小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の間で行われた全国規模の戦役です。
この戦いは、信長の後継者争いや天下統一の行方を左右する重要な局面であり、秀吉と家康が唯一直接対決した歴史的な戦いです。
ことの始まりは、天正10年(1582年)6月2日、京都本能寺で起きた「本能寺の戦い」で織田信長が家臣・明智光秀に討たれて、跡目を継いだ嫡男・織田信忠、その弟・犬山城主・織田勝長(信長の五男・岩村城主、幼名・御坊丸、別名信房)等も討死するという大惨事が起きた。
のちの新聞で、当の明智光秀が謀反を起こして自ら参戦したといわれているが、当日、明智光秀は本能寺には参戦していなかったことが判明しています(新聞発表されてます)。
※上記の明智光秀をクリックしてください。
ここに新聞記事が載っている記事がありますので、信じる信じないは自由ですので、興味ある方は、上記の明智光秀をクリックして読んでくだい。
横道にそれましたが、羽柴秀吉と徳川家康の対立の発端は、信長と嫡男・織田信忠亡き後の後継者問題です。
後継の問題で誰が実権をとるかを協議
6月27日、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興らが集まって後継者や遺領について清洲城で話合いをしました。
いわゆる「清洲会議」です。
▲清洲城
秀吉は嫡男・信忠の嫡男・三法師(後の織田秀信)を推し、後継者として擁立、不満を持った信長の3男・織田信孝、2男・織田信雄たち、秀吉は信孝と対立している織田信雄と手を結ぶ。
どちらも正室・濃の子供ではないため、どちらが先に生まれたか定かでない。
天正11年(1583年)4月に、信孝を推す柴田勝家と賤ヶ岳の戦いが勃発、信雄は秀吉方に属していたため信孝と争う。
5月には織田信孝を信雄は岐阜城に攻めて降伏させ、織田信孝は尾張に送られる途中で切腹させられ、柴田勝家と信長の妹・お市の方が自害した後、三姉妹を引き取って後見して面倒を見たのは秀吉ではなく、信雄であったといわれています。
また、三女・お江(のちに徳川秀忠の継室)を佐治一成に嫁がせたのも秀吉ではなく織田信雄とされてます。
秀吉はどうして家康と対立するのか
光秀を討った山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いで勝利した秀吉が信長の政権を直接継承した訳ではなく、信雄が秀吉に臣従するまでは親子2代の織田政権(安土幕府)であった。
▲織田信雄
▲安土城
さらに、勝家方の滝川一益も秀吉に降服し、織田信雄は北伊勢・伊賀を加増され、前田玄以(美濃の生まれで戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶・武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人)を京都所司代に任命し、三法師の貢献として安土城へ入城した。
すぐに秀吉に退去させられ、二人の関係は険悪化した。
天正12年(1584年)正月に近江国坂本の三井寺で秀吉と会見したが「決裂」伊勢長島城に戻った。
秀吉は信雄家臣の津川義冬・岡田重孝・浅井長時の三家老を懐柔※1し傘下に組み込もとするが、父の同盟者であった家康に接近し同盟関係を結ぶ織田信雄は、天正12年(1584年)に親・秀吉派の三家老を処刑して、秀吉に宣戦布告をした(小牧・長久手の戦い)である。
※1.懐柔(かいじゅう)とは、うまく手なずけ従わせること。抱き込むこと。
こうして家康は巻き込まれていった。
秀吉と戦うために三河の徳川家康に援軍を求め、天正12年家康は主家・織田氏を助けるという大義名分で、1万五千の兵を率いて清洲城へ入り信雄軍と合流する。
小牧・長久手の戦い
簡単にいうと、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓※2)陣営と織田信雄・徳川陣営の間で行われた戦い。
※2.豊臣賜姓とは、天正13年(1585年)に正親町天皇から羽柴秀吉に下賜され、これにより秀吉は関白叙任の際に得ていた藤原の氏を豊臣に改めた。
▲小牧城
▲長久手古戦場
これで両軍の戦闘準備が整い、今にも天下分け目の戦いが開始されるばかり、ときたま小競り合いがあっただけでお互いに相手の出方を伺い、両軍の大きな動きは見られなかった。
