岩村城は敵が攻めて来た時、霧ヶ井戸に城内秘蔵の蛇骨を投じるとたちまち山全体が霧に包まれて城を守ったという。
蛇骨は二の丸の宝蔵に収蔵されており虫干しをした記録が残されている。
そのため別名・霧ヶ城と呼ばれています。
▲霧ヶ井戸
城下町にはお寺さんが多い、ざっと挙げれば清楽寺・盛巌寺・浄光寺・隆祟院・妙法寺・東光院・徳祥寺・萬勝寺など多い。
それぞれ殿様が入封するたびに一緒に連れてきては廃寺になったり残ったりします。
今回は江戸時代に入って大給本家の松平乗寿が浜松城へ転封した後に、三河国伊保藩から入封して来た丹羽氏が建立した妙法寺にスポットを当てたいと思います。
どうして妙法寺かというと幼き頃遊び場と言えば妙法寺の境内で野球したり相撲とったり冬になると七面山があるのでそこの階段から滑り降りては遊んでいました。
懐かしい思い出です。
その頃は歴史なんて知らすに遊んでいました。
妙法寺創建は岩村城主・二代丹羽氏定であった
丹羽氏は、清和源氏の末裔で尾張国丹羽郡丹羽荘に住んでいたので丹羽を名乗った。
初代岩村城主・丹羽氏信の父・丹羽氏次は徳川家康に属し天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、本拠地・岩崎城(愛知県日進市)の留守を任された。
弟の氏重は秀吉軍の攻撃を受け城兵300人と共に討ち死にした。
この功績により関ヶ原の戦いの後、三河国伊保藩一万石を与えられ地方の士豪から大名に昇格。
その子、丹羽氏信は、大阪の陣等で活躍して寛永十五年(1638年)に三河国伊保藩より入封、美濃国岩村藩の初代藩主となった。
正保元年(1644年)に大阪加番に任じられるが正保三年(1646年)5月11日江戸で死去認め、跡を氏定が継いだ。
丹羽氏定には多阿姫がいたが、加賀爪土佐守に嫁ぎ難産で苦しんでいた時、江戸の法華験者日輝上人の祈祷を享けて安産を得た。
氏定夫妻は篤く信心を起こし、承応元年(1652年)藩内の城北・大将陣の峰続きに法華経守護の善信七面大明神を祀り、翌年その麓に妙法寺を創建した。
恵那地方唯一の日蓮宗に所属する寺院だった。
▲妙法寺山門
翌年六月に豆州玉沢(現・静岡県三島市)本山妙法華寺中興十七世・日亮上人を招聘して開山した。
はじめ山号を経王山と称したが、明暦三年(1657年)四月に氏定死去すると、その法号の興昌院殿桃雲宗蕚大居士にちなみ山号を桃蕚山と改称した。
往時の寺に規模について元禄指出帳によれば、仏殿六間八間、庫裡四間六間、鐘撞堂八尺四方、鎮守 三十番神堂六尺四面、七面明神社二間四面とある。
当、妙法寺は創建時に藩主・丹羽氏定公から寺領五十石を附与され、藩内安全祈祷所として保護されたが、後に元禄十五年(1702年)七月に、五代目・丹羽氏音の時、お家騒動が起き領地半減となて越後高柳(現・新潟県新井市)へ国替えとなる。
越後に遷※1るに及び民間の寺となり、藩内豪商・山内五良左衛門らの加護により大いに繁栄した。
※1.遷(せん)とは、うつる。場所・地位があうつる。また、うつす、遷都。
その間、天保六年(1835年)12月に大火に遭い諸堂、ことごとく灰燼(かいじん)に帰し、当山二十世・日勇上人、二十一世・日令上人二代に亘る丹精によって、嘉永六年四月(1853年)本堂庫裡はほぼ旧観に復した。
明治四年(1871年)には廃仏毀釈※2の弾圧があり、二十二世・日謙上人は寺の規模を縮少し辛うじて毀却からの命脈を保ち得たと同時に、苗木藩仏好寺の寺宝の数々を引き継いだのこの時でした。
※2.廃仏稀釈(はいぶつきしゃく)とは、仏教寺院、仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し仏教を廃することを指す。
以来星霜百数十年の歳月を経て現在の寺容となった。
妙法寺の七面山とは
この七面山は妙法寺より奥まった小高い山の頂上にある。
その七面山は階段87段ありますが少々汗をかきますが、ご利益が貰える所です。
丹羽氏の2代目城主夫妻の発願により承応元年(1652年)城の北に位置する大将陣の峰続きに法華経守護の善神七面大明神を祀ったのが始まりです。
なぜ、丹羽氏定は七面山を造ったかというと、多阿姫が難産で苦しんでいた時江戸の法華験者日輝上人の祈祷を享けて安産を得た。
そのため地元に日蓮宗に所属する寺院を招いた。
厄除け。安産祈願の七面山です。
本堂のまくら冢※3、山門※4をじっくり見学するとよいでしょう。
七面山の並びに大将陣※5があります。
※3. まくら冢(つか)とは
天正三年(1675年)織田信長により長良川の河原にて逆さ磔になった、秋山信友とおつやの方等を鎮めるために建てられた供養塚です。
▲妙法寺の境内にある「まくら冢」
まくらは身分の高い人の意味で後年頭の病気の守護神として信仰を得ています。
※4. 山門とは
明治六年(1873年)岩村城郭建物払下令により、旧岩村城門を妙法寺に移築して山門とした。
「不弍門」の文字は史学家・頼山陽の筆。城門に多く見られる高麗門として、当時の城郭を偲ぶ貴重な遺構です。
※5. 大将陣とは
天正3年(1575年)長篠の戦いで勝利した信長は、嫡男・信忠を岩村城に侵攻させ秋山夫妻を捕らえた。
その時に陣を構えた丘(後で大将陣と名前がついたという)。
▲大将陣の入口