男・真田信幸(後の信之)に、家康の養女・小松姫を嫁がせ、小松姫は当時、18歳で信幸は7歳上の25歳でした。
そこで、小松姫は徳川四天王の一人、本多忠勝の娘なのに、徳川家康の養女となって嫁ぎました。
すでに信幸は正室・静音院殿(真田信綱の娘)を迎えていたので、静音院殿を側室にし小松姫を正室に二人の間に2女3男の子に恵まれた。
こうして小松姫は、信幸の妻として真田家を守り立てた。
▲小松姫(イメージ)
逸話の① 刀剣でイノシシを撃退
エピソードの一つは、父親譲りの活発な娘で、毎日剣術の稽古に励んでいた。
父親仕込みで腕前もなかなかのものであった小松姫が、父と共に大多喜城で暮らしていた時の民話として残されています。
本多氏は三河国の出身ですが、天正18年(1590年)に天下統一を成し遂げた豊臣秀吉から徳川家康に北条氏の旧領があてがわれ、その一つとして本多忠勝は大多喜城10万石の城主になった。
▲大多喜城と天守閣
この城の庭からいつも聞こえていたのが、娘の小松姫の「えい」、「やー」という剣術を練習する声だったとか。
そして、ある日のこと城下に出かけた姫は、イノシシが街中で村人を襲おうとしているところに遭遇します。
そこには竹籠に入った赤ん坊の姿、姫は赤ん坊を抱き抱え母親に渡した後、刀を携えていたので、その刀を振りかざしてイノシシを竹藪に撃退しました。
その時、振り上げた小松姫の刀が日を浴びて、きらり☆☆と光り、そして、その光が小松姫に差し掛かって、姫自身が光り輝いてみえたのです。
光り輝く姿をみて人々は、小松姫のことを「かぐや姫」という名で呼ぶようになりました。
大多喜町では、このことから、今でも筍を入れた炊き込みご飯を「かぐやご飯」と呼ぶそうです。
逸話の② 家康の養女・小松姫の婿選び
家康の養女となった小松姫に婿選びをさせようと、大広間に独身の大名を集めました。
全員が頭を畳につけてひれ伏し、それを小松姫が髻※1を掴み、一人ひとりの顔を見てまわりました。
※1.髻(もとどり)とは、髪の毛を頭の上に束ねた所。たぶさ。
これは大名たちにとってかなり屈辱的な行いですが、なんせ家康の養女ですので誰も文句を言えません。</br/> この行いに対して『この無礼な女め!」と怒鳴り鉄の扇で小松姫の顔を打った男がいました。
それは真田信之でした。
小松姫は、この気骨に感心し「私の夫となるは真田の他にない」と言って結婚したのだとか・・・。
このエピソードは伝記として語られているもので真偽のほどは定かでありません。
そもそも真田信之は、この時すでに正室がいたのです。
今でいうと横恋慕うとなったんでしょうか?
逸話の③真田家の取る道は
慶長5年(1600年)9月に天下分け目の関ヶ原の戦いが起きる前の話で、徳川家康を中心とする上杉討伐に向かう途中の出来事です。
石田三成の挙兵が家康の元に知らせが入り、急遽軍議を開き、いわゆる小山評定諸将の多くは豊臣家臣ばかり、それで家康は東軍につくか西軍につくかを各諸将に詰めよった、ところが、その中で真田昌幸・幸村親子、岩村城主・田丸直昌の両名が西軍につくと発言して離反して家康に許され、その場を離れました。
※上記の小山評定をクリックして記事を読んでください。
この会議で、真田昌幸・真田幸村と、真田信幸は袂を分かつことになり、真田昌幸と真田幸村親子は居城の上田城へ戻ろうとします。
上田城に帰る途中にあったのが、真田信幸の居城の沼田城でのできごとです。
ここで、真田昌幸は休憩をしたい、孫に会いたいと、沼田城を守っていた真田信幸の正室である小松姫に申し出をします。
しかし、小松姫は目の前にいるのが真田昌幸と真田幸村で、夫の真田信幸がいないことに不審に思います。
真田昌幸・真田幸村と、真田信幸はすでに袂を分かっていると悟った小松姫は、義理の父や弟の申し出を拒否。
小松姫は長刀に鎧姿と武装した姿で城門に立ち、戦も辞さずという構えをみせます。
▲小松姫の肖像画(大英寺蔵)
この姿を見て、さすがの真田昌幸も沼田城に入るのを諦めたとされています。
真田昌幸は、小松姫のことをよく思っていなかったと伝えられています。
それは小松姫が本多忠勝の娘というばかりではなく、徳川家康の養女という形で嫁いできたため。
