美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

高城攻め

豊臣秀長が包囲した高城跡とは?九州征伐の史実と『豊臣兄弟!』で話題のボランティアガイド

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NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の放送決定をきっかけに、宮崎県木城町にある「高城跡(たかじょうあと)が大きな注目を集めています。

  ▲日向国の要衞:高城跡(宮崎県木城町)

 

天正15年(1587年)の九州征伐において、豊臣秀吉の弟・秀長が約8万の圧倒的軍勢で包囲し、島津軍との決戦の舞台※1となったのがこの高城です。

※1.島津軍と秀長軍の決戦の舞台となった場所とは、日向国(現・宮崎県児湯郡木城町)で戦った、高城及びその南側の根白坂(根白坂の戦い)で、天正15年(1587年)に豊臣秀長の九州平定の一環として激突が起きた舞台です。

 

本記事では、秀長の手腕が光った高城包囲戦の凄まじい史実と戦術を分かりやすく解説。

さらに、ドラマを機に発足した「合戦遺構ボランティアガイド」の活動や、今こそ現地を訪れるべき見どころまで詳しくご紹介します。

 

 

 

豊臣秀長が挑んだ九州征伐の要衝「高城」とは?

天正14年(1586年)3月、大友宗麟※2は大坂へ上り、秀吉に謁見して、九州への出馬を請うた。

※2.大友宗麟とは、大友氏の21代当主。宗麟は法名。洗礼名は、ドン・フランシスコ。

中国明朝との外交では、「豊後太守源義鎮」、カンボジア国王からは「日本九州大邦主」、ポルトガル国王からは「豊後の王」と称された人物です。

鎌倉時代から南北朝時代にかけて、少弐氏・島津氏と共に九州の幕府御家人衆の束役として「権威を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の九州進出に対し、少弐氏と結び大内と抗争して、大友氏は豊後国と筑後国の守護に幕府より代々補佐され、いわゆる守護大名であった。

最盛期には、九州6か国を支配していたが、薩摩から北上してきた島津義久に敗れ、豊臣秀吉の傘下の一大名になった。

 

5月、大友宗麟が帰国すると、島津義久が北上を開始し、万余の大兵をもって筑前に侵攻し、岩屋城を攻めて、7月27日、高橋鎮種(入道紹運)以下700余人を壊滅させ、宝満山をも降した。

 

 

岩屋城の危急を聞いて、豊臣秀吉は、黒田官兵衛孝高を軍監として、毛利輝元・小早川隆景ら中国勢を急ぎ渡海させたが、岩屋城救援には間に合わなかった。

 

 

しかし、立花統虎のこもる立花城は落城をまぬがれ、8月25日、島津軍は筑前国から撤退した。

 

 

豊前では、8月黒田官兵衛が小倉城を降伏させると、多くの国人が出頭して恭順を誓い、長野三郎左衛門も馬ケ岳城を黒田孝高に明け渡した。

 

 

また中国衆は障子岳城を攻略し、加来嘉兵衛ら1,000人ほどがこもる宇留津城(築城町)も力攻めして壊滅させ、年内には包囲していた香春岳城の高橋元種を降伏させた。

こうして、岩石城のみを残して、豊前を豊臣秀吉の支配下に入れた。

 

 

天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉が小倉城に到着すると、翌日には馬ケ岳城に移り、軍を二手に分けて、自らは田川郡から秋月への道を進み、弟の羽柴秀長・黒田孝高・毛利輝元らは豊後から日向に進ませた。

 

 

馬ケ岳から伊田原に進んだ秀吉は、599人ばかりがこもる岩石城を力攻めして壊滅するのを見物し、筑前大隈に宿陣したところで、秋月種実父子が出家姿で命乞いに出頭したのを赦(ゆる)し、秋月城に移って、諸国人の出頭あいさつを謁見し、ひとまず知行を安堵した。

 

 

島津義久が屈服したあと、秀吉は九州の国割りを行い、秋月氏や高橋氏を日向国に移し、長野氏を肥後国に移した。

 

 

城井鎮房は伊予国に移すことにしたが、城井氏はこれを受け入れなかったという。

 

 

豊前の西部二郡(高橋氏旧領)は毛利勝信に与えられ、残る六郡は黒田孝高に与えられ、豊前の国人で、知行を安堵された時枝・広津・仲間・宮成氏は検地のうえをもって知行地を与えられ、黒田孝高の寄騎に編入された。

 

 

黒田孝高は馬ケ岳と妙見岳の中間に一城を築くよう命ぜられ、山国川口に中津城を築き、検地を実施した。

 

 

黒田氏の検地は、文禄期の太閤検地と比べると、それほど厳しいものではなかったが、多くの国人に牢人となるか百姓に身分に落とされるかの選択を迫るものであったから、国内に多大な動揺を生み、肥後国と同様の国一揆が発生した。

