美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

光源氏 相関図2

紫式部『源氏物語』若き光源氏を襲う波乱の設定の凄さの相関図No2

投稿日:2024年3月28日 更新日:

 光源氏を襲う波乱を巡る人間関係を見てみよう。

相関図No1で見るように、光源氏桐壺帝桐壺更衣の間に誕生したが、3歳の時に母は死んでしまう、桐壺帝は桐壺更衣を失って悲しみに沈んでいた帝であったが桐壺更衣によく似た藤壺という女性に恋し妃として迎えた。

       ▲相関図No.1

 

光源氏にとっては、藤壺は義母であるが母によく似た彼女に強く心を惹かれ慕うようになっていく。

 

 

やがて元服を迎えた光源氏は左大臣の娘・葵の上と結婚するも、気位が高いため当の 光源氏とは打ち解けることが出来なかった。

 

 

成人した光源氏は、理想の女性を求め母によく似た藤壺に思いを募らせていき、母の面影を求めて幾多の恋愛をするも、してはいけない義母・藤壺と恋愛関係に落ちいっていく。

というのが紫式部が設定したストリーの始まりであった。

 

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超えてはいけない禁断の恋

藤壺と夢のような逢瀬、その代償は父・帝への裏切りになる。

光源氏が若紫と出会った頃、藤壺は体調を崩して宮中から三条宮へと里下がりしてた、これを知った 光源氏は、女房に手引きを依頼して藤壺の寝所に入り込む。

 

 

焦がれた女性との逢瀬に、光源氏は「このまま夢の中に消えてしまいたい」と涙するが、対する藤壺はこれが世に知られてはと苦悩する。

 

 

藤壺は帝が深く愛する妃で、光源氏にとっては義母である間柄です。

二人は二重の禁忌(きんき)を犯してしまったのです。

 

 

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しかし、この過ちによって藤壺は懐妊してしまいます。

帝は当然自分の子と思って喜ぶが、藤壺は激しい罪の意識にさいなまれます。

 

 

 

皇子として育てられる光源氏の子

そうしたなか、光源氏は紅葉賀で、頭中将とともに「青海波」を披露した。
波模様の衣装を纏った光源氏は、藤壺を思いつつ舞う。

 

 

帝を始め人々は感動して涙した。

やがて藤壺は皇子を出産する。

 

 

これが 光源氏そっくりの容貌であったため、藤壺は裏切りが露見するのではないかと心乱れたが、帝は気にもとめず美しい者は似てるものだと可愛がる。

 

 

そしてこの皇子をいずれは東宮にと考え、藤壺の地位を上げて中宮とした桐壺帝であった。

 

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その一方で、光源氏は危険な恋に足を踏み入れた。

桜の宴の夜に気まぐれに関係を持った朧月夜は、弘徽殿女御の妹だった。

 

 

紅葉賀・花宴の舞台で 光源氏と頭中将が美しい舞を披露し、紫辰殿前の桜を中心に花宴が行なわれる宮中、表向きは華やかだが、藤壺が光源氏との子を生み、光源氏と朧月夜との危険な恋ののめり込むなど、複雑な人殿関係が生じていた。

 

 

光源氏の妻・葵の上の死

藤壺の出産から2年後、桐壺帝は帝の位を弘徽殿女御との間に出来た皇子・朱雀帝に譲って桐壺院となる。

 

 

この頃、光源氏の正妻・葵の上は子を懐妊した。

これをきっかけに、お互いに馴染めなかった夫婦仲も、ようやく心が通うようになってきた頃、折悪しく車の所争いの事件が起きる。

 

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葵祭りの日、光源氏の姿をひと目みようと、六条御息所は網代車で出かけた。

 

 

するとそこに、葵の上の車もやってきて鉢合わせをしてしまった。

お互いの従者たちが我先にと争った末に、六条御息所の車は力ずくで押しやられてしまった。

 

 

屈辱を受けた六条御息所の恨みは生霊となって葵の上に取り憑き、葵の上は床に臥せりがちになり、男児を産むものの命を落としてしまった。

 

 光源氏の失脚と復権を巡る相関図です。

     ↓

       ▲相関図No2 

 

 

 光源氏の正妻・葵の上の死

葵の上の死を悲嘆に暮れる光源氏の心を埋めたのは、14歳になった若紫の美しさでした。

 

 

光源氏はそんな若紫と枕交わして結婚した。

しかしこの結婚は正式な手順を踏んだものではなかったので、若紫に慣れ親しんだ光源氏にとって、手続きなどは、ことの次であったのでだろうが、女性の成人式である裳着の儀式が、後回しになったのである。

 

 

世間的には軽んじられたも同然の扱いであった。

 

 

-光源氏 相関図2

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。