美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

源 頼朝

源頼朝はなぜ鎌倉に留まって鎌倉幕府を開いたか?

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   源頼朝日本社会初めて武士社会権力を確立した武士団の頭領ということは、みなさん知っての通りです。

 

宿敵の平家を完膚(かんぷ)なきまでに破り、完全に権力を握った頼朝は、征夷大将軍に任命されたが幕府を京都に置こうとはしなかった。

もう一人徳川家康も東国に幕府を開いた人物です。

 

 

朝廷から見れば、箱根を超えて東は文化が届かない地の果てあった。
では何ぜ頼朝は京の町へ出なかったのか?
頼朝は何を恐れていたのか?

 

 

という事を竹村公太郎さんがPHP文庫で書いています。
この記事は、そこから引用しました。

 

 

養老孟司氏の推薦と荒俣宏氏が絶賛した「日本の謎は地形で解ける」の題名です。

その養老孟司氏が、このようなコメントを言ってます。→歴史の常識を覆すようなことを、データで裏付けしながらやってくれる。だから面白いし納得できる。

も一人の荒俣宏氏は、→ほとんど人が作り上げた日本の国土。だったら日本史の謎も国土を読めば解けるだろう。

 

 

 

頼朝は島流しにあった当時の湘南ボーイ

頼朝は14歳の時、平清盛によって蛭ヶ小島に流された。
じゃあその蛭ヶ小島というのは伊豆諸島のどこだろう、太平洋に浮かぶ島「蛭ヶ小島」はどこにあるかというと伊豆半島に北から南へ貫流する狩野川があります。

 

 

この狩野川は昔から乱流によって数多くの中洲が形成されその地名が大蛭、小蛭、和田島などの地名が付けられていた。

 

 

その中に蛭ヶ小島という名前がありました。
そのに14歳から34歳まで、北条時政伊東祐親に監視された生活を送っていた。

※上記の北条時政と伊東祐親をクリックすると詳しく書いてあります。興味のある方は読んでください。

 

 

これでなんで、頼朝湘南ボーイ?と思われる方もいると思う。
実は蛭ヶ小島は伊豆半島の中心にある「韮山町」鎌倉も近い三浦半島も近い、そんな所で20年も住んでいれば地理もばっちり頭に入っています。

 

 

頼朝は今で言うと不良っぽいイケメンでモテたと言われ、浮名もいっぱいあるそうです。

空気は綺麗だし魚も美味しい山もあれば海もある、女性もいるし極楽地と思ったに違いない。

 

 

韮山の東には伊豆と箱根の山々が屏風のように連なっています。
見通しの悪い伊豆の山をひょいと越せば熱海、伊東です。
その先には相模湾が広がっています。

 

 

熱海・伊東から船に乗っていけば陽があるうちに三浦半島は付けただろう。
その三浦半島から房総半島まで鼻の先です。
頼朝は、この三浦半島から房総半島を自由に行き来していた。

 

                                                     ▲伊豆半島・三浦半島・房総半島です。

 

この三浦半島には豪族の三浦氏がいて、房総半島には豪族の千葉氏がいました。
この両者は頼朝の決起時の盟友で、この両者は頼朝の信頼する配下となった。

 

我が故郷の加藤景廉頼朝重臣でした。

※上記の加藤景廉に興味のある方は、クリックして情報を得てください。

 

 

頼朝が鎌倉に本拠地を置いた理由とは

1185年源氏は壇ノ浦の戦いで、源義経の活躍で平家を滅亡させる。
これにより頼朝は武士団の頭領となった。

 

 

1192年に頼朝征夷大将軍に任じられたが、京都に行かず東の鎌倉にいた。
なぜ、鎌倉いいのか?

 

 

平家の残党に仕返しを恐れてか、鎌倉が防御しやす場所なのか、背後の山々が鉄壁の要塞なのか、鎌倉に入るには切通しを通って来ないと入れない。

軍隊のような集団が切通を避けて森から侵入するのは不可能である。

 

 

山からではなく海から攻められるが、鎌倉の海も鉄壁と同じ、鎌倉の前面に広がるのは由比ヶ浜という浅瀬の海岸なんです。

多くの兵士を運ぶには、海が最も便利ですが、接岸するのに砂浜が便利か岩場が便利かというと、浅瀬の浜に上陸すると兵達にとっては地獄となります。

 

 

なぜかと言うと、1m以下の水深になると兵士たちは武装したまま海水に浸かったまま歩いて上陸しなければなりません。
そうすると弓矢の格好の標的になってしまう。

 

 

上陸してもびしょ濡れで刀を抜いて戦わなければ状態です。
山と海に鉄壁の鎌倉は要塞といえます。

 

 

 

そんな鎌倉に留まった理由は一体なぜ?

征夷大将軍に任命された頼朝ですが、1603年に徳川家康が任名された時のような圧倒的な権力の象徴ではなかった。

 

 

武士団の頭領として東「夷」を撃つ役目を朝廷から命じられただけだった。
20年の歳月で頼朝は関東を知り尽くしているし、このことを知った上で湘南ボーイはわざわざ山と海で鎌倉を選んだ。

 

 

権力を握った者がどこを本拠地にするかは興味あるテーマである。
頼朝前は平家、平家といえば京都を本拠地tしていた、京都といえば朝廷のお膝元で便利
であるはずだが人口密度が多い。

 

 

 

平安京の秘密

京都は劣悪な衛生状態、頼朝は手が付けられないほど不衛生だった。
794年、垣武天皇は京都に平安京を建設した。
唐の長安を模した東西4.2Km,南北4.9Kmの人口都市を造った。

 

 

ここに何人が住んでいたのか、他から武士・商人・職人ら流人が暮らした。
そうなてくると人口密度の問題である、衛生環境は悲惨な状態となっていった、ひとたび病気が蔓延したならどうしょうもない。

 

 

平安京の水道は鴨川、その鴨川は下水道でもあったしゴミ処理上であり、遺体放棄城でもあった。

周囲の山々の木材は燃料として伐採され、山は荒れ放題となり、ひとたび雨が降れば出水と土砂流水で悩まされる。

 

 

このスラム化された平安京に毎年のように疫病がでた。
この惨状を見聞きして恐れていた

若き湘南ボーイは、伊豆半島から」三浦半島、房総半島で育った、今更そんな不衛生なところへは行かない。

 

 

 

頼朝の死

頼朝が権力を握って長くは続かなかった、1190年落馬して死んだとなっていますが、落馬ぐらいで死にますか?

 

競馬で競走してて落馬したぐらいで死んだという話は知らない、じゃ誰に殺されたのか?
犯人は鎌倉の武士達の権力欲のような気がします。

 

 

 

-源 頼朝

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