美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

掛川城の戦い

徳川家康は信玄と密約を結んで掛川城を攻めて無血開城しかし武田と敵対

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 応永12年(1405年)以降、遠江守護職は約一世紀にわたり斯波氏が受け継いいた。

斯波氏とは、武家・華族だった日本の氏族。斯波氏家は室町幕府将軍足利一門で細川氏・畠山氏と交替で管領に任じられる有力守護大名であった。

 

 

応仁の乱(1467年〜1477年)にわたって、細川勝元の東軍に参加していた駿河の今川義元は、東遠江の有力国人衆を倒して遠江を平定し、実質的に遠江守護職として支配していった。

※応仁の乱とは、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)の長期にわたって継続した内乱です。どいう内乱かというと、室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏の領家の家督争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡んで幕府の中心であった細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名の対立です。

 

 

義元は、さらに甲斐の武田信玄、相模の北条氏康との間で「甲相駿三国同盟」を結んだことで、後方からの安全を確保し、三河から尾張の侵攻を開始し上洛しようと進軍して行った

 

      ▲勢力図

 

ところが桶狭間で織田信長の奇襲を受けた。

 

 

 

義元桶狭間で戦死したため再編成の動き

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、織田信長の攻撃により今川義元が討ち取られ三河・遠江は混乱に陥った

 

 

東海地方に激震が走ったことは言うまでもなく、義元亡き後、松平元康(徳川家康)織田信長同盟を結んで今川氏から独立すると、他の三河武将らも追従し、その離反は次第に遠江へも波及していった。

※上記の同盟を結んでというところをクリックして貰えば詳しい記事があります。

 

 

義元の死は三河・遠江の混乱にとどまらず、周辺に割拠する武将たちにも新たな行動の契機にとまった。

 

 

三河の平定に成功した元康(家康)は、次第に遠江侵攻の機会を伺い始めていった。

 

 

永禄8年(1565年)11月、織田信長武田信玄と同盟を結んだことで、信玄・義元・北条「甲相駿三国同盟」は事実上決裂となった。

 

 

そこで信玄は今川氏に見切りををつけ、その領地を虎視眈々と狙い始めた。

 

 

今川氏の孤立が決定的となったのは、永禄9年(1566年)信玄松平元康(家康)※1の間で、今川領地駿河・遠江の分割領有について密約がかわされたときである。

※1.この時期、松平元康は名前を徳川家康に改名してたかどうか、正式に替えたのは永禄9年(1566年)12月19日です。23歳の時です。

 

 

これは分割領有の密約であると同時に、三河から家康が甲斐から信玄が、同時に攻め込むという今川包囲網でもあった。

 

▲信玄と家康

 

甲斐の信玄と三河家康同時に駿河侵攻

永禄11年(1568年)12月20日、信玄が甲斐から駿河へ攻撃を開始。

信玄氏真駿府今川館(現・掛川市)を攻めたため、今川氏真は家臣・朝比奈泰朝が守る掛川城へと逃亡した。

              ▲掛川城

 

急のことで氏真の正室・早川殿や侍女らは輿を用意できず、徒歩で逃げ出すほどの緊迫状況だったという。

※早川殿とは、相模国の戦国大名・北条氏康の娘。

 

 

駿河を追放された氏真は、遠江を死守するため掛川城で態勢を立て直そうと忠臣・朝比奈泰朝と会議した。

 

 

掛川城の朝比奈泰朝は、父が今川氏親に仕えて以来、今川家重臣として遠江に尽力していた忠臣である。

 

 

一方、徳川家康も永禄11年12月13日、三河・遠江の国境に軍を進め、15日には井伊谷に侵攻していった。このときには家康の名で25歳です。

 

 

懐柔工作が進んでいたこともあって、大きな抵抗を受けることもなく、18日には西遠江の要衝である曳馬城(現・浜松市)を早々に攻略する。

 

 

女城主の直虎井伊城は徳川についた。

この快進撃をみてか馬伏塚城(現・袋井市)小笠原氏興高天神城(現・掛川市)小笠原信興らの今川方の武将も戦わずして家康に従った

※上記の直虎をクリックしていただくと、岩村の女城主のなかに井伊直虎の記事があります。興味ある方は読んでください。

 

