美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

戦国時代の最強の武将は

戦国最強の武将は誰だ? 槍の達人から剣聖まで個人の武勇で選ぶ5人

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「戦国最強の武将」と聞くと、織田信長や武田信玄といった「優れた指揮官・軍師」を思い浮かべる方が多いかもしれません。

 

しかし、もし「部隊の指揮能力ではなく、一騎打ちや個人の武芸・槍術の強さ」だけで評価するなら、一体誰が最強なのでしょうか?

 

 

一生で57回の合戦に臨みながら、一度も傷を負わなかった驚愕の槍使いから、敵の首級を挙げまくった生粋の武芸者、そして合戦場で伝説を残した「剣聖」までいます。

 

 

誰が最強か?、本多忠勝か?・立花宗茂か?・可児才蔵か?・渡辺勘兵衛か?・上泉信綱か?この5名に絞って行きます。

本記事では、純粋な「個人の戦闘力・武勇」に特化して、戦国時代最強と名高い武将5人を厳選して詳しく解説します!

 

 

 

部隊の強さではなく「個人の武勇」で選ぶ戦国最強とは?

戦国時代の「強い武将」と聞いたとき、多くの人が思い浮かべるのは、大軍を率いて緻密な作戦を立てる優れた指揮官の姿かもしれません。

織田信長や武田信玄のように、国を動かし合戦の勝敗を左右する「指揮能力(戦術)」は、大名や将軍として最も求められる資質でした。

 

しかし、そうした大局的な戦術とは全く異なるベクトルで異彩を放つのが、「個人の武芸(一騎打ちや単騎での戦闘力)」です。

 

 

混戦のただ中に自ら躍り出て、眼前の敵を槍や刀で薙ぎ払う圧倒的な個の強さは、合戦場において味方の士気を一気に跳ね上げ、敵陣を恐怖に陥れる力を持っていました。

 

では、指揮能力を脇に置き、純粋な「一兵卒・一人の武芸者としての強さ」だけで戦国最強を決める場合、どのような点が評価の基準となるのでしょうか。

 

 

 

指揮能力(戦術)と個人武芸(一騎打ち)の違い

戦国時代における「武将の強さ」には、大きく分けてふたつの側面が存在します。

ひとつは、大軍を率いて城を攻略し、陣形や兵糧、地形を駆使して合戦全体の勝敗をコントロールする「指揮能力(戦術・戦略)」です。

 

 

武田信玄や織田信長、豊臣秀吉といった大名たちが称賛されるのは、主にこの大局を見極める采配の力によるものです。

 

それに対し、もうひとつの強さが「個人武芸(一騎打ち・単騎の戦闘力)」です。

 

 

これは部隊の規模や作戦の良し悪しとは関係なく、ひとりの武士として槍を振るい、眼前の敵をねじ伏せる純粋な武術・身体能力を指します。

 

 

混戦の最前線で敵陣へ一番乗りを果たしたり、敵の猛将と1対1で刃を交えて討ち取ったりする力は、合戦の局面を一変させる強烈なインパクトを持っていました。

 

 

指揮官としての資質と、一人の闘士としての武勇。本記事で焦点を当てるのは、後者の「己の肉体と武芸だけで修羅場をくぐり抜けた個の強さ」です。

 

 

 

評価の基準(討ち取った首級の数・無傷の逸話・愛用の兵器)

では、純粋な「個人の武勇」だけで戦国最強の猛者を決める場合、どのようなポイントが比較の基準になるのでしょうか。

本記事では主に以下の3つの要素から武将たちの凄みを取り上げます。

     ▲誰が一番か?

 

◇討ち取った首級の数 合戦場でどれだけの敵を自らの手で倒し、具体的な戦果(首級)として残したかという圧倒的な撃破数と実戦力。

◇無傷の逸話 数え切れないほどの死線や乱戦に身を置きながら、掠り傷ひとつ負わずに生還したという驚異的な回避能力と見切り・武術の冴え。

◇愛用の兵器と独自の技 「蜻蛉切」に代表される天下の名槍や名刀を縦横無尽に使いこなし、特定の流派や独自の戦闘スタイルで敵を圧倒した技術の極致。

 

大軍を動かす将軍としてではなく、戦場に立つ一人の武芸者として最高峰の伝説を残した猛者たちの凄まじい実力に迫ります。

 

