美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

慶の背中の傷

【豊臣兄弟の窮地】安土築城の光と手取川の惨劇中!妻・慶が隠し続けた「背中の傷」と禁断の秘密

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信長から褒美として羽柴の名を名乗り長浜城という拠点を手に入れた。

「豊臣兄弟」が、有能な家臣等を集める中、織田信長が天下統一を突き進むにあたり信長の嫡男・織田信忠への代替わりを行い信長は、象徴ともいえる安土城を築城。


そして北陸で柴田勝家と秀吉の決定的な亀裂、手取川では軍神・上杉健診を相手に柴田勝家が絶体絶命の危機に陥り、さらには秀長は慶(ちか)の衝撃の過去と秘密に迫ります。


妻・慶がひた隠しにしていた悲しい過去とは一体何なのか?

 

信長は「わしは安土へ移る」そして宣言通り近江国安土山に巨大な城の築城に着工します。

天正3年、織田信長は嫡男・信忠に家督を譲り、天下人への象徴として壮麗なる「安土城」の築城を開始する。

 

 

近江国安土山に巨大な城の築城に着工し、その巨大な城の総普請奉行として丹羽長秀が任命されます。

信長が目指す天下一統を見据えた巨大な城は宣教師ルイス・フロイスが「ヨーロッパの塔よりも気品があり壮大だ」と絶賛した。

 

 

世界を驚愕させる黄金の天守が姿を現す一方、織田軍の北陸進攻には暗雲が立ち込めていた。

 

 

最強の宿敵・上杉謙信の軍才と、手取川方面に織田軍が向かった。

そして総大将・柴田勝家と副大将・羽柴秀吉の決定的な亀裂が勃発。

 

 

軍律違反という死罪覚悟の暴挙に出た秀吉を救うべく奔走する小一郎だったが、追い打ちをかけるように最愛の妻・慶(ちか)に「敵方への内通疑惑」が浮上する。

 

 

慶(ちか)がひた隠しにしてきた、あまりにも哀しく、残酷な過去とは。

豊臣一族の命運を懸けた、小一郎の「覚悟の決断」が今、試される。

 

 

 

宿敵・謙信と「秀吉離脱事件」

織田家が絶頂期を迎える中、北陸では筆頭家老・柴田勝家と羽柴秀吉の間に修復不能な溝が生まれていました。

 

 

作戦を巡る激しい対立の末、秀吉はあろうことか戦線を無断離脱してしまいます。

 

 

残された勝家軍は、増水した手取川合戦※1「軍神」上杉謙信の猛攻を受け、千人を超える死者を出す大敗を喫します。

 

 

 

※1.手取川合戦

天正5年9月23日(1577年11月3日)に加賀国の手取川で上杉謙信が織田信長を撃破した戦い。

 

 

手取川の戦いが起きたのは、織田信長の北陸攻略があった。
それに対抗したのが北陸の雄・上杉謙信、当時、北陸の北ノ庄(現・福井県)の統治を任されていた織田信の重臣・柴田勝家。

 

 

天正4年(1576年)に勝家は加賀国(現・石川県)へ侵攻を開始、目的は加賀一向一揆衆の鎮圧と加賀国の平定でした。

 

 

この動きに危機感を募らせた謙信は、織田軍を迎え撃つために越前国から南下。

 

 

 

この北陸の能登国と越中国を結ぶ要所にある、能登国の七尾城を務めていたが、天正2年(1574年)7月に守護・畠山義隆が死去し、幼児だった畠山春王が城主となった。

 

 

しかし、幼児だったため重臣の長続連と嫡男・綱連、父子が実質的な采配を執っていた。

 

 

 

天正4年(1576年)、越後国の上杉謙信は能登国を支配に置くために、2万余の軍を率いて侵攻したが七尾城は堅城だったため、この戦いは翌年の天正5年(1577年)7月までもつれ込み、あまりの防御力の高さに謙信は撤退する、

