若き家康は信長と同盟関係を結んだが、その後どうなって行ったか
気になりませんですか?
苦難の道を歩み続け戦い戦いでボロボロになって城に辿り着き再起をかけた戦いに信長と共に歩んで行った。
運がいいでしょうか命が持ったのが不思議なぐらいです。
家康は名前を4度も替えました。
竹千代→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康と替えていった。
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家康は苦難を耐えた
織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ったのは、永禄3年(1560年)でその後、徳川家康と同盟関係を正式に締結されたのは2年後であると記されている。
婚姻関係※1を結んだのが、永禄6年(1563年)3月に家康の嫡男・信康と信長の長女・徳姫との約束で信長と家康の絆を強くした。
永禄10年(1567年)5月27日に嫁ぐ。この時、徳姫8歳。
※1.婚姻関係とは、家康の嫡男・信康と信長の長女・徳姫を正室て岡崎殿と敬称された。元亀元年(1570年)に信康が嫡子として岡崎城に移され際に、嫡子生母として築山どのも共に岡崎城に入る。
ところが敵国の武田と家康の正室・築山殿※2が内通したるとの徳姫からの文で信長に知らされた事件で多くの試練を味わった。
※2.築山殿とは、家康の正室で通称瀬名姫、一般的には、築山殿、築山御前、駿河御前といわれてた。
天正7年(1579年)信康の正室・徳姫は、築山殿が徳姫に関する讒言※3を信康にしたこと、築山殿と唐人医師・減敬との密通があったこと、武田家との内通があったことなど、12ヶ条からなる訴状を信長に送り、これにより信長が家康に信康と築山殿の処刑を命じたとされる。
※3.讒言(ざんげん)とは、他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く云うこと。
家康には、数々の難問が容赦なく降ってきた。
永禄7年(1564年)2月には、三河一向一揆が家康を襲い、三河領国を揺さぶった。
家康23歳の時であった。
こうした宗教の苦い経験を持った家康が、晩年にキリシタンをはじめ宗教対策に取り組んだのも、この経験が生かされたものか。
家康は三河軍団を組織し、永禄9年(1566年)のは、松平姓を捨てて「徳川」を名乗った。
幼名を竹千代、今川義元につけて貰った14歳で元服した時に松平元信、その後、祖父の松平清康の「康」の字を取って松平元康と改名し、元禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを機に松平家康と名乗るようになった。
さらに元禄9年(1566年)に、、名字を徳川に改めた。
元亀元年(1570年)家康は、信長と共に浅井長政と朝倉義景連合軍を討ち破った。
いわゆる姉川の合戦である。
▲合戦
戦いに勝利した家康は、岡崎城を息子・信康に任せて浜松城に移った。
当面の敵は武田信玄だ。
大井川を渡って堂々と遠江に侵入する武田信玄に対し、信長は家康に危険だから岡崎に退くよう勧めた。
勇猛果敢な信玄の行動を、一番知っていた信長でした。
ところが家康は信長の忠告を無視して浜松城に踏み留まった。
この時に起こったのが三方原の合戦であり、家康は生涯で最も惨めな敗北を味わうことになる。
信長の予想は的中、死を覚悟した家康に、家臣たちは主君を死なせるわけには行かないと、夏目次郎左衛門が家康の身代わりとなって、無理やり家康の乗った馬を奪って浜松城に向けて蹴飛ばしたという。
▲夏目次郎左衛門が家康の身代わりになって突撃(イメージ)
身代わりの夏目次郎左衛門は討ち取られたが、主君家康は無事浜松城へ向かった。
反省して大きくなる
三方原の合戦後の敗北で家康は多くを学んだ。
「勝ことばかり知って、負けることを知らない場合は身の破滅である」ことを。
宿敵・武田信玄は天正元年(1573年)伊那の駒場で倒れた。
信玄53歳、家康32歳の時だった。
敵とはいえ立派な武将を亡くしたことで、信玄の死を追悼したという。
信玄の後を継いだ勝頼は、家康の属城遠州の高天神城を奪った。
その代わりに家康は、東三河の長篠城を攻略、いわゆる長篠の戦いは徳川・織田の連合軍が武田の騎馬軍団を三千挺の鉄砲で殲滅(せんめつ)した。
その後、遠州や駿河に入った家康は、武田支配の駿河にも侵入し駿府を無抵抗のまま占領した。
織田信長の協力がなかったら、おそらく武田勝頼との抗争すら戦い抜くことも不可能だったに違いない、こうした協力な軍事同盟があったから成し遂げられた。
信長の命令で天正7年(1579年)8月29日、武田氏と内通していたといわれる家康の正室・築山殿を遠江の高塚で殺害し、同年9月15日に息子・信康を切腹自害させなければならなかった38歳の時だった。
徳川家康の主な戦歴
□永禄3年(1560年)5月‥今川義元の先鋒隊として初陣(19歳)
□永禄6年(1563年)秋‥ 三河一向一揆と戦う(23歳)
□永禄12年(1569年)1月‥今川氏真を掛川に攻める(28歳)
□元亀元年(1570年)6月‥信長と浅井・朝倉を破る(29歳)