1. 天下無傷の槍術使い「本多忠勝」~57戦無傷の伝説~

戦国時代の個人武勇を語る上で、真っ先に名前が挙がるのが徳川四天王の一人・本多忠勝です。

織田信長からは「花実兼ね備えた武将」、豊臣秀吉からは「日本東西の猛者」と絶賛され、敵味方の双方から畏敬を集めました。

 

 

忠勝の強さは、単に腕が立つというレベルを超え、数々の修羅場をくぐり抜けながら一度も怪我を負わなかったという、歴史上でも稀有な実績に裏打ちされています。

 

 

 

名槍「蜻蛉切」を縦横無尽に振るった東国無双の武勇

本多忠勝の代名詞といえば、天下三名槍の一つに数えられる名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」です。

その名の由来は、穂先があまりの鋭さと美しさを誇っていたため、止まった蜻蛉(トンボ)が自らの重みで真っ二つに切れて落ちたという伝説から来ています。

 

 

忠勝は、この長大な槍を軽々と扱い、敵陣のまっただ中へ単騎で切り込み、縦横無尽に敵を薙ぎ払いました。

小牧・長久手の戦いでは、わずかな手勢を率いて羽柴(豊臣)秀吉の大軍を前に悠然と殿(しんがり)を務め、その圧倒的な武勇と落ち着き払った佇まいで、追撃してきた豊臣軍の精鋭たちを完全に気圧して足止めしたと伝えられています。

 

大軍を相手にしても一歩も引かない個の戦闘力は、まさに「東国無双」の名にふさわしいものでした。

 

 

 

家康を支え続けた猛将が「生涯かすり傷ひとつ負わなかった」理由

忠勝が歩んだ人生は、まさに死線の連続でした。

姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・長篠の戦い・小牧・長久手・関ヶ原の戦いなど、徳川家の主要な大戦のほとんどに最前線で参加しています。

 

 

驚異的なのは、これほど激しい合戦の数々(生涯で57戦)に臨みながら、一度も敵の刃を受けてかすり傷すら負わなかったという点です。

 

 

無傷の秘訣は、並外れた武術の技量や優れた危険察知能力に加え、常に身につけていた鹿角脇立(かづのわきだて)の兜や重厚な黒糸威胴丸といった武具へのこだわり、そして自分の実力を冷静に見極める卓越した判断力にあったといわれています。

敵から恐れられながらも、無傷で生還し続けたその生き様は、戦国最強の武芸者としての伝説を不動のものとしています。

 

 

 

2. 秀吉も認めた西国無双「立花宗茂」万能の武芸者

東の本多忠勝と並び、豊臣秀吉から「東に本多忠勝、西に立花宗茂あり」と賞賛され、「西国無双」と称えられたのが九州の名将・立花宗茂です。

 

後に徳川家康からも「武道真実の勇士」と絶賛された宗茂は、義理堅い性格や卓越した指揮力だけでなく、武芸者として圧倒的な個の戦闘力を備えた稀代の猛者でした。

 

 

剣・槍・弓すべてを極めた圧倒的な個人戦闘力

立花宗茂の強さの真骨頂は、あらゆる武芸を高次元で修めていた「万能性」にあります。
剣術においては、戦国の実戦剣術として知られる「タイ捨流」や「新陰流」の免許皆伝を得ていたとされ、刀一筋の剣豪にも引けを取らない腕前を誇りました。
さらに、槍術や射術(弓術・馬術)にも長けており、特に弓や鉄砲を用いた遠距離からの射撃技術や馬上での戦闘能力においても天才的な才覚を発揮しました。
どのような戦況や間合いであっても敵を圧倒できる柔軟性と総合的な戦闘力は、まさに武芸百般を体現したものでした。

文禄・慶長の役や九州の戦いで見せた陣頭指揮と単騎の強さ

宗茂の恐ろしさは、自ら兵の先頭に立ち、個の武勇で戦局を切り拓いた点にあります。
九州における数々の合戦はもちろん、朝鮮半島へ赴いた文禄・慶長の役(碧蹄館の戦いなど)においても、明・朝鮮の大軍に対して自ら先鋒となって敵陣へ突撃しました。
大軍に囲まれる極限の状況下でも、宗茂自身が凄まじい武芸で敵を倒しながら味方を鼓舞し、圧倒的な戦術的勝利を手を引き寄せたのです。
ただ陣中に座して指図するのではなく、最強の戦力として敵を薙ぎ払うその姿は、敵味方の双方から畏怖と敬意を集めました。
▲ここに立花宗茂の記事を入れる▲

