我が岩村町の八幡神社に祀られてる加藤景廉と、武並神社に嫡男・遠山景朝が祀られている故郷には、10月第一土・日に武並神社から八幡神社に親子対面に行く一泊2泊の行列が催じられる。
鎌倉時代に地頭を命じられた御家人・加藤景廉とは
美濃国岩村の遠山荘に地頭を命じられた加藤景廉は、他にも源 頼朝から遠州浅羽、伊豆牧之郷等ともに美濃国岩村の所領を与えられる。
加藤景廉(1166年〜1221年)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけた武将で鎌倉幕府の御家人。
▲岩村町山上にある腰掛け岩に腰を下ろしている「加藤景廉」
出自は伊勢国の加藤氏の館は、安濃津の近くの下部田(現在の三重県津市南羽所)にあったと言われていますが、明確なことは不明です。
平氏との争い、すなわち源 頼朝が源氏の旗揚げの時、父加藤景員、兄加藤景正にしたがって伊豆の国に下って狩野茂光(かのもちみつ)らの協力を得て土着勢力となって働いた。
スポンサーリンク
嘉応2年(1170年)に伊豆諸島で勢力を伸ばした源 為朝討伐に従軍し、大敗した為朝は自刃(じじん→刀物で自分の生命を立つこと)した、為朝の首をはねて、戦功を挙げたと伝わる。
治承4年(1180年)に源 頼朝が平氏を打倒のため挙兵すると、いち早くはせ参じて平氏の目代山木兼隆を打ち取る大功を立てた。
▲源頼朝から長刀をもらう。『山木館の月』月岡芳年『月百姿』兜を囮にして山木兼隆に
斬りかかる加藤景廉
源 頼朝が石橋山の戦いに敗北した後、加藤景光と共に甲斐国大原荘(現在の冨士吉田市、富士河口湖町)に逃げるが、やがて武田氏と共に駿河国に侵攻、鉢田の戦い目代橘遠茂を攻め滅ぼす。
その後源 頼朝は関東を制圧して鎌倉殿と称されるようになり、加藤景廉は側近として頼朝に仕えた。
以後、鎌倉幕府を創設するのに献身努力し、頼朝から遠州浅羽、美濃国遠山(恵那市とその周辺)、伊豆 牧之郷等の所領を与えられ、岐阜県美濃国遠山地方の要衝(ようしょう→軍事・交通・産業のうえで大切な地点。)岩村(岐阜県恵那市岩村町)に城を築いた。
病持ちであったとみられ、寿永元年(1182年)6月7日鎌倉由比浦で弓馬の芸の披露が行われた後の披露が行われた後の宴席で気を失い、佐々木盛綱が大幕で景廉を包み抱えて運び出したという。
翌日、頼朝が車大路の景廉の家へ見舞いに訪れている。
元暦元年(1184年)から翌年にかけての源 頼朝率いる平氏追討に病身を押して参加、頼朝の賞詞を得る。
その後の奥州合戦でも戦功を立てた。
頼朝の信任は厚く、建久4年(1193年)頼朝の命により安田義資を誅死し、その父安田義貞の所領 遠江国 浅羽庄地頭職を与えられた。
のちに加藤景廉の嫡男加藤景朝(のちに遠山景朝:とおやまかげとも)に城を譲り牧之郷に帰ると、源平の合戦で亡くなった人達の精霊供養のため、読経三昧に明け暮れた。
源 頼朝が死去した後、正治2年(1200年)に梶原景時の変で梶原景時が滅ぼされると、これと親しかったため一旦は連座(他人の犯罪により連帯して処罰されること)して地位を失う。
建仁3年(1203年)9月の比企能員の変において、北条時政の命で比企能員を謀殺している。
その後も和田合戦などの諸戦で幕府方として働き、再度元老の座に帰り咲いた。
3代将軍源 実朝が暗殺された際、警備不行き届きの責任を感じて出家し覚仏と改名した。
その他にも美濃国恵那郡遠山荘(現在の岐阜県恵那市・中津川市の大部分と瑞浪市の陶地区)も領地として与えられた。
恵那市岩村町の八幡神社には加藤景廉が祭神として祀られており、岩村町歴史資料館には加藤景廉公の神像が保存されています。
兄の加藤景正は、元久元年(1204年)三日平氏に乱で平家残党を追討した賞を受け、西面武士として剣非違使(けんびいし)に任じられ、大夫判官と称した。
スポンサーリンク
承久の乱とは?
その後伊勢守となり、承久3年(1221年)の承久の乱では、京方に属したため所領の加藤景正の伊豆国狩野牧は没収され、加藤景廉に与えられた。
没年は不明だが、乱後まもなく死去した。
加藤景廉の子で、岩村城主遠山景朝の領地である美濃国恵那郡遠山荘の明知(現在の恵那市明智町に、光員一族の墓とされる五輪塔が存在しています)
承久3年(1221年)の承久の乱(首謀者の事が書いてありるページがあります。興味ある方はクリックしてください)において、宿老(年老いて経験を積んだ人)の一人として鎌倉留まったが、景廉は8月3日に没した。
現在は、毎年牧之郷では8月3日に供養祭を行っており、加藤景廉公を神として祀っている岐阜県恵那市岩村町より関係者を招き加藤景廉公を偲んでいる。
岩村町では「秋まつり」として8月の第1土曜・日曜に加藤景廉が祀ってある八幡神社に遠山景朝が祀ってある武並神社から一泊で親子対面に行く行事である。
▲岩村町の秋まつり(加藤景廉と景朝の)