美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

アクセスの案内

遠山氏の美濃国岩村城へのアクセスは車・電車で行く場合の案内

投稿日:2017年11月18日 更新日:

   ※鎌倉幕府時代と岩村。 この物語はいわむら町まちづくり実行委員会「いわむら昔ばなし余話」から引用し「旅人隆太郎君」が主観でつくった記事です。あらかじめご了承ください。

 

 

国時代に築城された岩村城 (別名霧が城 ) へドライブがてら向かうなら、中央高速道路を使って「恵那インター」で下車、料金所を出て信号を左に回ると恵那峡方面、右に回ると19号線から岩村町へいけます。

 

案内標識に岩村方面・恵那市街地方面・中津川市・落合→馬籠宿・妻籠宿方面に行きます。

 

                     岩村方面は19号線を右折して道なりです。

      ▲19号戦に立っている標識この信号を右に

 ▲これは19号線を右に回ったとこにあります。

 

19号線を中津川市・長野方面に走ってると岩村方面という標識すぐ見えます、それを右に回ってずっと道なりに行くと岩村です。

恵那市に来たなら岩村町へ寄って歴史館へ行って鎌倉時代から徳川時代・明治時代の勉強をしてください。

 

 

なぜかと言うと800年余も前にお城があったんだって、えっそんな前からと驚き、800年前って言うと鎌倉時代?。それはぜひ、行こう!
中津川市の方に向かって19号線を走っていると標識に岩村12Kmと出ています。

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岩村城の祖・加藤景廉が頼朝から任じられた

鎌倉時代1185年(文治元年)源 頼朝の重臣・加藤景廉が長男加藤景朝築城させた城(別名霧が城ともいう) 現在2020年だから、今から835年前に峻険な地形を活用した要害堅固な所に築城された。

 

 

遠山氏の祖は藤原利仁の子孫「加藤景廉」である。
景廉源 頼朝の重臣として功績を残し、文治から建久(1185年〜1198年)の頃に遠山荘(現在:岐阜県恵那市・中津川市・瑞浪市の一部)を与えられました。

 

 

景廉本人は頼朝とともに鎌倉におり、実際は遠山荘に赴任はしてなかったが、美濃遠山氏は景廉が遠山荘の地頭地頭とは…中世の荘園で、租税徴収・軍役・守護にあったた管理者、のちに権力を増して領主化した人のこと)となり、その子景朝が在地に下り岩村に城を築いたことが始まりです。

 

 

承久の乱が始まって程なく景廉が死去し、遠山荘の地頭職は長男の遠山景朝が受け継ぎ、この後、景朝は遠山荘に土着し初代遠山氏となった。

※上記の承久の乱をクリックすると関連記事があります。

 

 

 

遠山氏は氏族繁衍して七流に分かれて恵那郡を領としたが、これを遠山七頭(七遠山)という。

また中でも三頭(三遠山)と言われた苗木・明智・岩村の3つが主要な分家で、遠山景朝の子・景重が明智遠山氏の祖、景員が岩村遠山氏の祖に当たるが、苗木は何度か系譜が絶えている。

 

 

鎌倉時代初期においては、美濃源氏たる土岐氏と源 頼朝の側近の子孫たる遠山氏は並び立っていたが、南の守護職、北朝時代には土岐頼遠が活躍して美濃国の守護職を得たこともあって、土岐氏の方が優位となった。

 

 

遠山氏も武家方の一勢力として各地を転戦したり、宮方であった隣国の飛騨国司姉小路家と争ったが『太平記』『遠山家譜』によると岩村城主加藤光直の弟で苗木城主であった遠山景直は土岐頼遠と領土争いの訴訟があって城を追われ、宮方の新田義貞軍に加わっていたという。

 

 

足利尊氏に従って各地を転戦した明智遠山氏の(景重の玄孫)景房は武功多く、市島郷(郡上郡口明方村)の地頭職を与えられた。

 