□元亀3年(1572年)12月‥三方原の戦いで武田信玄に大敗(31歳)
□天正3年(1575年)5月‥長篠の戦いで武田勝頼を撃破(34歳)
□天正9年(1581年)3月‥高天神城を落とし遠江を平定(40歳)
□天正10年(1582年)2月‥武田軍を駿河から一掃(41歳)
□天正11年(1583年)4月‥賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る(42歳)
□天正12年(1584年)3月‥小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と戦う(43歳)
□天正18年(1590年)4月‥北条氏を小田原に攻める(49歳)
□慶長5年(1600年)9月15日‥関ヶ原の戦い(59歳)
□慶長19年(1614年)11月‥大阪冬の陣(73歳)
□元和元年(1615年)5月‥大阪夏の陣(74歳)
※若い時から戦い続けた家康74歳まで戦った。立派です。
浜松城から駿府城へ
天正10年(1582年)織田信長が没した、本能寺の変である。
この後の家康の運命も変わった。
家康と秀吉との間で、天下取りの合戦が水面下で始まっていた。
家康は秀吉から離れるように、浜松城から駿府に移ったのは、天正14年(1586年)12月4日で家康は45歳であった。
家康が駿府に移ったのは、石川数正が家康を裏切ったため浜松城内の手の内を読まれてしまう恐れがあり、新たな戦略上からも駿府に移ったという説がある。
また家康が東海五カ国の大名となったため、新しく領国の拠点を駿府としたとする説もある。
『静岡市葵区羽鳥の旧家に伝わる古文書』によると、家康が浜松から駿府に来る時に藁科の飯間の野田沢(のたんたざー)から駿府に入ったという記録がある。
家康は駿府に来ると、ここに城を構築し、海道一の武将として大きく一歩前進した。
駿府に移る前に秀吉と和解した家康は、秀吉の・異母妹(いもうと)、旭姫を妻として迎えざるを得なかった。
政略婚姻による両者の和睦だ。
家康は不承不承旭姫を受入れたが、二人の関係は良くなく結果的には別居結婚となった。
家康45歳、旭姫44歳である。
家康は駿府時代に独自の領国経営の手腕を発揮し、領国支配の法令「七カ条」を制定し、農業政策や五カ国総検地の実施、領国の宿駅(交通機関)の一部整備もこの時代に行った。
特に税金や夫役(軍事力)の取り決めを明確にし、土地の所有関係を明らかにしたのは民生の安定と軍事体制の強化を狙ったものである。
この考え方は、後の士農工商の基本的考え方にも通ずるものであり、中世の中にすでに近世社会を萌芽させていたことになる。
このほかにも領内の石工・鋳工・木工・陶工ら職人の保護と、工業や製造業の育成や商品流通を盛んにし、町人の保護育成に力を入れ城下に定住させた。
士農工商の先駆けでもある。
家康時代の駿府城下町は、中世の城下集落から近世の城下町への過渡期としても注目される。
家康の領国五カ国とは、「三河・遠江・駿河・甲斐・信濃」であり駿府を支配の拠点とした。
ところが天正18年(1590年)、秀吉の命令で小田原の北条氏を攻めることになり、この戦いに勝った家康は五カ国と交換に関東に国替となった。
家康は出来たばかりの駿府城や天守にゆっくり入ることもなく、駿府での五カ国統治時代は四年間余りで終わった。
天正時代の駿府城
天正期の五カ国統治時代にも家康は、ここ駿府に駿府城を築城した。
工事は天正15年(1587年)家康が45歳のときに始まった。
奉行は松平家忠で、「家忠日記」によると、「天正度御在城、御座所となりしは、天正14年より同18年までなりき、家忠日記追加にいう。
第十、天正十三年乙酉七月十九日、大神君駿府の城に来臨あり、閏八月十四日駿府の城経営に依って大神君の命を奉りて松平主殿助家忠駿府に至る。同十四年丙戌九月十一日大神君浜松の城より駿府の城に移りたまう。 諸士群参してこれを祝し奉る。
松平主殿助家忠太刀一腰ならびに樽肴を献ず云々。
今日吉日たるに依って仮に駿府城に移りたまいて浜松に還御あり」〔「家忠日記」〕とある。
家康はこの時、浅間神社の造営や臨済寺の再興も行い多忙であった。
「家忠日記」によると、「十二月四日、大神君浜松城より駿府の城に移りたまう。
御家人等月迫りたるの間、家を駿府に移す者少し」と記され、今川義元が敗北すると、今川時代の駿府城下町は荒廃した。
その後に駿府城下町に入った武田信玄も、部分的には整備をしたが本格的なものではなかったようだ。
まだまだ未整備の駿府に移って来た家康であったが、家臣たちが駿府に移ってこようとするものが少なかったこともこの記録は記している。
「藩翰譜」(第七)には、「大久保譜にいう、天正14年12月4日駿河の国府へ御館移さる。
俄の事にてはあり、年も暮んとす。
家移す御家人一人もなし。
忠隣(大久保相模守)計(ばかり)ぞうつる。
徳川殿も悦びたまい、人々もみな感じあえり」とあって、武田・今川の戦闘に加えて、徳川と武田の戦乱でも駿府はかなり荒れ果てていた。
そんな駿府に、家康が領国の首都をあえて建設しなければならない理由は何だったのであろう。
この理由の一つには天正13年(1585年)8月、家康に従って数々の功績を残した家臣石川数正の出奔が尾を引いていたようである。