真田昌幸と徳川家康には遺恨があったとされていて、真田昌幸は徳川家康を嫌っていたと言われています。
政略結婚なので致し方ないとしても、嫌いな徳川家康の養女である小松姫を好きになれるわけもありません。
しかし、小松姫は夫の居城を守るため、義理の父親に敵対してきた。
このことは、戦国武将としての真田昌幸を感激させたようで、「小松姫がいる限り真田の家は安泰」と大喜びしたと伝えられています。
また、この逸話はこれだけで終わりません。
逸話の④嫁・小松姫の情け
真田昌幸は、沼田城入城の口実として、真田信幸の子に会いたいという申し出をしてきました。
真田昌幸の入城を拒否することはできても、義理の父親の願いを無下にもできません。
沼田城に入城できなかった真田昌幸と真田幸村親子は、沼田城に近い正覚寺に宿営することになります。
そして、この正覚寺に現れたのが小松姫と子供です。
正覚寺を宿営場所にと手配したのも小松姫なら、孫に会いたいという願いを叶えてくれたのも小松姫。
たとえ親や弟でも、敵となった以上、夫である真田信幸の城に入れるわけにはいかない。しかし、たとえ義理でも親子の情としては、義父と孫の対面を叶えたい。
まさに、小松姫は良妻であり、かつ親思いの嫁であったことがわかります。
この逸話からうかがい知れる小松姫の性格は勝気であること。
また、勝気であるばかりでなく思慮深く、機転も利くということ。
さらに、真田昌幸と孫の面会も画策するなど、愛情こまやかな性格を感じ取ることができそうです。
これを見た真田昌幸は「沼田の嫁として恥ずかしきうない女だ」感心すると共に自らの軽率な行いを恥じたと伝えられています。
逸話の⑤その他
小松姫の逸話としては、前述の沼田城の出来事があまりにも有名です。しかし、小松姫の逸話はそれだけではありません。
関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わります。
戦後処理で、徳川家康は西軍についた真田昌幸と真田幸村を死罪にすることを考えます。このとき、これを思いとどまらせたのが本多忠勝と真田信幸。
2人の助命嘆願により、真田昌幸と真田幸村は死を免れ、九度山追放に落ち着きます。
このとき、助命嘆願をしたのは本多忠勝と真田信幸と言われていますが、小松姫も一役買っていたのではないかと言われています。
また、九度山に追放された真田昌幸と真田信繁は生活に困窮しますが、小松姫は自分の手元のお金から食料や日用品を送るなどしていたと伝えられています。
小松姫の性格は、これまでの逸話でもご紹介してきましたが、さらには義侠心に富み、心づかいのできる性格であったようにも思われます。
さいごに
真田氏の居城の上田城にて小松姫は1620年に亡くなります。
小松姫の死を誰よりも悲しんだのが夫である真田信幸で、真田信幸は小松姫の死によって「真田家の灯火消えゆ」と嘆いたと言われています。
ここまで、小松姫の逸話のいくつかをご紹介しながら、小松姫の性格を考えてきました。
真田信幸の小松姫の死に対する言葉は、小松姫の性格と小松姫の貢献に対する最大の賛辞なのかもしれないですね。
関ヶ原の戦いで親子敵分裂
昌幸・信繁父子は豊臣方につき、長男・信幸は徳川方につき戦ったが、関ヶ原の戦いは徳川方の勝利に終わり、昌幸・信繁は高野山に幽閉されます。
昌幸はここで没し、信繁は豊臣方に味方して大坂城に入り、冬の陣・夏の陣において戦い討ち死にしました。
信幸(信之)は父・弟と別れて徳川方につき、その功によって父・昌幸が築いた上田城とその領地を継ぐことを許されました。
元和8年(1622年)には松代に転封となり、松代10万石、上州沼田3万石を与えられました。
後に信之の長男・信吉に沼田領を、次男・信政に松代領を継がせたことで、真田家は2家に分かれます。
沼田の真田家は江戸時代中ごろに4代で改易となりましたが、松代の真田家は、廃藩に至るまでの250年間、10代の藩主が北信濃四郡を支配しました。
信之をはじめ歴代の藩主は、町づくりや産業振興に力を尽くす一方、質素倹約を励行するとともに文武を奨励し、風情と落ち着きのある現在の城下町・松代の礎を築きました。