 

 

しかし、城内は長きに亘って籠城したため糞尿の処理が追い付かず衛生状態が劣悪し城内に疫病が蔓延状態になり、結果城主だった畠山春王が病死してしまった。

 

 

このような状態で再度、謙信がせめて来たら敗北と思い、長続連は三男・長続龍を織田信長の元へ救援を送りました。

 

 

信長は救援依頼を即座に快諾し、柴田勝家を総大将に据え、副大将を羽柴秀吉、重臣・丹羽長秀や前田利家らからなる総勢40,000万の軍勢を構成、8月8日に援軍を派遣させました。

 

 

一方、七尾城内では謙信の調略により謀反者が出て、長続連が実験を握っている不満を募らせた畠山家の重臣達。

 

 

9月15日のこと、織田軍が到着する以前のことです。
織田軍は七尾城の落城を知らないまま、上杉謙信の軍勢が迫る中、織田軍内部で戦闘意欲の低下や連携の乱れが生じていました。

 

 

秀吉はこれ以上の戦闘は不利かつ無意味と判断し、信長の許可を得ることなく独断で軍をまとめて離脱してしまいました。

 

 

秀吉が去った後の織田軍は態勢を立て直せず、上杉謙信の急襲を受け、手取川で多数の溺死者を出すなど歴史的な大敗北を喫しました。

 

 

総大将・柴田勝家らと軍議で対立した羽柴秀吉が取った行動は信長の許可なく独断で戦線を離脱した。

 

 

上杉謙信の圧倒的な強さを前に意見がまとまらず、見切りをつけて自軍を撤退させたとされています。

 

 

この離脱行為は本来であれば信長の逆鱗に触れてもおかしくない行動でしたが、この時期の信長は他方面の戦いにも忙殺されており、結果的に大きな処分は免れました。

 

 

秀吉のこの判断は軍事的な勝機を見極めた結果とも言われますが、味方の危機を見捨てて撤退したという点でも大きな波紋を呼んだエピソードです。

 

 

 

処罰どころか褒美とは?

秀吉に死の影が忍び寄る中、弟・小一郎は兄の失態を拭うために奔走しますが、さらなる悲劇が彼を待ち受けていましたが、信長は秀吉に対して特段の処罰を出していない。

 

 

『信長公記』でも記されているように、柴田勝家軍を派遣した直後、天正5年(1577年)8月17日、松永久秀が信貴山城に立てこもって謀反を起こす一大事が勃発した。

 

 

このような局面では秀吉の処罰どころではなかった、久秀の説得は松井友閉に任せたが効果なし、9月27日に嫡男・信忠を進軍せせた。

一週間後、松永久秀は天守に火を放って自害する。

 

 

罰として信長は、秀吉に対して播磨への出陣を申しつけており、10月23日に出陣した秀吉は、名誉挽回のため播磨と但馬を約2ヶ月で制圧した。

 

 

この働きにすっかり気を良くした信長は、秀吉に褒美として「乙御前の釜」を贈った。

 

 

 

秀長の正妻・慈雲院とは

慈雲院は、豊臣秀長の正妻と言われる人物だけど、出自と実名はハッキリしてないが、法名については、文化6年(1809年)成立の『森家先代実録』※2に智勝院(秀長の養女)の養母、すなわち秀長の正妻の名として「智雲院とあるが‥‥。

※2.森家先代実録とは、赤穂藩主森家が編纂した森家の歴史。全28巻(附津山城図3枚)・補遺2巻。

 

 

一方、天正19年(1591年)5月7日、高野山奥之院の豊臣家の墓所に逆修造立された石塔には「大納言殿北方」(秀長の正妻)として「慈雲院芳室紹慶」とあり、柴裕之※3河内将芳※4は秀長の妻の法名としてこの名を挙げています。

 

