岩村城下町は歴史があって、富田地区から現在の城下に移転して、町造
り特に天正疎水を上町から商家地域に引いた武将は、城主になった川尻慎吉です。
岩村城・築城は源頼朝の重臣・加藤景廉が望んで貰った東濃地方で荘園所有者になって戦国時代まで続いた遠山氏が終わる。
その時分からあった城下町を富田地区から現在の城下町に移転した信長の家臣で岩村城主となった河尻鎮吉が天正時代におこなった。
岩村城は別名霧ヶ城ともいわれ、源水は岩村川の上流で水はきれい。
徳川時代には松平三万石の居城で、城は岩村町の東方717mの山の上ある。
ここに初めて城を定めたのは、今から約830年前平家の滅亡の年に遠山荘地頭として赴任した加藤景廉、築いたのは嫡男の加藤景朝(のちの遠山景朝)である。
かくてこの地が、大遠山荘の中心聚落としてスタートを切ったのである。
しかし加藤景廉は隣村の富田村を城下として居住し城山に山砦を築き、この村より城への登り口(現在の俄坂:にわか坂とよむ)を作ったのである。
岩村の谷が狭隘(きょうあいとは、土地などの小さく狭いこと)、急斜面であるのに比べ、富田・大圓寺の方は恵那山の続きの三森山・水晶山の断層崖下の扇状地で沃野茫々の開拓地であることから、ここに城下を決定することに不思議はない。
当時、岩村はこの城下の側面と背面に位置したもの凄い林野に蔽(へいとは:おおい、かくす。隠蔽)はれた寒村に過ぎなかったと思われる。
スポンサーリンク
遠山氏が長く続くために築城の進展計画。
やがて戦国争乱の世となり築城の進歩拡張が行われ、一方各地の豪族の城砦が生まれた。
これまで地勢の険を唯一のたのみとしていた岩村城もこの軍備拡張の波に乗って応仁大乱のころ、加藤景廉の孫・景広の手によって大修築が行われ、規模を大きくした。
この頃から城下の経営も相当に行われる。
城下の移転は便利さと強固の守り
天正(安土桃山時代とは、天正1573-1593)の始め時の城主・河尻鎮吉が城下を富田村から岩村へ写したと古書に記されている。
河尻鎮吉とは、秋山晴近・おつやの方夫婦が天正3年に織田信長に滅ぼされたのち、信長の臣であった河尻鎮吉が天正3年に岩村城主となり天正10年に甲府に移るときまでに城下を移し町を整備した。
町人屋敷の本通り沿いの民家の庭を縦断する「天正疎水」これも城下を移転した折に造った。
岩村が真の城下町として経営の緒(いとぐち)についたのは、この時からで、今から約446年前である。
かくて後述の如く設計された岩村城下町の通路・敷地が完成された後、大圓寺・富田の官舎を移し、商人住民も半ば強制的に移住させ、なお各地から商人・職人等を集中させ、ここに現在の岩村町の基礎は作られた。
▲富田にあった城下町を、現・城下町に移転。
巌邑府誌に
『城府北郊を大圓寺という。蓋古大圓寺の阯也。困って名づく。
すなわち富田部落にして官舎市店皆此にあり、今地名を古市場と云う是也。後世城市を移すに及びて一邑となる。』
とあるが如く、現在元富田小学校付近に古市場の地名がある。
スポンサーリンク
これに対して同じ道路を西進すると岩村城下に現在も新市場の地名があり、また、旧大手口に沿ってあったと思われる侍の元屋敷に対して今も新屋敷の地名があって、城下の移転を物語って物語っている。
岩村が近世都市として保護され発達してきたのは、徳川期に入ってからで、その基礎は織豊時代※1に築かれ、かくしてこの岩村は美濃第一の文京の中心として発展してきたのである。
※1:織豊時代とは、安土桃山時代は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。
2人の名前を取って織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。”伏見・桃山は江戸時代のタウンページで使われ定着した名称 歴史研究グループが発表“、伏見経済新聞(2016年11月19日)
岩村城下移転の理(富田と岩村)の長所
徳川期に於いて、作州津山藩主森氏が行った強制的村落移転(城下移転ではない)は各藩が名目上の石高よりも、実収石高を増加させる目的で耕地の拡張を実行した一つの表れで、これは相当多くの村々が平地より不毛の山麓荒蕪の地に新集落を作らしめられたのである。