 

元中7年(1390年)その子である遠山頼景は、宗家宗家とは→ある一族、一門において正嫡の家系。またその家系の当主本家)の養子となって遠山氏の惣領(あととり)として遠山荘の地頭職を安堵とされていました。

 

 

頼景の子が景友(季友)、孫が景前(かげまえ)の子が遠山景任である。

景前の頃には土岐氏は凋落(しぼんで落ちること。また、衰えること。落ちぶれること)し、東美濃では遠山七頭の国衆(一般的には南北朝・室町期の在地領主をさし、国人とも呼ばれていた)

 

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鎌倉時代の在地領主の典型は地頭であるが、その地頭は幕府から地頭職という形で所領の充行(あておこないと読む)(そもそも充行とは:平安時代以降、不動産や動産の給与、譲与、処分、委託行為をさして使われるようになった語です。)をして、諸城を築いて群外勢力を拒むようになった。

 

 

海抜717mと国内最高地点にある「岩村城」日本三大山城の一つ、他に岡山の備中「松山城」奈良県の「高取城」があります。


※上記の岩村城をクリックすると入り口から頂上の「本丸」までの写真が掲載されています。

 

 

 

     ▲藩主邸跡に立つ太鼓櫓

     ▲岩村城の頂上にある六段壁の石垣

 

 

田信長(1534年〜1582年、本能寺にて自害49歳)いかに以前から岩村城があったかという事がよくわかる。

 

 

加藤景廉(かげかど)の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以後遠山氏が代々居城した。

 

 

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皆さんも知ってる「遠山の金さん」は加藤景廉の末裔です。

 

 

 

戦国の動乱に入り岩村城主:遠山氏何代目かの城主・遠山景任結婚相手として、織田信長の叔母(おつやの方)が差し出されれて政略結婚で一緒になったが、若くして戦病死で亡くなったため、信長の子御坊丸(後の織田勝長の後見人としておつやの方が岩村城主の女城主と君臨した。

 

 

 

加藤景廉から遠山氏最後の城主・遠山景任とおつやの方

岩村遠山氏は総領格ではあったが、統一されておらず、美濃の動乱の煽りで明確な支配者のない半独立状態となっていった。

 

 

天文23年(1554年)その頃、信濃国を領国化(簡単にいうと国盗り)しようとしていた甲斐「武田氏」が南信濃と美濃の国境である伊那郡を制圧すると、川中島の戦いで長尾景虎(上杉謙信)と争うと同時に武田晴信は弘治元年(1555年)に東美濃にも侵攻して岩村城を包囲したため、景前は白旗をあげて降参した。

 

 

以後、遠山氏のいくらかは武田軍に主従することになったが、引き続き「斎藤氏」や尾張の「織田氏」と連携するものも見られる。

 

 

弘治2年(1557年)7月13日景前が亡くなり、嫡男であった景任があとを継いおだが、まだ若かった事から遠山七頭のなかに従わぬ者があって後継者争いが起こった。

 

 

これに対して武田氏が東美濃に派兵して調停に入り(その時の大将の秋山虎繁はそれ以前にもしばしば東美濃に入っており、景任の後継争いの際にも秋山虎繁が武田軍を率いて遠山の国衆と協議したと考えられている)。

 

 

 

後ろ盾を得た景任が当主となり、以後東美濃においては遠山宗家武田信玄との主従関係に基づく武田支配が成り立って、遠山氏は武田方に人質を出したが、他方で同年、斎藤義龍道三を長良川の戦で破って美濃を手中に入れると、遠山氏の中では明智遠山氏の友行斎藤義龍に与して9月の明知城攻めに加わるなど、一時的に斎藤氏にも与した。

 

 

 

また、従来の織田氏との関係も維持されており、これが台頭して濃尾に勢力を伸ばすと接近した。

 

 

 