黒田基樹※5も秀長の正妻の名は智蘊院ではなく「慈雲院殿」が正しい殿っています。

※3.柴裕之とは、日本の歴史学者。博士(文学)。日本の中世末、特に戦国時代の政治・軍事史を専門をしている。

※4.河内将芳とは、日本の歴史学者。奈良大学教授。専門は日本中世史。室町・戦国期〜織豊政権下の京都についての著作が多い。また、これまで体系的の研究されてなかった、豊臣秀吉・秀頼父子の造立した方広寺大仏についての研究を行っています。

※5.黒田基樹とは、日本の歴史学者。学位は博士(日本史学)(駒澤大学・論文博士・1999年)。駿河台大学法学部教授。専門は日本の戦国時代・織豊時代史で、相模後北条氏や甲斐武田史に関する研究を展開する。

 

 

 

 慶(ちか)にスパイ容疑と「隠れ里」の真実

兄・秀吉が窮地に立たされる最悪のタイミングで、小一郎の妻・慶(ちか)に内通の疑いがかけられます。

 

 

「慶様が、密かにある村へ通っている‥‥敵方との内通の疑いがある」というので小一郎は。

 

戦国時代、武将の妻が実家やかつての縁故を通じてスパイ活動を行う事は珍しくありませんでした。

 

 

ましてや今の羽柴家は、信長から北近江を任されたばかりで周囲には、まだ旧浅井勢や反織田の火種が残っています。

 

 

戦国時代において正室が敵方と通じることは一家滅亡を招く重罪、しかも秀吉が信長の逆鱗に触れている最悪のタイミングです。

 

 

兄が戦場で命を懸けている時に、自分は一番信じたい相手を疑わなければならない、小一郎にとってこれほど残酷な役回りはありません。

 

 

「密かにある村へ通っている」という報告を受けた小一郎は、自ら真実を確かめるべく、人里離れた村へと向かいます。

 

 

そこで目にしたのは、小一郎の前では決して見せたことのない、慶(ちか)の慈愛に満ちた笑顔と、一人の幼き少年の姿でした。

 

 

 

背中の傷に秘められた母、小一郎の命懸けの嘘

慶(ちか)が頑なに隠し続けてきた背中の無残な刀傷。

それはかつて信長の軍勢から、亡き前夫・堀池盛能との子・与一郎を守り抜いた「母の証」でした。

 

 

与一郎の存在が露見すれば、織田の敵の忘れ形見として殺されてしまう――。

 

 

愛妻・慶にかけられたスパイ容疑と「隠れ里」の真実、絶望する慶(ちか)に対し、小一郎は残酷な真実をすべて包み込む決断を下します。

 

 

「そなたの過去ごと、わしが丸ごと守り抜く」 それは、与一郎を実子と偽るという、信長に対する命懸けの叛逆。一族の命を秤にかけ、小一郎が選んだ愛の形とは。

 

 

 

与一郎

慈雲院殿が秀長の子を産んだかどうかも、当時の史料では確認できないが、二人の間には、秀長の最初の嫡男・与一郎を含め一男二女の子どもがあった可能性が高いと考えられている。

 

 

与一郎は、天正10年(1582年)には早世しているが、「与一郎」という元服後に称する仮名(けみょう)を名乗っていることから、没した時は元服していたと判断される。

 

 

ここから当時の一般的な元服年齢である15歳をもとに逆算すると、与一郎は永禄11年(1568年)生まれと推定される(以上は黒田基樹※5「知られざる秀長の妻「慈雲院殿」の実像」)。

 

小一郎は感情的に慶(ちか)を問い詰めるのではなく、自ら真実を確かめるために慶(ちか)が通うという隠れ里のような村へと向かいます。

 

 

その村の古びた家で小一郎が目にしたのは慶(ちか)が老夫婦と会話している姿でした。

 

 

その姿は自分の前では一度も見せたことのない慶(ちか)の慈愛に満ちた笑顔でした。

 

 

