美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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未分類 鎌倉幕府 鎌倉時代

鎌倉幕府は初代・源頼朝から何年続いたか?

投稿日:2021年3月31日 更新日:

こんにちは。
鎌倉時代・鎌倉幕府は何年続いたと思いますか?

 

教科書では1192年からと習ったんですが、果たしてそうでしょうか?
源氏平氏を滅亡させたのが壇ノ浦の戦いです。

 

 

鎌倉幕府は何年続いたか?

朝廷政権から武家政権にした源頼朝が作った鎌倉幕府源氏の元での政権は3代で23年2ヶ月で終わった。

 

あとは執権であった北条一族が実権をもった、そのため、お飾りの将軍で鎌倉幕府は続いた。

 

藤原氏政権2代で26年1ヵ月、皇族の政権4代で81年続きました。

 

 

まず、そもそも源氏とは?そこら辺を詳しく調べていきましょう。

 

 

天皇からもらったのひとつで、もらった天皇ごとに、いくつかのグループに分かれ、一部が武士になっていきます。

 

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源頼朝の源氏とは?

源頼朝が伊豆で平氏打倒の狼煙をあげたのが、後白河上皇の三子・以仁王の号令によるもので東国武士らが頼朝に加勢して兵を挙げた。

 

 

この戦いを治承・寿永の乱として5年も続いた。
そこに私(記者)の故郷の地頭となった加藤景廉頼朝の重臣として参加してました。

※ここに、なんで美濃国岩村に城が築くられたか?の記事が書いてあります。民話と共に書いてますので興味ある方は上記の加藤景廉をクリックしてください。加藤次が腰かたと言われる「腰掛け岩」があります。

 

▲現在は、ひっそりと美濃国岩村町山上にある「腰掛け岩」です。もと岩村町長の家の裏山に雑木林を掻き分けて行くとあります。恵那市が整備してないです。

 

 

源氏とは?そもそも何?

”みなもとうじ“とも読むし、”げんじ“とも読みます。

日本の氏族のひとつ、(カバネ)朝臣。新撰姓氏録や華族の宗族制度における分類は皇別です。

 

 

皇族から臣籍降下は律令成立以前から存在しており、古くは公の姓(カバネ)を与えられた諸氏や天武天皇の時代の真人のカバネを与えられた諸氏、奈良時代の橘氏や、光仁天皇、桓武天皇、平城天皇の子孫などが存在する。

 

 

源氏の中にも清和源氏河内源氏ある。

①清和源氏とは、第56代・清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、 賜姓皇族のひとつ。(カバネ)朝臣。

 

清和源氏の子孫を起源とする源姓または流派は日本人の名字において非常に多く存在する。

 

 

②河内源氏とは、河内国(現在の大阪市の一部)に根拠地を置いた清和源氏の一流。

一般的に武士で「源氏」という場合、この系統を指す。

また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には源家(げんけ)という呼称も古くは用いたれていた。

 

 

 

第1・2・3代の鎌倉幕府の将軍は、源氏将軍:                源頼朝・源頼家・源実朝は

建保七年1月27日(1219年)まで続いた、源氏将軍とは、狭義には
鎌倉幕府を開いた源頼朝、頼家、実朝の3代の将軍を指す。

 
▲鶴岡八幡宮                          ▲手水舎

 この鶴岡八幡宮の階段で鎌倉幕府の第3代将軍・源実朝が甥に暗殺される。                                           

康平6年(1063年)8月に河内国(現・大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏二代目源頼義が、前九年の役(平安時代後期に陸奥国(東北地方)で起こった戦です。)での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壷井八幡宮)を鎌倉の 由比郷鶴岡(現・材木座一丁目)に鶴岡若宮として歓請したのが始まり。

永保元年(1081年2月)には河内源氏三代目源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。 

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第4・5代鎌倉幕府 摂家将軍・藤原頼経・藤原義嗣は

摂家将軍は、鎌倉幕府・将軍のうち、摂家であるが九条家から迎えられた将軍のこと。

源氏将軍が絶えた後を継いだ第4代・藤原頼経と、嫡男である第5代・藤原頼嗣の二人が、藤原将軍または公卿将軍とも呼ばれる。

 