時期は不明ながら景任が織田信長の叔母(織田信定の娘:織田信定は戦国時代の初期の武将で尾張国の織田大和守家(清洲織田氏)に仕える清洲三奉行の一つである織田弾正忠家の当主、 勝幡城城主であり、信定は信貞とも書く。(織田信長の祖父)を娶って縁戚関係を結ぶなど、複数の勢力に属しると言う関係を築いていった)

※上記の勝幡城をクリックすると関連記事があります。

 

 

 

とくに永禄年間になると、遠山氏と織田氏に両属して、その外交関係(甲尾同盟)を仲介する存在となった。

 

 

永禄8年(1565年)に武田軍が金山城の森 可成と米山城の肥田玄蕃充を攻撃した後、信長が景任の弟直廉の娘を養女として信玄の庶子(本妻以外の女性から生まれた子)諏訪勝頼の室とする縁組をまとめたのも、遠山氏を介した織田・武田両家の連携の一環であった。

 

 

 

元亀3年(1572年)、信玄は西上作戦を開始する前に、木曽義昌と遠山直廉に命じて飛騨の三木自綱を攻めさせたが、この戦で直廉が5月18日に戦傷死した。

 

 

直廉には他に子がなく、信長が飯羽間遠山氏の遠山友勝をして苗木遠山氏のあとを継がせた。
友勝の嫡男友忠の妻は信長の姪である。
 

※上記の遠山友勝をクリックして関連記事は読んでください。

 

 

さらに8月14日に景任も病死して岩村遠山氏の血統が断絶したので織田信長は東美濃の支配権を奪う好機として、岐阜城留守居の河尻秀隆や織田信広を岩村城に派遣して占領すると、自らの子(御坊丸のちの織田勝長)を亡くなった景任の養嗣子(家督相続人となる養子)として継がせ、叔母のおつやの方を後見人とした。

 

 

 

そのことを知った信玄は岩村城、東美濃の支配権が信長に奪われた事に、駿河国に侵攻していた信玄は、伊那郡代秋山晴近と依田信守を東美濃へ派遣して岩村城の奪還を命じた。

 

 

 

包囲された岩村城には以後も武田氏に仕えた者が多く、降伏して御坊丸を甲斐に人質として差し出し、信玄の許しを得て秋山晴近が岩村城に入って「おつやの方」を妻とすることで(遠山氏と武田氏の)和議を成立させた。
よって遠山氏が岩村城を支配することは、この時点で終わりを告げた。

 

 

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そんな折武田信玄軍が攻めてきて、激しい戦の末「上村合戦」で破れ城を明け渡す羽目になった、その後武田軍の重臣秋山信友に求婚され、おつやは家臣を守るために結婚した。(天正元年1573年)

 

 

ここでおつやの方の岩村城女城主は幕をとじた。

 

 

同三年「秋山晴近」と「おつやの方」織田軍に破れ処刑された。

 

秋山晴近とおつやの方は長良川で磔逆される

今もなお、このような ↓ものがあります。

          ▲大将陣公園内

※上記の長良川で逆さ磔をクリックすると、真実の信長が家康に送った黒印状の記事があります。

 

   

そして時が経って、慶長五年(1600年)関ヶ原の戦い後、西軍に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主となった。

 

   

 

明治の廃城令で建物は失われたが八幡神社※2本殿岩村城八幡曲輪から移築されたものと言われる

 

    ▲加藤景廉が祀ってある八幡神社

 

 

また(土岐門が城下の徳祥寺の山門として移築されて、現存するが住職がいないため岩村町富田の東光院の住職が兼務して守っている)

 

         ▲徳祥寺  

 

 

また不明門(伝)が岩村城下の岩村町日の出町の近くに移築され現存してます。

 

             ▲妙法寺

 

境内には「まくら冢」と刻まれた自然石の石碑があります。
武田勢の岩村城主であった、「秋山信友」と「おつやの方」の墓として建立されたものと言います。

 