 

 

翌天正16年(1588年)、黒田・毛利氏は、吉川氏ら中国勢の応援を得て、城井鎮房・野仲鎮兼を中心とする一揆を辛うじて鎮圧し、城井一族を滅亡させた。

そして、黒田孝高は朝鮮出兵に取り掛かった。

 

 

 

日向国の命運を握る高城の価値

宮崎県児湯郡木城町に位置する高城は、日向国の中央を流れる小丸川の北岸、標高約60メートルの崖上に築かれた天然の要塞です。

 

 

南側と東側は断崖絶壁に囲まれ、西側にも深い谷が刻まれたこの地は、古くから日向の覇権を左右する軍事上の最重要拠点として機能してきました。

▲豊臣軍・秀長が取り囲んだ高城のイラスト「です。

 

かつて島津氏が耳川の戦いで大友氏を打ち破り、九州制覇への足がかりとしたのもこの高城です。

豊臣軍による九州征伐においても、日向路を縦断して薩摩の本拠地へ攻め込むためには避けて通れない最大の壁でした。

 

 

 

島津の名将・山田有信が守る堅城

この屈指の要衝を守っていたのが、島津家の重臣であり「島津の英将」と称された山田有信※3です。

※3.山田有信とは、島津氏の家臣。
元は平氏とされ武蔵有国の子・式部少輔有貫が文治年間に薩摩国へ下向し、日置郡山田の地を領して山田氏を名乗った。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐は始まり、豊臣秀長軍が日向にまで南下して来ると、有信はまたも高城に300余名の僅かな兵で籠城し、高城を取り囲む豊臣軍に抗し続けた。

島津軍本隊が豊臣軍に根白坂の戦いで敗れても尚、有信は島津義久への忠義を尽くすために降伏勧告をはねつけ続けたが、義久が説得したため、子・有栄を人質に差し出してようやく降伏した。

天正16年(1588年)には島津家の家老となった。
慶長14年(1609年)義久が病にかかると、自らが身代わりとなるよう神仏に願い、同年に病を得て死去した。

死後、義久は有信の棺の前で自ら焼香し、その死を惜しんだと言われる。

     ▲高城のイラスト

 

山田有信耳川の戦いでも高城に籠城し、大友宗麟の大軍を相手に城死守を貫いた実績を持つ智勇兼備※4城主でした。

※4.智勇兼備(ちゆうけん日)とは、優れた「知恵(智)」「勇気(勇)」の両方をあわせ持っていることを意味する四字熟語です。 

 

今回の豊臣軍による攻勢に対しても、山田有信は僅か数千の城兵とともに籠城の構えを固めます。

 

 

城内の士気は極めて高く、天然の険に頼るだけでなく徹底した防衛陣形を整えて迎え撃つ準備を進めていました。

この精鋭と強固な城砦が存在したからこそ、豊臣秀長も慎重かつ周到な攻城作戦を強いられることになります。

 

 

 

約8万の軍勢で完封!「高城包囲戦」の真実

日向国では、九州地方の近世史を考える上で大きな意味を持つ合戦がいくつも行われ、「木崎原の合戦」後には島津氏が三州(薩摩+大隈+日向)統一に本格的に動き出しました。

 

 

「高城(耳川)の合戦(大友-島津戦)」後には九州の軍事バランスが大きく崩れ、九州地方の全域が本格的な戦国状態となりました。

 

 

そして最後に「高城の合戦(豊臣-島津戦)」で島津氏が敗れて九州の戦国時代が終わりました。

日向国を舞台として、九州戦国時代の時代の流れが大きく変わったのです。

 

 

 

強攻を避けた兵糧攻めの全貌

日向路を進軍してきた豊臣秀長率いる約8万の大軍は、高城を無理に力攻めする策を避け、周到な包囲陣を敷きました。

 

 

秀長は城の周囲に三重の深い堀や土塁を瞬く間に構築させ、城内の将兵が指一本差し込めないほどの厳重な包囲網を完成させます。

 

 

さらに兵糧の搬入や救援の連絡を完全に遮断し、時間が経つほどに敵の体力を削ぐ「兵糧攻め」の体制を整えました。

無駄な味方の被害を抑えつつ敵の心理的余裕を奪っていくこの陣構えは、秀長の徹底した実務能力と冷静な戦術思想の賜物でした。

 

 

 

島津主力を粉砕した「根白坂の戦い」

高城の危機を知った島津義久・義弘らは、自ら精鋭約2万を率いて救出のために駆けつけます。

 

 

島津軍は包囲陣の隙を突いて夜襲を敢行しますが、秀長はこの動きを完全に見越していました。

 

 