 

建保7年(1219年)まで続いた、第3代将軍源実朝が暗殺された。
実朝には実子が無く、継嗣も定めていなかったため、これにより、初代源頼朝の嫡男である第2代源頼家頼朝の次男である第3代源実朝と、源氏嫡流(河内源氏義朝流)征夷大将軍を継いだ将軍家は断絶した。

この3代の将軍を源氏将軍と呼ぶ。

 

 

すでに鎌倉幕府の実権を握っていた北条氏は、執権の北条義時と、頼朝の正室で頼家・実朝の母であり幕府の指導的立場にもあった北条政子を中心として、後継の鎌倉殿(鎌倉幕府の長)たる将軍の選定を進めた。

 

                                                              ▲源頼朝と北条政子

 

 

第6・7・8・9代を鎌倉幕府 鎌倉宮家 

宮将軍は、鎌倉時代後期に征夷大将軍に任じられた第6代・宗尊親王・第7代・惟康親王・第8代・久明親王・第9代・守邦親王を指す。

 

7代目の惟康親王は将軍在任中に巨籍降下し、源姓を贈与され源惟康として源氏将軍となっているが、最終的には皇族に復帰し宮将軍に落ち着いた。

現代では、皇族将軍、親王将軍とも呼ぶ、総称して鎌倉宮家と表現することもある。

 

 

鎌倉幕府の基本的な主従制構造は、武家の棟梁である鎌倉殿(≒征夷大将軍)と御家人との御恩と奉公の関係により成り立っていた。

 

しかし、鎌倉殿の後継であった源実朝の他に源頼朝直系の源氏嫡流の子孫がいないことや、実朝自身に子供がいないことから源氏将軍が絶え、「皇族から武家の棟梁を」と考えた実朝の母・北条政子、弟の北条義時らにより文永4年(1218年)の時点で一度朝廷側に提案された。

 

 

しかし、文永5年(1219年)に実朝暗殺により後鳥羽上皇の拒否に遭い頓挫し、源頼朝と血縁関係にあった2歳の九条頼経が鎌倉に下向することで、ようやく将軍職を相続することができた。

 

 

頼経が成長すると独自の政権運営を指向し、執権に反抗的な態度を態度を取ったため追放され、頼経の子頼嗣が継承するが、建長4年(1252年)に北条時頼らにより、後嵯峨天皇の第一嗣皇子である宗尊親王を将軍として鎌倉に迎え入れる。

 

 

幕府の権力は、執権の地位にある北条氏が保持していたため、将軍という名目だけで、就任は10歳前半までに行い、長じいても20歳代までに将軍職を辞任して京都に返され、中務卿・式部卿などに任じられることが通例であった。

 

 

新田義貞が幕府を倒すため、北条氏がいる鎌倉に攻め「東勝寺合戦」で北条氏を倒した。
最後の守邦親王は、幕府滅亡ために京都に戻れず鎌倉で出家となった。

 

 

 

1333年、ここで鎌倉幕府終焉

源頼朝が立ち上げた鎌倉幕府「源氏は3代」源頼朝、源頼家、源実朝、「藤原氏(九条家)は2代」藤原頼経、藤原頼嗣、「皇族は4代」宗尊親王、惟康親王、久明親王、守邦親王。

 

 

教科書では1192年に鎌倉幕府が出来たと言ってますが、これは頼朝が征夷大将軍をもらった年です。

 

 

実際に幕府を作ったのは1185年で、1333年ー1185年=148年続きました。

 

 

まとめ

朝廷の一度離した実権政権を取り戻したいとする朝廷側。

武家政権にした鎌倉幕府、源氏が途絶えた後、北条氏が実権を握っていくには資金、資金がなっくなって御家人が離れていったため鎌倉幕府は滅亡したと思います。

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