4月に入って池田恒興が秀吉に家康の本拠地・岡崎を奇襲しようと進言、それを秀吉が聞き入れ作戦が始まった。
4月6日夜半、2万の大軍を四隊に分け第一隊を池田恒興。第二隊を森長可、第三隊を丹羽秀政、第四隊を羽柴秀次を隊長として、楽田から物狂峠を越え山裾に沿って大草、関田を経て上条に野営し、庄内川を渡って長久手方面へ向かった。
しかし、この動きは家康側に通ずる篠木の住民により、小牧山の家康本隊に通報された。
家康は水野忠重に命じて小幡城に向かわせ、自らは9千300の兵を率いて、如意、勝川を経て庄内川を渡り小幡城へ入った。
4月9日早朝、家康軍の先遣隊は白山林で敵の秀次軍を打ち破った。
秀次軍は援軍を秀政に願い、秀政隊は桧ヶ根で家康軍先遣隊を蹴散らせ打破したが、力を使い果たして北方へ退却した。
家康軍の本隊は長久手に進み、池田恒興・森長可両軍を迎え、ついに一大決戦を迎え衝突した。
激戦を重ね家康軍の優勢が目立ち、池田恒興・森長可の両大将は戦死したので同軍は崩れた。
両軍の死者は、秀吉軍2500・家康軍550、この敗報を聞いた秀吉は2万の兵を率いて長久手に向かったが、家康はいち早く兵をまとめ遠回りして小牧山へ引き返したため衝突は免れた。
このことを知った秀吉はなすすべもなく兵を率いて楽田へ帰った。
その後、両軍の睨みあいが続いたが大きな合戦もなく、5月1日に秀吉軍の主力軍は小牧地区から退き、また、家康軍も7月中旬には兵をひきあげた。
織田信雄は、11月15日伊賀と南伊勢に加え北伊勢の一部の秀吉への割譲などを条件に、家康に無断で単独講和を結んだ。
このため信雄を擁していた家康は、秀吉と戦う大義名分を失って撤兵した。
織田家と同盟を組んでいたため参戦したが、兵を失い割を食ったのは家康の方である。
講和を結んだ後に、秀吉は信雄を正式な織田家の当主(三法師の名代ではなく)に据えたとする。
実権を握っていたのは秀吉で信雄は家臣扱いであった。
戦後・信雄と秀吉と家康
織田信雄は領国、尾張・北伊勢5郡(桑名・員弁・朝明・三重・河曲)となった。
領国の縮小により、家臣団の知行替えが大規模に行われ、この際滝川雄利に神戸城(河曲郡)を与えた。
以降、秀吉に臣従し、天正13年(1585年)8月に富山の役に従軍している。
また、11月には家康の元へ織田長益・滝川雄利・土方雄久を送り上洛を促している。
天正15年(1587年)の九州征伐では出陣する秀吉を勅使らと共に見送った。
九州征伐後は内大臣に任官され、天正18年(1590年)1月秀吉の養女となった長女・小姫と徳川秀忠が結婚するも死去(継室に淀の妹・江を娶る)。
なお、長島城は天正13年(1585年)の天正地震で大破したため、地震以降は清洲城を回収して居城とした。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、伊豆韮山城攻めから、小田原城包囲軍に転属し武功を挙げる。
しかし、戦後の論功行賞で、家康旧領(駿遠三甲信5ヵ国)への移封命令を受けたが、信雄は父・祖の地の尾張からの移動を嫌がり拒否をしたため、秀吉の怒りを買って7月13日に改易※3される。
※3.改易(かいえき)とは、原義では律令制度において現職者の任を解き、新任者を補佐すること。中世以降は刑罰の一種とみなされ、鎌倉時代から室町時代においては守護や地頭職の変更と所領の没収、江戸時代においては大名や旗本の所領、家禄、屋敷の没取及び士分の剥奪を意味した。なお、後者の場合、除封ともいい、所領を削減されることは減封と言います。武家社会においては蟄居より重く、切腹より軽い刑罰とされています。
改易後は下野国烏山(一説には那須とも)に流罪となり、出家して常真と号した。
その後、出羽国秋田の八郎潟湖畔、次いで伊予国へと流され、文禄元年(1592年)の文禄の役の際家康の仲介で赦免され、御伽宗※4に加えられて大和国内に1万8000石を領した。
※4.御伽宗(おとぎしゅう)とは、室町時代後期から江戸時代に初期にかけて、将軍や大名の側近に侍して相手をする職名。相談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈などをした。御咄衆、相伴衆などの別名もあるが、江戸時代になると談判衆、安西衆とも呼ばれた役職。
肥前名護屋城にも兵1500を率いて着陣したという(『太閤記』)