美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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徳川家康のあだ名が「タヌキ親父」と呼ばれる由来は

投稿日:2022年12月11日 更新日:

 世間一般に徳川家康の事をタヌキ親父というあだ名で呼ぶようになったか? その由来は・・・

 

なぜ、そう呼ぶのか?どのような意味や語源があるのだろうか?そもそもタヌキという言葉にはどのような意味があるのかについても考えていきたいと思います。

 

 

ネットで調べると、狸親父と入力すると、年老いてずる賢い男をののしっていう語。たぬきじじい。と書いてあります。

 

 

家康には家康の事情がある訳だろうが、狸親父と言われる理由がある、単に体型からなのか、それとも顔がタヌキに似ていたからだろうか?

 

 

タヌキは化けて人を騙すと言われていますが実際にタヌキ・狐に騙された事ありますか?。

 

 

家康タヌキなら石田三成は、後世、佐和山の狐というあだ名されたそうです。

        ▲騙し合い

 

狐はイメージ的にスマートで計算高くタヌキより上手く人を騙し、陰険な振る舞の感じがしますね。

 

 

三成と家康ではどちらが騙すのが上手だったのか?
戦国時代騙して騙されて生き抜いていく術を身に付けていかなくてはならない状態だったのだろうか。

 

 

 

家康が天下を取るまで

天下を取るって事は並大抵ではできないこと。

豊臣秀吉が生きてる間は、家来というより相談役という感じで秀吉に接していたんじゃなかっただろうか?
事実は分からないが・・・

 

 

もともと、秀吉織田信長の家臣、家康は信長の同盟者だった。

信長が亡くなって清洲会議で後、両者が対立し、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦い干戈※1を交えるが、結局は家康が政治的に屈する形となった。

※1.干戈(かんか)とは、「〜にかけて争う

※上記の小牧・長久手の戦いをクリックしていただくと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

秀吉は家康が煙たいので妹・朝日姫を家康の後妻(継室)に、また関東転封を行った。​​

 

 

ここにこんながある「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」という狂歌をご存じですか?

 

 

これは、織田信長がはじめた天下統一という大事業を、豊臣秀吉が引き継いで完成させたのに、何もしていない徳川家康が現れて、我がものにしてしまった、という意味です。

 

つまりは、徳川家康が天下を横取りしたと例えている歌なのです。

事実、そういった側面もあったでしょう。

 

 

しかし、徳川家康は決して楽な人生を送ってきたわけではなく、むしろ苦労の連続だったと思う。

 

 

徳川家康、幼名、竹千代は三河(現在の愛知県東部)の『岡崎城』で弱小大名の嫡男として生まれた竹千代は、6歳からの2年間を織田家、その後19歳までを今川家の人質として過ごしています。

 

 

一番感じんな事は「このまま人質として人生を終えてしまうのか?」

忍耐の日々が続き、少年ながらそんな思いに打ちひしがれることも多々あったでしょう。

 

 

ですが、結果からいってしまえば、徳川家康こそがこの戦国時代の最終勝者となったのが事実です。

 

 

慶長5年(1600年)に起こった天下分け目の『関ヶ原の戦い』で東軍の統率者として、西軍・石田三成らを破り、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開きます。

 

 

そして、その12年後に豊臣秀吉無き後の豊臣家を滅ぼして、250年以上という世界的に類を見ない、長期安定政権を生み出したのはご存じの通りです。

 

 

思い起こせば、織田信長が天下を目前に本能寺で倒れたのが48歳、豊臣秀吉が日本を統一したのが54歳なのに対し、徳川家康が大坂夏の陣で豊臣秀頼を滅ぼしたのは73歳でした。

 

 

70代というだけでも結構なお年寄りですが、敵対する豊臣秀頼は、まだ20代の若さなので、余計にじじいぶりが際立ちます。

 

 

この経験豊富な老人家康が、若く世間知らずな豊臣秀頼に無理難題を押し付けて、滅ぼしてしまうという図式は、まさに大辞泉の狸親父のイメージにぴったりです。

 

 

この際、豊臣家が邪魔だと思っていたところに、徳川家康の言いがかりとして有名なのは、方広寺鐘銘事件でしょう。

 

 

方広寺鐘銘事件とは、豊臣秀頼が再建した方広寺大仏殿の大鐘に「国家安康」「君臣豊楽」の銘文を刻んだ事に家康が激怒した事件です。

 

 

家康は「これは家康の2文字を切って分断し、豊臣を君として楽しむという呪詛が隠されている」と難癖をつけ、銘文を起草した禅僧、文英清韓と片桐且元が弁明の為に駿府まで出向く事態になってしまいました。

 

 

家康は弁明を受け入れず、豊臣家に対して国替えか、淀殿か秀頼の江戸下向、いずれかに応じるように強要して戦に持っていって、大坂冬の陣の引金になっています。

 

 

ここまで家康の気分を害したのですから、方広寺の鐘は縁起が悪いと鋳潰かと思いきや、別に何ともなく現在まで伝わっているので、呪詛うんぬんは、全くの言いがかりだった事が分かります。

 

 

家康は大人しくしている豊臣家に無理やり戦をけしかける為に、ありもしない呪詛をでっち上げて被害者ぶって見せたのです。

これは狸親父とあだ名されても仕方ありません。

 

 

 

まとめ

戦国時代いつ相手に騙されるか、嘘の情報を信じてしまうのか、見破るのかによって戦を有利に進められ勝てるかです。

 

 

戦国時代の情報は手紙か忍者・早馬で知らせるかでした。 なので正確な情報をいち早く取得するかだったような気がします。

 

 

だから、化かす事は家康ばかりではなく、苛烈な振る舞いや残忍な行動は信長や秀吉にもあった、最後まで残った勝者だけに全ての悪行が目立つという事です。

 

 

 

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