3. 関ヶ原で首級を挙げまくった「可児才蔵」~笹の才蔵の異名~

戦国時代には、大名や将軍だけでなく、合戦の現場でひたすら己の槍一本を頼りに、手柄を立て続けた「生粋の現場の猛者」が存在しました。
その筆頭格と言えるのが、可児才蔵(かに さいぞう)です。
織田信孝、明智光秀、前田利家、福島正則など数々の名将のもとを渡り歩いた可児才蔵※1▲は、出世や領地の拡大よりも、戦場で敵の首級を挙げることに生涯のすべてを捧げた異色の槍使いでした。
▲※1.渡り歩いた可児才蔵とは、才蔵が仕えた主な主君たち(時系列)
宝蔵院胤栄に師事して「宝蔵院流槍術」を極めた才蔵は、その高い戦闘能力を武器に、凄まじい数の主君に仕えました。
1. 斎藤龍興(美濃の戦国大名。斎藤家滅亡により浪人に)
2. 柴田勝家(織田家の重臣)
3. 明智光秀(一時期仕えたとされる)
4. 前田利家(能登時代などに仕えるが、後に不条理な理由で出奔)
5. 織田信孝(織田信長の三男。賤ヶ岳の戦い後に信孝が自害し浪人に)
6. 豊臣秀次(豊臣秀吉の甥。小牧・長久手の戦いでの敗戦を機に出奔)
7. 佐々成政(肥後国人一揆の責任をとされ成政が切腹)
8. 福島正則(最後の主君。ここでようやく定着する)
利家や正則を除くと、仕えた主君が次々と戦死・自害・改易(お家潰し)に見舞われているため、後世では「呪いの武将」などとネタにされることもあります。
しかし、それだけ「主君が滅びるほどの激戦を何度も生き延び、その都度、次の主君に実力を買われてスカウトされた」という、圧倒的な個人の武勇の証明でもありました。
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宝蔵院流の槍で敵を薙ぎ払う純粋な「現場の猛者」

才蔵の強さを支えたのは、当時屈指の槍術流派として知られた「宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)」の冴え渡る技術です。
鎌槍を用いた独特の打突や巻き払いを得意とし、乱戦の最前線においても十文字の槍を縦横無尽に操って敵を薙ぎ払いました。
指揮官として部隊を率いることよりも、一人の闘士として敵陣へ突入することを好み、どのような主君に仕えても常に合戦の最前線へと身を投じました。
己の身体能力と槍術だけで敵をねじ伏せていく姿は、まさに戦場において純粋な戦闘力だけで、己の価値を示し続けた「プロの武芸者」そのものでした。

討ち取った敵の口に笹を挟んで進んだ凄絶な逸話

才蔵の武勇がもっとも強烈な形で歴史に刻まれたのが、天下分け目の関ヶ原の戦いです。
福島正則隊の先鋒として参戦した才蔵は、宝蔵院流の槍を振るって次々と敵兵を討ち取りました。
しかし、あまりにも多くの敵を討ち取ったため、戦場の混乱の中で倒した、すべての首級を首袋に入れて持ち運ぶことができなくなってしまいます。
そこで才蔵は、討ち取った敵の首級の口や耳に、その場に生えていた笹の葉を挟んで目印とし、そのまま次の敵を求めて陣中を駆け巡りました。
戦後、首実検の際に口に笹が挟まれた大量の首級が発見され、その凄絶な戦果に誰もが驚愕しました。
この圧倒的な撃破数と常軌を逸した逸話から、彼は「笹の才蔵」の異名で全国に恐怖と賞賛をもってその名を知られることとなったのです。

4. 一番槍で名を馳せた「渡辺勘兵衛」~槍の勘兵衛~

戦国時代の、戦場で最も名誉とされた「一番槍(いちばんやり)」の称号を幾度となく奪い取り、その圧倒的な槍の腕前で全国にその名を轟かせたのが、「槍の勘兵衛」こと渡辺勘兵衛(渡辺達 / 水野勘兵衛)です。
大名の権力や家柄に頼らず、ただ、自らの槍術と凄まじい武勇だけを武器に戦国を生き抜いた、実戦主義の武芸者として高い評価を得ています。