実はこの二人、かつて美濃の斎藤家に仕えていた慶(ちか)の前夫・堀池盛能の両親、つまり慶(ちか)にとっての元義理の父母だったのです。▼

 

 

慶(ちか)の父・安藤守就は美濃三人衆の一人として斉藤龍興に仕えていましたが、小一郎の調略の応じて織田方に寝返りました。

 

 

この寝返りこそが名門・斎藤家の滅亡を決定づけ主家が滅んだことで斎藤家に忠義をつくしていた堀池家は没落、今は侍の身分を捨て慣れない農作業に明け暮れる日々をおけっています。

 

 

慶(ちか)にとって自分の父が裏切ったことで堀池家を破滅に追い込んでしまったという事実は消える事のない心の傷となっていました。

 

 

さらに小一郎を驚かせたのは、その村にいた与一郎という名の幼い少年の存在でした。▼

 

 

与一郎は、亡き前夫・堀池盛能との間に生まれた滅亡した堀池家の生き残り、今、与一郎は人里離れた、この村で堀池夫婦の子として育てられていたのです。

 

 

そして、慶(ちか)が決して人にみせようとしなかった、あの背中の無惨な刀傷の真相も明かされます。▼

 

 

数年前、織田軍の追手から赤子だった与一郎を逃がすため慶(ちか)は自らの身体を盾にしました。

 

 

その時、信長の軍勢によって刻まれたのが、あの深い傷だったのです。▼

 

 

なぜ慶(ちか)「は心を開かなかったのか、」なぜ背中を隠し続けたのか、その全てが繋がります。

 

 

もし小一郎に心を開き、背中の傷を見せれば子供の存在が露見してしまう。

 

 

織田の家臣である小一郎に「知られれば、与一郎は敵の忘れ形見として即座に殺されるかもしれない。

 

 

慶(ちか)の冷徹さは母親として、我が子の命を守り抜くための必死の防壁だった、全てを知られた慶(ちか)は、絶望の淵で小一郎に短刀を渡します。

 

 

「殺すがよい、だが、この子だけは‥‥!」と叫ぶ慶(ちか)の姿には、もはや武家の女としての理性はなく狂気にも似た母性だけが溢れていました。

 

 

しかし、小一郎はそんな慶(ちか)を静かに「抱きしめてこう告げます。

 

 

「わしは慶(ちか)のことを、何もわかっとらんかった!その傷も、この子も、そなたの過去ごとわしが丸ごと守り抜く」

 

 

この言葉は単なる愛の告白ではありません。

小一郎(秀長)は、ここである命がけの嘘を吐く決断を下します。▼

 

 

小一郎の一生涯の嘘

羽柴与一郎は、天正10年(1582年)以前、豊臣秀長の嫡男として実名は不明。

羽柴秀長の実子で、嫡男とみられ、母は秀長の正妻の慈雲院殿に推定される。

 

 

与一郎は同時代史料では見られず、江戸時代に成立した文献『森家先代実録』と『高山公実録』でその存在が伝えられ、それらの内容については信用できるとされる。

 

 

それは与一郎を実子として届け出ること。

この時代、敵方の血を引く子供を自分の跡取りとして偽ることは、主君・織田信長に対する重大な叛逆行為です。

 

 

もし露見すれば、羽柴家一族全員が処刑されてもおかしくありません。

 

 

小一郎は一族の命を秤にかけ、それでもなお目の前の妻・慶(ちか)と子・与一郎の命を選んだのです。

 

 

「与一郎を抱きしめとうございます」と泣きじゃくる慶(ちか)、しかし、そんな「覚悟の小一郎の前に堀池夫婦が立ちはだかります。

 

 

織田家に息子を殺され、さらに忘れ形見の与一郎まで連れ去ろうとするなど許せるはずがありません。

 

 

小一郎に弓を構える堀池頼昌、対して夫婦に覚悟と誠意を見せようとする小一郎。

 

 

 

-慶の背中の傷

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。