岩村城の場合でも沃野※2の富田から水利不便な岩村へ移り、若干この耕地拡張の理由もあったかもしれないが、それよりむしろ次の軍事的地理的理由だと考へさせられる。
※2:沃野(よくや)とは、地味の肥えた、作物のよくよくできる平野。
戦国時代は日本各地とも軍国非常の時で、築城は著しく堅牢大規模なものとなり、且甚だしく兵学化され、戦国時代ラストの英雄三羽烏たる信長・秀吉・家康の時代に、ほとんど日本各地の城が新戦術・新築城法によってお目見得したのであって、岩村城下もこの頃から、全く一つの集落形態をなしてきたのである。
したがって、従来の旧式な、防禦力(ぼうぎょりょく)の少ない城郭が新装をこらして各地に出現したのであって、岩村城もこの間に何等かの形に於いて新鮮味を見せたのである。
天正元年(1573年)甲州の武田軍は信州方面より攻略して岩村城を取り、天正三年(1576年)には織田の臣・河尻鎮吉が武田軍を破って岩村城主となり、ここに戦禍収まり、兵学・築城の進歩と、本城攻撃のさい実地体験とにより、城下を移したのであろう。
直接の理由としては、旧大圓寺城下は元亀三年武田軍によって焼き払われたこと、また、大圓寺城下は土地開潤で軍略上適当なこと、城下と城との距離が離れすぎていること、冬季北の季節風を受けやすいことなどが考へられる。
一方岩村城下(現在の城下)の長所を挙げると、交通上の要点たること、軍略的に理想的な谷口盆地で四囲に丘陵山地をめぐらし、小さくして纏まりがあって自然の要害をなくす。
城廓地の拡張は岩村側に多く余地を存すること、市民分離上侍屋敷として理想的な河北の台地と、商人町として都合の良い河南の平坦地がある。
本丸までの距離は、城山山麓の地点からいうと大圓寺からは1.5粁、岩村からは1粁である。
城下の中心地からいうと前者は三粁、後者は1.5粁、大圓寺の方は城廓地の一部としての城下と居城とが一朝有事の際切断されるおそれがあるである。
城下の都市計画(今でいう町割)
現在の岩村町の道路網、用水路も殆ど城下移転の時、河尻氏の手によって天正四年ごろになされたらしい。
▲天正疎水(いまも本町通りの裏庭に流れている)
道路は地形と軍略上から坂の多い梯形となった
まず、東から西流する岩村川を挟んで、城山々下の森林や原野に富んだ河北の台地を侍屋敷とし、河南の低地を町屋敷として、上町・本町・下町とし夫々上横町・中横町・下横町の三つの通りに依って、町通りと侍屋敷を連絡させ、さらにこれに直交する直線の平坦大路馬場※3をおいた。
▲岩村城下にした区割り図。
※3:今現在でいうと、養護学校の北角と乗政寺山から大将陣に向かって延びてる道路を馬場と呼ぶ。
この背後は藩主の菩提寺たる乗政寺の丘陵でこれを乗政寺山という。
上横町と下横町はこの第三紀丘陵の東西に延びて、新屋敷および新市場の二条の侍屋敷地域を作り、馬場の両端に於いて連なるのである。
別に下町(今の本町四・五丁目)木戸外に南進の直線路柳町を作り侍屋敷の飛び地とし、下町の西は枡形から農村地域であった土手下(今の西町)に続くのである。
道路は馬場三間半、横町通り一間半、そのほかの道路は一間内外である。
町通りは上町木戸から下町木戸まで約七百米(七町)馬場(三百米)新市場、新屋敷各二百米である。
我々は岩村城下移転とその経営がいかに大工事であったかを知るとともに、武家の権力とその計画的頭脳に驚くのである。
もちろん大体は当時一寒村であった岩村の踏み分け道を基本として、これを拡張増補下であろうが、完成されるまでには数年の日子を要したことであろう。
ちょうど北海道のごとき新開地の都市にみるように城下町岩村は自然に村落の発達したものでなく、作らんとして作った意欲的な町です。
スポンサーリンク
先ず、幹線道路網が完成されて後に次第に商家や住宅が建てられたもので、他のほとんどの聚落が自然的・漸移動に且、無計画的に発達して行ってついに町となり市となったのとは、その成立の当初に於いて大いに趣を異にしている。
しかし旧来の軍事的要求を偏重せる都市計画は、現代人の文化生活には敵せぬことが多く、岩村町もこのため狭苦しく、窮屈であって横町の如きはトラックの通行さへ困難を感じ両側の人家の屋根は常に壊されているのである。