の事件(本能寺の変)は不可思議といっていい程不思議な事件だと思います。
事実は曲げられて伝えられて、憶測で物語が作られています。
光秀が大軍を引連れて「敵は本能寺」といって信長を討ったというふうに伝えられていますが、事実は光秀は本能寺に行っていないということが判明した(2021年1月5日の新聞掲載)。
▲中日新聞2021年1月5日23Pに掲載
いまある大筋の物語は、ときの天下人豊臣秀吉や徳川家康たちが事実を自分のいいように書き換えて劇場型にしたのじゃないかな〜。
と推測します。
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討たれるはずの徳川家康が窮地を逃れたのはなぜ?
家康は本能寺の変が行われる前日まで京都に滞在、それも本能寺の斜め前(茶屋四郎次郎※1)邸に宿をとっていた。
※1:茶屋四郎次郎とは、安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商の通称。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する。
正式な名字は中島氏。
信濃守護小笠原長時の家臣であった中島宗延の子の明延が武士を廃業し、大永年間(1521年〜1527年)に京に上がって呉服商を始めたのがはじまりとされています。
「茶屋」の屋号は将軍・足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。
茶屋家は屋敷を新町通り蛸薬師に下る(現在の京都市中央区)に設け160年に渡って本拠とした。
明延の子の初代・茶屋四郎次郎清延は若い頃家康に仕え、三方ヶ原の戦い等で活躍して橘の家紋を賜ったとされる。
本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し、後世に「神君伊賀越」といわれた脱出の際、物心ともに支援を行ったことにより徳川家康と接近し、徳川家の御副御用を一手に引き受けるようになった人物されている。
戦国の世、家康は信長に京都に招かれ、ついでに堺へ行って鉄砲でも仕入れるつもりで堺まで行ったんじゃないかと思う。
ここ京都に来た徳川家康の不自然な日程表
● 5月15日穴山梅雪※2と共に安土城にて信長の接待を受ける。
※2:穴山梅雪とは、穴山 信君(あなやま のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣で御一門衆の一人。穴山氏7代当主。
壮年期(永禄8年頃)に剃髪して梅雪斎不白と号したので、穴山 梅雪(あなやま ばいせつ)の名でも知られる。
後代には武田二十四将の一人に含まれており、南松院所蔵本では信玄の傍らに配置されている。
信玄末期より仕え勝頼期にも重臣として仕えたが、織田信長の甲州征伐が始まると武田氏を離反した。
天正9年(1581年)12月勝頼の寵臣(ちょうしん:とは国家統治者のような政治的重要人物と親密な関係にある友人・侍臣のことである。中近世のヨーロッパでは、時代・地域を問わず、君主から強大な政治権力を委ねられた人物 …)長坂長閑・跡部勝資らを憎み、織田信長に内通し始め、翌年2月、勝頼が娘を信君の嫡男に娶らせる約束を反故にして武田信豊の子に娶らせるとしたことに激怒して、家康に降ったという話が、飯田忠彦の『野史』に見られる。
天正10年(1582年)、織田信忠の甲斐侵攻に際しては、2月25日に甲府にいた人質を逃亡させ、甲斐一国の信君への拝領と武田氏の名跡継承を条件に、2月末に徳川家康の誘いに乗り、信長に内応した(『家忠日記』、『信長公記』、『記録御用所本子文書』)。
その結果、信君は織田政権より甲斐河内領と駿河江尻領を安堵された織田氏の従属国衆となり、徳川家康の与力として位置づけられた。
同年5月には信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、近江国安土(滋賀県近江八幡市安土町)において信長に謁見する。堺(大阪府堺市)を遊覧した翌日の6月2日に京都へ向かう途上で明智光秀の謀反と信長の死(本能寺の変)を知り、家康と共に畿内を脱しようとするが、その途上で落ち武者狩りの襲撃を受け死亡した。
『家忠日記』では自害、『信長公記』では、一揆により生害されたと伝え殺害と自害の両方の意味がある。
とウィキペディアに記されている。
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● 5月22日信長の勧めで京坂※3(きょうさか)を周遊、京に滞在。
※3:京坂とは、京都府京都市(旧:平安京)、京都と大阪。また、その周辺。かみがた。
この間8日間、家康は信長に接待を受ける。
▲上記の品物を信長から家康を始め家臣一団が贈られ流。▲これは家忠日記▲
※帷子とは、夏物の絹の着物のこと、流行りのくれないもの。家来衆にも渡す。
●5月29日(この時代は5月は29日で5月は終わる)早朝、堺に出立。午後信長は寄宿の本能寺に行く。
普通なら信長に今日の見物ありがとうの一言でも挨拶をして堺に出立するべきが挨拶もせずに急いで堺へ行った。
●あくる日6月1日堺で今井宗久・津田宗及・松井友閑等からお茶の接待を受ける。
せっかく堺へ行って鉄砲の話はしたかしなかったか?
●翌日6月2日早朝、堺を出立し京方面へ向かうと思ったが、飯盛山方面に向かい生駒山中で茶屋四郎次郎が家康に追いついて本能寺の変のことを知る。
そこから急いで伊賀超えをする。
▲これを見てもらえれば家康が事前に信長に何かあることを知ってたかも?
信長が斃れた途端まったく様相が一変、明智勢の討手?だけではなく土民・土豪による残忍な”落ち武者狩り“の脅威に怯えなければならないから急いだか分かりませんが、とにかく家康は三河に急いだ。
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本城惣右衛門の覚書をみると
本城惣右衛門の書き残した手紙を拝見すると、まことしなやかに徳川家康を討つ相手と決めていたように家来たちは思って行動している。
▲本城惣右衛門が書いた文章、その時に家康を討つと書いてある。
ところが家康を殺さず信長に謀反、これはどいうことなのか謎です。
僕の推測ですが、明智光秀の家臣・斉藤利三と徳川家康の間に密約があったんじゃないかと想像します。
※興味のある方は、上記の斉藤利三と徳川家康をクリックしてください。
用意周到でなければ、生涯最大の危機の「伊賀越え」堺から三河まで190K強もある距離を三日間で逃げ切れるはずがないと推理します。
本能寺の変があった時、織田家の主だった武将たちは、羽柴秀吉・織田信孝・丹羽長秀・織田信雄(のぶかつ)・柴田勝家・滝川一益らは本拠地もしくは主征先に在って大軍を率いており一応安全圏にいました。
ところが家康一行には、従うのは精鋭揃いの近習の者わずか30数名、顔ぶれは本田忠勝・本多政信・酒井忠次・榊原康政・石川数正・服部半蔵・井伊万千代他勢揃い、伊賀衆を使って伊賀越えを服部半蔵と茶屋四郎次郎の連帯で成し遂げられた。
それが上記の新聞には、光秀軍の兵士たちは京都市の桂川の河原で夜中に休憩を取っていた際に、本能寺へ向かうことを初めて告げられたことや、襲撃された信長が乱れ髪で白い帷子を着て光秀軍を迎え撃った様子の記述があった。
と載せている、今後の発表が待ちどうしい。
本能寺の変は6月2日の早朝、家康は3日には京都から堺にいた。
ここに徳川秀忠の文章がある。
▲徳川秀忠の文章