 

戦国時代末期の争いの中、織田信長によって悲惨な最期を遂げた秋山夫妻の霊を慰めるために遠慮しながら建てられたかもしれません。

今では、その名から頭の病気によく効くといい、崇拝する人がたくさんいます。

 

        ▲まくら冢

   

 

また岩村城の廊下の部材が、岩村醸造の廊下に利用されて残っています(見学可能)また、岩村城のどの場所の建造物かは不明であるが、勝川家の土蔵の一部の遺構されています。(本町通にあります)

 

 

 

最後に藩校の知新館の正門と釈尊の間※3が現存し、城の麓の藩主邸跡に移築されています。

 

▲この門が藩校知新館の正門(現在:岩邑小学校)

 

 

※2加藤景廉(かとうかげかど)が祭神として祀られている。

 

   

毎年岩村城下町(国重要伝統的建造物群保存地区)町内随一の観光拠点の城下町を、毎年2日間に渡る八幡神社から武並神社、あくる日は武並神社から八幡神社へと秋祭り行列を行なっている。
詳しくは他のページ
※釈尊の間(岐阜県指定文化財)

 

   

石垣群の威容は残され今でも多くの歴史愛好家が年に三万人を超える人が訪れています。

 

 

三橋美智也の歌の「古城」にピッタリの城跡、頂上に登れば木曽の御嶽山さんが一望でき、近くの山々三森山・水晶山などが連なる。

 

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【鎌倉時代から戦国時代、さらに江戸幕府まで続いた833年の歴史ある美濃岩村城】

鎌倉幕府の征夷大将軍「源 頼朝」の重臣加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めた。

歴代城主

■岩村遠山氏
 加藤景朝(源頼朝の重臣、加藤景廉の子)
 遠山頼景
 遠山景友
   遠山景前
 遠山景任:元亀3年(1572年)8月14日に城中で病死ため。
おつやの方:俗にいう女城主(織田信長5男で幼少の御坊丸:のちの織田勝長を遠山                        氏の養子とした)後見は織田信長の叔母で「おつやの方」

 

■武田氏
   秋山信友:天正3年(1575年)11月織田軍に敗れ投降(おつやの方と                      共に刑死)

 

■織田氏
 河尻秀隆:天正10年(1582年)6月甲斐にて武田遣臣により殺害。
 団 忠正:天正10年(1582年)6月本能寺の変により討死。

 

■森氏
 各務元正:岩村城を接収した森 長可の家老。鬼の兵庫と呼ばれた。

 

■田丸氏
 田丸直昌:北畠氏庶流。関ヶ原の戦いで西軍に属し改易。

 

■徳川氏
 松平家乗:十八松平・大給松平家。関ヶ原の戦いでは(三河国)吉田城を守備                      した。

 

■丹羽氏
 丹羽氏信:1645年(正保2年)大給松平氏の上野国館林城転封に伴い、三河                        国伊保藩より入城。
                  1702年(元禄15年)お家騒動を起こし越後国高柳藩に転封とな                          った。

 

■同年信濃小諸城より[松平乗紀]入城。
                        乗紀は全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)を設け                            た。    

                    以後明治維新まで再び大給松平の居城となった。 

      

  ※本格的に石垣が造られたのは関ヶ原の合戦以降とされ、大規模な城は石高二万石の(後に三万 石)岩村藩には不相応で「見えない部分は石積みでなく、自然の地形を利用したと思えます。

 

 

※廃城令:1873年(明治6年)城は解体され石垣のみとなった。
   藩主邸は残されたが、1881年(明治14年)に火事で全勝した。

 

 

 

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平成30年度前期 連続テレビ小説

半分、青い。
ここ岩村町の本町五と西町が撮影舞台。
これは中日新聞朝刊6月21日に掲載された。
                                              ↓

 

 

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-アクセスの案内

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。