主君を渡り歩いた実力主義の槍使い

勘兵衛の経歴は、特定の家系に縛られない生粋の渡り鳥(渡り公務員)※2▲でした。
筒井順慶をはじめ、明智光秀、豊臣秀次、藤堂高虎など、名だたる将のもとを次々と渡り歩きました。
▲※2.渡辺勘兵衛が仕えた主な将たち
筒井順慶には、初期に仕え、大和国(現在の奈良県)を中心に活動しました。
明智光秀には、筒井家を去った後、明智光秀に仕えました。
本能寺の変の際にも光秀の軍に属していたとされています。
豊臣秀次には、光秀の敗死後は、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次(当時は三好信吉)に仕え、小牧・長久手の戦いなどで大きな武功を挙げました。
増田長盛には、秀次のもとを離れた後は、豊臣五奉行の一人である増田長盛に仕えます。
関ヶ原の戦いの際には、長盛の居城であった大和郡山城の留守居役(城代)を務め、東軍(藤堂高虎や本多正純)に城の引き渡しを要求された際、「主君・長盛の直接の命令書がなければ絶対に開城しない」と突っぱねる気骨を見せました。
藤堂高虎には、この郡山城での頑ななまでの忠義と果敢な態度を見た、藤堂高虎が彼を高く評価し、関ヶ原の戦い後に2万石という大名並みの破格の待遇(当時の高虎の領地は今治20万石だったため、領地の1割を割く破格の条件)で召し抱えました。
なぜ「渡り鳥」になれたのか?
当時の武士にとって、自分の「武勇」は売り込みの道具(商品)でした。
勘兵衛は特に「槍術」に秀でており、戦場での手柄が確実だったため、主君が変わっても常に高い評価でスカウトされ続けることができました。
しかし、最後に仕えた藤堂高虎とは、大坂の陣での戦功評価を巡って激しく対立してしまい、最終的には藤堂家を出奔することになります。
その後は、他家からの誘いも断り、京都で悠々自適の隠居生活を送ったと伝えられています。
このように、実力一本で名だたる戦国大名たちの間を渡り歩いた彼の生き様は、まさに中世・戦国ならではのプロフェッショナルな武人の姿そのものと言えます。
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彼が主君を変え続けた理由は仕官先での不遇ではなく、「己の腕に見合う高禄(高い給与)を求める」という徹底した実力主義にありました。
どの主君のもとに行っても、戦場に出れば必ず圧倒的な戦果を挙げて見せるため、彼を買い叩くことはできず、数々の大名たちが高い知行を提示してでも手元に置きたがりました。
まさに自分の肉体と、槍一本を商品として戦国市場に提示し続けた、プロフェッショナルな豪傑です。

陣前での一騎打ちで魅せた圧倒的な槍の冴え

渡辺勘兵衛の真骨頂は、両軍が対峙する陣前で行われる一騎打ちや、混戦の先頭に立って敵陣へ突入する「一番槍」の場面にありました。
数々の合戦において、相手方の猛将から挑まれた一騎打ちを次々と制し、鮮やかな槍捌きで敵を討ち取ったと伝えられています。
間合いの見極めや、相手の出端を挫く打突の冴えは群を抜いており、敵陣の兵たちは「勘兵衛の槍には近づくな」と恐れをなしました。
陣前という最も注目を集める舞台で常に敵をねじ伏せ、味方の士気を極限まで高めたその武勇は、まさに「槍の勘兵衛」の名を歴史に深く刻み込むこととなったのです。

5. 実戦で負けなしの剣豪武将「塚原卜伝・上泉信綱」~剣聖たちの武術~

戦国時代には、自ら城や領地を治める武将でありながら、剣の道を究めて「剣聖」と仰がれた伝説の武芸者たちが存在しました。
その筆頭が、鹿島新当流の開祖・塚原卜伝と、新陰流の開祖・上泉信綱です。
戦国の合戦場や、数々の決闘において、彼らが見せた個人の戦闘力は、まさに神業の域に達していました。

