渋沢栄一は血洗島で生を受け、尊王攘夷に明け暮れ、従兄の喜作と共に京都へ出て、平岡円四郎に出会った事により道が開けて行った。
一農家の人間が、一橋家の家臣になって慶喜公に謁見できるなんて普通じゃ考えられない。
運の強さ、平岡円四郎の存在が大きい、運が良い事にパリ万博への随行で見る目が違ってきた。
では、どうして一万円札の顔に選ばれたのか?
その他、新紙幣には千円札には「北里栄三郎」五千円札には「津田梅子」20年ぶりの一新しての2024年の上半期(4〜9月)に発行するらしい新紙幣。
▲これになるらしい、やっぱり聖徳太子の方がいいな〜
渋沢栄一は、自分だけ儲かることをせず、全て社会のため・公益のためを考え働いてきた人です。
今の政治家も見習って欲しいですね。
私利私欲で、誰かが利益を独り占めすることを嫌い、多くの経済活動、社会活動に関わり、日本の社会全体の利益を重視し、発展していくことを目指した人物だからです。
企業の内部留保をしてる人は無理ですね。
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渋沢栄一の年表
天保11年(1840年)0歳
武蔵国血洗島(現・埼玉県深谷市)に豪農であった、渋沢家に父・市郎右衛門の嫡男として生まれる。
弘化4年(1847年)7歳の時
従兄の尾高惇忠のもとで、論語などの漢籍や日本外史などを学ぶ。
●主な出来事
□弘化3年2月13日、孝明天皇即位。
□弘化3年8月3日、海王星発見。
□弘化4年3月24日、長野善光寺地震M7.4
安政5年(1858年)18歳の時
尾高惇忠の妹千代と結婚。
●主な出来事
□福沢諭吉が蘭学塾(慶応義塾の前身)を創立。
□安政5年2月26日、飛越地震、北陸地方で大きな被害発生。
□安政5年3月12日、朝廷で日米修好条約の反対を巡り、廷臣八十八卿列参事件が起こる。
□安政5年6月19日:江戸幕府、日米修好通商条約始め、安政の五カ国条約に無勅許調印。
□安政5年9月5日:大老・井伊直弼による反対派弾圧が始まる(安政の大獄)
□〜安政7年にかけてコレラが大流行。
万延2年/文久元年(1861年)21歳の時
従兄の渋沢喜作と共に江戸に出て、2ヵ月に亘って遊学。
儒学者、及び漢学者である海保漁村の門弟となる。
北辰一刀流の剣士・千葉栄次郎の道場に入門する。
●主な出来事
□文久元年5月28日:水戸藩士ら東禅寺のイギリス公使館を襲撃。
□文久元年7月2日:長州藩重臣・長井雅楽老中に航海遠略策を上申。
□文久元年8月:武市半平太ら土佐勤王党を結成。
□文久元年11月11日:和宮様江戸に到着。
文久3年(1863年)23歳の時
再び、江戸に出て、4ヵ月間遊学。
ここで一橋徳川家の家臣・平岡円四郎と出会う。これで人生が変わる。
遊学中に尊王攘夷の思想に目覚め、尾高惇忠や喜作らと倒幕計画を企てるも、惇忠の弟・尾高長七郎から熱心な説得を受けて頓挫する。
親族に迷惑がかかることを懸念した栄一は、父・市郎右衛門に勘当された体裁をとり、喜作と共に京都へ出立する。
●主な出来事
□文久3年3月4日:徳川家茂京都へ入る、6月13日に江戸へ帰る。
□文久3年3月13日:浪士組江戸に帰るが近藤勇らは残留する。
□文久3年5月10日:長州藩、関門海峡通過中の外国船舶を砲撃。
□文久3年6月6日:高杉晋作奇兵隊を結成する。
□文久3年7月2日:薩英戦争始まる。イギリス軍艦、鹿児島に砲撃し薩摩藩応戦する。
□文久3年8月17日:公家・中山忠光らの天誅組、大和五条代官所を襲撃。
文久4年/元治元年(1064年)24歳の時
栄一は一橋家の命令で西郷隆盛と会見。薩摩藩の藩士で砲術家の折田要蔵による洋式兵学塾に、内偵のために門下生として潜入。
平岡円四郎からの推挙により、一橋慶喜の家臣となる。
●主な出来事
□元治元年3月27日:天狗党の乱、藤田小四郎ら筑波山で挙兵。12月17日加賀藩に降伏。
□元治元年6月5日:池田屋事件、新撰組会合中の宮部鼎蔵・吉田稔麿らを急襲。