高城の北方・根白坂に構えられた野戦陣地では、宮部継潤藤堂高虎、黒田官兵衛らが強固な柵と鉄砲隊を揃えて待ち受けていました。

 

 

島津得意の「釣り野伏せ」※5や決死の突撃も、陣地を活用した集中砲火と高虎らの力戦によって打ち砕かれ、島津軍は凄惨な敗北を喫して撤退を余儀なくされました。

※5.釣り野伏せとは、日本の戦国時代に九州の島津氏が使った偽装退却の戦術です。

少数の部隊でわざと負けたふりをして敵を誘い出し、両側や背後に隠しておいた伏兵で敵を囲んで一気に倒す作戦です。 

釣り野伏せのやり方

◇おとり(釣り):少数の軍が敵と戦い、わざと負けて逃げるフリをする。
誘引:怒った敵の軍が、調子に乗って追いかけてくる。
◇包囲(野伏せ):道のかたすみや茂みに隠れていた味方の軍が、敵のまわりを囲む。
◇反撃:逃げていたおとり軍も向きを変えて攻め、敵を全滅させる。

有名な戦い
◇沖田畷の戦い(1584年):島津家久が、数倍の人数を持つ龍造寺隆信の軍をこの作戦で倒した。
◇戸次川の戦い(1586年):豊臣秀吉の軍の先発隊をこの方法でおとしいれた。 

 

秀長が魅せた野戦築城と補給の手腕

根白坂での大勝と高城包囲の成功を裏支えしていたのは、秀長が発揮した圧倒的な野戦築城技術と兵糧補給のマネジメント力です。

 

 

秀長は前線に到着するやいなや、単なる陣幕ではなく永続的な城郭に匹敵する土塁や鹿角を速やかに組み上げ、敵の反撃を無効化する「野戦築城」を完遂しました。

 

 

また、8万もの大軍を九州の地で飢えさせず、絶えず兵糧や弾薬を行き渡らせたロジスティクス手腕こそが豊臣軍の真の強みでした。

 

攻め焦らず確実に敵を追い詰めた秀長の将器が、九州征伐の決定打を生み出したのです。

 

 

『豊臣兄弟!』で脚光浴びる高城跡のガイド

ドラマ決定で高まる現地への注目

2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の制作が発表されて以降、物語の主人公である豊臣秀長とゆかりの深い宮崎県木城町の高城跡に大きな注目が集まっています。

 

 

かつて九州征伐の天王山となったこの地に、全国の歴史ファンやドラマのファンが続々と関心を寄せ始めています。

 

 

この歴史的機運を活かそうと、地元では有志による合戦遺構ボランティアガイド団体が新たに立ち上がりました。

 

 

静かな山城であった高城跡は、秀長の手腕と武将たちのドラマを今に伝える貴重な歴史スポットとして、新たな脚光を浴びています。

 

 

 

ガイドが案内する主な見どころと遺構

ボランティアガイドの最大の魅力は、ただ景色を眺めるだけでは気づきにくい緻密な合戦遺構を、専門的な解説とともに体験できる点です。

 

 

高城跡には、秀長率いる8万の大軍が城を完封するために築いたとされる大規模な堀切や土塁、曲輪の跡が良好な状態で残されています。

 

 

ガイドの案内を受けることで、秀長がいかにして堅城を追い詰めたのか、そして激戦となった根白坂の戦いがどこで繰り広げられたのかといった位置関係が立体的に理解でき、当時の緊迫感をリアルに体感することができます。

 

 

現地を訪れる際のアクセスと事前準備

高城跡へ足を運ぶ際は、事前に交通手段や見学の準備を整えておくことが大切です。

現地まではJR日豊本線の高鍋駅から車やタクシーで約20分ほどの距離にあり、車の場合は東九州自動車道・高鍋ICを利用するのがスムーズです。

 

 

城跡内は山道や未舗装の散策路が多く存在するため、スニーカーなどの歩きやすい靴と動きやすい服装が必須となります。

また、
ボランティアガイドによる案内を希望する場合は、見学日の数日前までに木城町観光協会やガイド団体へ事前予約を済ませておくと、スムーズに現地散策を楽しむことができます。

 

 

 

まとめ

高城跡へ行って体感。

天正15年の高城の戦いは、豊臣秀長の圧倒的な軍事・補給手腕と、戦国武将たちの熾烈な駆け引きが凝縮された九州征伐のハイライトです。

 

強攻を避けた完封劇や、根白坂での激闘といった史実の背景を知ることで、現地に今も残る土塁や堀切の遺構はより一層の臨場感を持って目の前に迫ってきます。

 

 

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で脚光を浴びる今だからこそ、発足したばかりのボランティアガイドの解説とともに高城跡を歩き、秀長が魅せた「最高の右腕」としての凄みと歴史のロマンを体感してみてはいかがでしょうか。

 

 

-高城攻め

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。