そうなんです。20年も早く天下を取っていたんです。
三好長慶は、戦国時代に織田信長に先駆けて畿内(現・近畿周辺)を制覇し、足利将軍を凌駕する権力を握った「戦国最初の天下人」と評価される武将です。
三好長慶は松永久秀らを従え畿内を制覇し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと続く「天下人」の先駆者として、近年学術的に非常に高く評価されています。
三好長慶が擁立(奉じて)上洛した氏綱とは、戦国時代の畿内で有力な守護大名であった細川氏の分家、細川野州家(やしゅうけ)の当主、細川氏綱(ほそかわ うじつな)のことです。
天文18年(1549年)同月28日、足利義晴は細川晴元に伴われ、足利義藤(義輝)をはじめ、近衛稙家や久我晴通などの公家衆、細川元常らをとともに、近江坂本の常在寺に入った。
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その後、彼らと入れ替わる形で、7月9日に三好長慶が細川氏綱を奉じて上洛した。
長慶は足利義晴と細川晴元を京より追い払ったものの、摂津では伊丹親興が抵抗を続けたため、こちらとの戦闘に注力した。
その間、12月12日には細川氏綱の命令と称して、堺を除く摂津欠郡に徳政を出すなど、長慶は摂津での支配を固めた三好長慶の主な功績と特徴としては
1三好長慶は.最初の天下人:として、1550年代〜1560年代、細川晴元の重臣から頭角を現し、足利将軍を京都から追放して、実力で畿内の支配を確立しました。
2.強固な領国経営:は、弟の三好実休、安宅冬康、十河一存らと強力な連携を見せ、四国から畿内に至る広大な領地を統治しました。
3.先進的な都市支配、経済の中心地であった堺を直接管理下に置き、経済・政治・軍事の機能を分担させるシステム(飯盛山城、芥川山城、勝瑞城など)を構築しました。
4.文化・宗教への理解もあり、キリスト教の布教を許し、連歌や茶の湯を好むなど、先進的な文化を取り入れました(河内キリシタンの祖)。
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戦国時代の「最初の天下人」といえば、誰もが織田信長を思い浮かべるでしょうが。
しかし、信長が京都にのぼる20年も前に、すでに畿内を平定し、独自の幕府外政権を築き上げた武将。
その名は、阿波出身の英雄・三好長慶(みよし ながよし)です。
なぜ、教科書では「信長の先駆者」として語られるに留まっているのでしょうか?
実は、信長が後に実施した「将軍追放」「キリスト教保護」「経済都市・堺の直轄化」といった革新的な政策の多くは、すでに三好長慶が実現していたものばかりでした。
この記事では、信長に先んじて天下の土台を作った三好長慶の凄さと、彼が「真の初代天下人」と呼ばれる理由を、信長との比較を交えて分かりやすく解説します。
この記事を読めば、あなたの戦国時代の常識がガラリと変わるはずです。
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三好長慶とは
三好長慶(みよしながよし)は、戦国時代の武武将で、畿内・阿波国の戦国大名で、室町幕府の摂津国守護代、相伴衆※1でした。
どうして摂津国の守護代を務めていたかというと、摂津国の守護は細川家でしたが、当主は京都に詰めていたため、三好家が守護代を務めていた。
※1.相伴衆(そうばんしゅう)とは、室町幕府における役職的な身分の一つです。
将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事。
菅領家の庶家や有力守護大名に限定されていたため、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映されて管領に次ぐ席次を与えられるようになった。
ただし、三菅領家も社会的身分として相伴衆中の上位に位置付けられていたとする見方もあります。
室町時代には国持衆から相伴衆への昇格は非常に難しく、足利義澄が若狭武田氏を相伴衆に引き上げようとした際に管領細川政元が激しく抵抗した結果、相伴衆の昇格を取りやめる代わりに武田元信を従位にすることで妥協しています。
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【室町幕府の重鎮大名】
将軍の外出などに守護大名が随従する慣習は足利義満の頃には成立していたが、役職・身分としての相伴衆の成立は足利義教の永享年間であると推定されている。
すなわち、「相伴衆」といえば以下の七家の当主を指しています。
山名氏;但馬・備後・安芸国の守護。侍所所司。四職家。
一色家:丹後・伊勢・三河の守護。侍所所司。四職家。
畠山氏(匠作家):能登の守護。三管領家の庶流。
細川氏(讃州家):阿波の守護。三管領家の庶流。
赤松氏:播磨・備前・美作の守護。侍所所司。四職家。
京極氏:出雲・隠岐・飛騨の守護。侍所所司。四職家。
大内氏:周防・長門・豊前・筑前の守護。
このうち『宗五大草紙』等における格式・礼式の規定を見ると、赤松・京極・大内の3家は相伴衆中では下位に位置づけられていたようです。
また、応仁の乱後(15世紀末)には土岐氏(美濃の守護)も相伴衆に加えられていたとする説もあります。
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織田信長より早い!三好長慶が「最初の天下人」とされる根拠
大永2年(1522年)細川晴元の重臣である三好元長の子として現在の徳島県三好市で生まれました。