生涯無敗・矢傷すら負わなかった塚原卜伝の真価

塚原卜伝は、常陸国(現在の茨城県)の武士として合戦に出陣しつつ、生涯をかけて武者修行を重ねた稀代の剣豪です。
彼の凄まじさは、遺された実戦の記録にあります。
生涯で真剣による決闘19回、合戦への参加37回を数えながら、「一度も敗れず、一度もかすり傷すら負わなかった(矢傷を数回受けたのみで刀傷は皆無)」という常軌を逸した記録を打ち立てました。
討ち取った敵の首級は212人に上ると伝えられます。
秘術「一ノ太刀」を編み出した卜伝の真価は、単に相手を斬り倒す速さだけでなく、相手が刃を繰り出す前に間合いと心理を制する「戦わずして勝つ(無手勝流)」境地にありました。
実戦の修羅場を無傷で生き抜いたその強さは、まさに戦国最強の個人の武勇と呼ぶにふさわしいものです。

武田軍の猛攻を凌ぎ信玄から称賛された上泉信綱の凄み

上泉信綱は、上野国(現在の群馬県)の大胡城主・長野業正に仕えた武将であり、のちに新陰流を開いた偉大な剣豪です。
信綱の武勇が天下に響き渡ったのは、甲斐の武田信玄による上州侵攻の際でした。
武田軍の大軍が押し寄せる激戦のさなか、信綱は長野家の「槍一本」と称されるほどの圧倒的な武功を立て、撤退時には見事な殿(しんがり)を務めて武田軍の猛攻をことごとく退けました。
その圧倒的な個の強さと、兵法の冴えに感服した武田信玄は、敵であるはずの信綱に感状を贈り、自身の名から一字を与えて「信綱」と名乗らせ、さらに名刀を贈ってその武芸無双を称賛したと伝えられています。
剣豪としてだけでなく、戦場で大軍を相手に単身で凄みを放った信綱の技術と度量は、まさに剣聖の名に恥じないものでした。

まとめ

個人の武勇で見る戦国時代の一番は?あなたなら誰を推奨しますか?
大軍を率いる「指揮官」としての評価を一光景横に置き、己の肉体と武器だけで戦場を生き抜いた「個人の武術・武勇」にスポットを当てて5人の猛者たちを紐解いてきました。
誰か一人を絶対的な「最強」と決めるのは容易ではありませんが、彼らが残した凄絶な記録や逸話は、今なお強いロマンと圧倒的な存在感を放っています。

それぞれの「強さのベクトル」の違い(無傷・首取り・剣術)

今回紹介した武将・武芸者たちは、それぞれ全く異なる「強さのベクトル」を持っていたのが大きな特徴です。
本多忠勝:57戦無傷という驚異の防衛・見切り能力と、名槍「蜻蛉切」を擁した圧倒的な存在感(究極の無傷・戦場支配力)
立花宗茂:剣・槍・弓すべてを極め、大軍を相手に自ら陣頭へ突き進む総合力(武芸百般の万能感)
可児才蔵:宝蔵院流の槍で敵を倒し続け、首級に笹を挟んで進んだ現場主義の破壊力(圧倒的な首取り・撃破数)
渡辺勘兵衛:高い知行を求めて一番槍を重ね、陣前の一騎打ちで敵をねじ伏せた実力主義(一騎打ち・一番槍の冴え)
塚原卜伝・上泉信綱:刀傷ひとつ負わずに相手を制し、信玄すら唸らせた流派の開祖たち(実戦剣術・武芸の極致)
「傷を負わない強さ」「敵を打ち倒す撃破力」「武術を極めた技術力」など、どの側面を重視するかによって「最強」の答えが変わる点こそが、戦国時代の個人の武勇を考察する醍醐味と言えます。

現代に伝わる武勇伝から感じる戦国武士の凄まじさ

現代の私たちが、彼らの武勇伝に惹きつけられるのは、単に「戦いが強かった」からだけではありません。
寸分の狂いも許されない生死の境目において、己の肉体、愛用の武器、そして積み重ねた武術の技だけを頼りに生き抜いたという、凄まじい覚悟と精神力が伝わってくるからです。
名言や逸話、そして愛刀・愛槍とともに受け継がれる彼らの伝説は、戦国時代という厳しい乱世を駆け抜けた「一人の武人としての誇り」を今に伝えています。
あなたなら誰を最強と決めますか?

-戦国時代の最強の武将は

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