□元治元年7月11日:佐久間象山暗殺される。
□元治元年7月19日:禁門の変。長州藩御所を攻撃し敗れる。
□元治元年8月2日:第一次長州征伐。
□元治元年8月5日:アメリカなどの四国艦隊、長州藩の下関砲台を占拠。
□元治元年12月16日:高杉晋作ら下関で挙兵する。
□元治元年12月27日:幕府、長州領から撤兵する。
元治3年/慶応元年(1865年)25歳の時
渋沢栄一自ら農民兵部隊の募集を一橋家に建白する。
その後「歩兵取立御用掛」に命ぜられ、領内を巡歴、成功を収めたことで、慶喜より褒美を受ける。
さらに、藩財政改革案を慶喜に提案したことにより、「勘定組頭」に就任する。
●主な出来事
□慶応元年2月2日:高杉晋作長州藩の実権を握る。
□慶応元年4月19日:第二次長州征伐。
□慶応元年閏5月1日:坂本龍馬、下関で桂小五郎と会合。
□慶応元年閏5月11日:武市半平太処刑される。
□慶応元年閏5月18日:イギリス公使にパークス着任。
慶応2年(1866年)26歳の時
一橋慶喜が征夷大将軍になって、徳川慶喜となる。
よって渋沢栄一も幕臣になる。
●主な出来事
□慶応2年6月7日:幕府長州藩を攻撃
□慶応2年7月20日:徳川将軍・家茂大阪城で没、幕府は家茂の喪を伏せる。
□慶応2年8月20日:徳川慶喜、第十五代征夷大将軍に就任。幕府家茂の喪を発する。
□慶応2年8月21日:孝明天皇長州征伐休戦の勅命を下す。
□慶応2年12月25日:孝明天皇崩御。
慶応3年(1867年)27歳の時
渋沢栄一は将軍の命で、異母弟の徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会へ出立つする。
※上記のパリ万国博覧会をクリックすると、別記事があります。
●主な出来事
□慶応3年1月9日:明治天皇践祚する。
□慶応3年1月11日:徳川昭武欧州に特使として出航。2月27日パリ万国博覧会開催。
□慶応3年2月6日:将軍・徳川慶喜大阪城でフランス行使ロッシュと会談。
□慶応3年10月13日:徳川慶喜二条城で大政奉還の諮問を行う。倒幕の勅使が下される。
□慶応3年10月14日:徳川慶喜朝廷に大政奉還を奏請。
□慶応3年10月15日:明治天皇大政奉還を勅許。
慶応4年/明治元年(1868年)28歳の時
武士政権の江戸幕府が倒れたことにより渋沢栄一ら一行はパリから新政府の命で帰国。
同政府から謹慎を命じられて静岡藩へ移されていた徳川慶喜に面会に行く。
主君・徳川慶喜から受けた恩義に報いるため、静岡藩に留まって同藩に出仕する。
●主な出来事
□慶応4年1月3日:鳥羽伏見の戦い。鳥羽、伏見で旧幕府軍と新政府軍が交戦するも、旧幕府軍が敗退。
□慶応4年1月8日:徳川慶喜大阪城を出て江戸に戻る。
□慶応4年2月9日:新政府有栖川宮熾仁親王を征夷大総督とする。
□慶応4年2月13日:徳川慶喜寛永寺で謹慎。
□慶応4年3月6日:新撰組甲陽鎮撫隊を組織し、甲斐の柏尾で新政府軍と戦い敗退。
□慶應4年3月13日:勝海舟と西郷隆盛会談する。
□慶應4年3月14日:明治天皇五箇条の御誓文を発する。
□慶應4年4月2日:甲陽鎮撫隊・近藤勇新政府に投稿、4月25日近藤勇斬首される。
□慶應4年4月11日:江戸城無血開城。
□慶應4年4月:福沢諭吉慶應義塾を開塾。
□慶應4年5月3日:奥羽越列藩同盟。会津藩、仙台藩などの奥羽、越の諸藩が同盟を締結。
□慶應4年5月15日:彰義隊上野で新政府軍と戦い敗退。
□慶應4年7月17日:江戸を東京と改称。
□慶應4年8月19日:旧幕府海軍総裁・榎本武揚ら、軍艦八隻を率いて脱走。
□慶應4年8月23日:新政府軍会津若松城を攻撃、若き白虎隊自刃。
□明治元年9月8日:明治に改元。
□明治元年9月22日:会津藩降伏。
□明治元年10月13日:江戸を皇居とする。
□明治元年10月25日:榎本武揚ら五稜郭を占拠。
この後、明治2年後以降の活躍は、後編で書きます。