父の三好元長は細川晴元の有力な重臣で堺公方の樹立に貢献した人物でしたが、細川晴元・三好政長・木沢長政らの策謀で、蜂起した一向一揆によって、享禄5年(1532年)に殺害されてしまいます。
長慶は当時10歳で両親と共に堺にいましたが一向一揆襲来前に母と共に阿波へ脱出しました。
その後、一向一揆の勢力は暴走し、細川晴元でも抑えることができず、細川晴元・六角定頼・法華一揆の連合軍対浄土真宗本願寺勢力が戦った山科本願寺の戦いが発生します。
『本福寺明宗跡書』によると、天文2年(1533年)長慶は一向一揆と細川晴元の和睦を仲介したといわれています。
当時、長慶は12歳だったので交渉自体は、名を借りて代理の者がした可能性もあります。
天文3年(1534年)長慶は本願寺に味方して細川晴元軍・三好政長軍と戦っていましたが河内守護代でもあった木沢長政の仲介で父を殺した細川晴元の家臣になります。
天文8年(1539年)長慶は父が就ていた河内十七箇所の代官職に任命するよう迫りましたが晴元に拒否されます。
この役職は父の死後、長慶の同族ながら政敵であった三好政長が任命されていました。
天文10年(1541年)長慶は独自に菟原郡都賀荘から段銭徴収を行い※2ました。
※2.菟原郡都賀荘から段銭徴収を行いとは、三好長慶が「独自に菟原郡都賀荘から段銭を徴収した」という出来事は、戦国時代における「戦国大名が、伝統的な荘園領主の権利を無視し、実力で年貢や税を横取りする」という支配構造の転換を示す典型的な事例です。
晴元から停止を命じられますが無視したため、対立が深まりました。
同年、木沢長政が細川晴元と対立、太平寺の戦いが発生、三好長慶は細川晴元の側につき、細川晴元軍が勝利しました。
この戦いで畿内で権勢を振るっていた木沢長政が討ち取られ長慶の勢力が強まりました。
その後、「細川晴元は敵対していた細川高国派の武将も排除し細川政権は安定するかに思われた。
天文17年(1548年)長慶は三好政長を討つため晴元に訴えました。
討とうとした理由は諸説あります。
しかし、晴元は受け入れなかったため、かつて敵であった細川氏綱・遊佐長教と結び、江口の戦いで三好長慶軍3,000と三好政長軍3,000が衝突して、三好長慶軍が勝利し、細川晴元と前将軍・足利義晴・第13代将軍・足利義輝が追撃を恐れ近江の坂本まで退避しました。
これにより細川政権は事実上崩壊し三好政権が誕生します。
これに対し足利・細川の勢力は徹底抗戦の構えを見せます。
中尾城の戦い・愛国寺の戦いと先頭が起こりました。
しかし、長慶は着実に勢力を拡大し、天文22年(1553年)京都を長慶の支配下にしました。
これにより、三好長慶は幕府に代わり書状発給を行うなど、実質的な天下人として振る舞っていました。
永禄元年(1558年)足利義輝と細川晴元が京都奪還を目指し挙兵、北白川の戦いが勃発します。
しかし、戦局は長慶が優勢であり、和睦で戦いは終結。
以後は対立から一転して幕府と協調関係になります。
長慶は全盛期を迎え、摂津を中心に山城・丹羽・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨・河内・大和などに勢力が及んでいました。
また、永禄3年(1560年)居城を芥川山城から巨大な山城の飯盛山城へ移しています。
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三好長慶の危機
しかし、永禄4年(1561年)に長慶の弟の十河一存が急死すると状況が一変します。
一存が急死したため、和泉支配が脆弱となり、その隙をついて晴元の次男・晴之を盟主に畠山高政と六角義賢が挙兵して南北から三好家に攻撃したことで久米田の戦いが起こります。
久米田の戦いは、畠山高政・六角義賢連合軍の勝利に終わり、長慶の弟・三好実休が討ち取られました。
ちなみに長慶は戦いの間飯盛山城にいました。
しかし、永禄5年(1562年)戦国時代における畿内最大の戦い「教興寺の戦い」では三好長慶が勝利し、敵の畠山高政を追放して支配圏を取り戻す事に成功します。
ところが、衰退を止める「ことはできませんでした。
永禄6年(1563年)唯一の嗣子である三好義興が22歳で亡くなってしまう。
三好長慶は十河一存の息子である三好義継を養子に迎えました。
また、名目上の主君であった細川氏綱や細川晴元も病死し三好政権は政権維持のため、形式的に必要だった管領を失う事になります。
そして、永禄7年(1564年)三好一族の生き残りであった安宅冬康※3を三好長慶が殺害してしまいます。
※3.安宅冬康(あたぎふゆやす)とは、三好氏の家臣で三好元長の三男。安宅氏に養子の入り淡路水軍を統率し、三好政権を支ええたが、兄に殺害された、
経緯・理由については様々な見解があり不明な部分が多いが、側近の松永久秀による戯言(嘘の報告)を信じたこと、または、長慶が精神的に衰弱していて弟の勢力を恐れたためと言われています。
長慶は後継者・義継の権力集中や、弟・冬康の謀反を疑い切腹を命じました。
細川晴元の重臣・三好元長の三男で淡路国の水軍衆である安宅氏の養子となって、穏やかで優しい慈の将であり人望が高かったという。
殺害した理由は貶める告げ口を聞き実の弟に切腹を命じて殺害、当時、長慶はうつ病になっていたという説があります。
同じ年、長慶は飯盛山城で病死してしまいます。43歳でした。
全盛期は畿内の支配者として君臨しましたが、三好家は衰退し晩年は精神を病み最後を迎えた人生でした。
長慶の死後・三好三人衆
長慶の死後、養子の三好義継が若かったため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役となりましたが、久秀は独自に動くようになり3年間内紛状態に陥り、さらに三好三人衆は信長に敗れ三好政権は崩壊しました。