家康は、2月19日、久野城(現・袋井市)久野宗能※2に命じて天竜川に船橋を架けさせ、翌20日掛川城近くに迫った。

※2.久野宗能とは、兄が当主だったが桶狭間の戦いで戦死、跡を継いだで徳川に降伏。

 

 

実際に徳川軍と今川氏真が籠る掛川城の今川軍が戦ったのは、12月23日のことであった。

 

 

翌永禄12年(1569年)5月まで、およそ半年間に及ぶ攻防戦が繰り広げられることになる。

 

 

今川軍は援軍が見込めない状況だったが、忠臣・朝比奈泰朝の奮戦により容易に落城はしなかった。

 

 

家康も開戦当初から掛川城を落とすのは困難であるととみており、付近にいくつもの付城※3を築いた。

※3.付城とは、敵城を攻める時に築く城守るときは支城という。

 

 

家康は掛川城の北約800mの天王山砦(現・掛川市)に本陣をおいた。

そして、掛川城の東方にある笠町砦(現・掛川市)には山家三方衆の奥平貞能と菅沼正貞をおき、西方にある金丸山砦(現・掛川市)には久野宗能とその一族を配置した。

 

 

さらに、南方には重要な南北交通である塩の道の要衝にあたる峠に青田山砦(現・掛川市)を築き、松平一族竹谷松平清宗形原松平家忠をおいた。

 

 

この四砦により掛川城の四方を固め、その他にも河田村や曽我山などにも布陣して、掛川城の包囲を徐々に強めていった。

 

 

膠着状態が続き家康の和平開城策を氏真は選択

年が明けて永禄12年(1569年)正月、今川氏の守る掛川城及び、天王小路において戦闘がみられた。

 

 

このときは、本城の付近まで戦闘がおよんだが、落城には至らなかった。

 

 

現在も天守丸に残る霧吹き井戸は、霧を吹いて徳川軍の侵攻を阻んだと伝えられており、雲霧城の別称を持つ由縁である。

 

 

掛川城がいかに堅固な城であったかを表す逸話

である。

近年の発掘調査によって本丸門の前には三日月堀、十露盤堀、内堀(松尾池)を配し、のちの山内一豊による若干の改修はみられるものの、暗渠を駆使した外枡形として普請され、強固な防衛線を作り出しでいたことが判明した。

『宗長手記』からも、掛川城の築城が断続的ではあるが、長期に及んでいたことがわかり、名実ともに掛川城が要害であったことを実証している。

終わり。

 

 

徳川家康率いる大軍をもってしても掛川城は容易に落城せず、戦況は変わらずこう着状態が続いた。

    ▲いまは公園になっています。

 

 

ここで、笠町砦の奥平定能※4家康和平開城を進言した。

家康も力攻めによる落城は困難とみて、和平開城策を採用することにした。

※4.奥平定能とは、作手亀山城主で今川氏に仕えていたが、徳川氏についた。

 

 

交渉は3月8日から始まったが、すでに信玄家康との約定を破って遠江に攻め込んでいたことから家康は信玄と手を切り、徳川家康・今川氏真・北条氏康の三者で、武田軍を駿河から追い払った後、駿河を氏真に返すという盟約で開城することになった

 

 

5月15日、今川氏真は小田原の北条氏を頼って、懸塚(現・磐田市)から戸倉城(現・静岡県駿東郡)へ入った。

 

 

結局、氏真は駿河の国主として返り咲くことはなかった。

東海の大大名として名を馳せた名門今川氏は、掛川城をもって滅亡した。

 

 

家康が領有した掛川城は、重臣・石川家成が入り、東遠江の支配にあたった。

 

 

同時に武田氏との関係が悪化するなか、天正2年(1574年)高天神城が武田氏によって落とされると、掛川城の重要性がさらに高まり、「境目の城」※5として位置づけられ、武田氏の侵攻を防ぐ役割を果たした。
※5.境目の城とは、敵地と接する最前線の城、敵の動きを監視する攻守の要。

 

 

-掛川城の戦い

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。