徳川時代によく使われる、大給(おぎゅう)とう言葉は何だろう。
初代岩村城主松平家乗は家康から一字を貰って家乗と名乗っている。
二代目岩村城主は松平乗寿までは大給松平家宗家。
それから丹羽家に替わって丹羽家が五代続いて転封、以後二代目城主の松平乗寿の孫である大給分家の松平乗紀が城主になって七代目松平乗命まで続いた。
大給城(おぎゅうじょう)は、現在の愛知県豊田市大内町にあった山城。
築城主は長坂新左衛門、築城年は15世紀末頃、主な城主:大給松平家、廃城年天正18年(1590年)。
大給松平家は、松平親忠※1の次男・乗元※2を祖とする松平氏の庶流。
十八松平※3の一つ。
三河国加茂郡大給(現・豊田市)を領したことから大給松平家と称する。
松平宗家(徳川氏)に仕え、甲陽軍鑑に「荻生の少目」(おぎゅうのしょうめ)として登場する松平親乗が有名であると新井白石「藩翰譜」(はんかんふ)にはあります。
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当主は武勇に優れ「藩翰譜」には、あちこちの戦いで兜首を多数挙げたことが特筆されている。
江戸時代には譜代大名※54家のほか、数多くの旗本を出した。
なお、新井白石の藩翰譜では、「荻生松平」と表記する。
※1: 松平親忠とは:永亨3年(1431年)〜文亀元年(1501年)、3代当主松平信光の3男(2男とも言われる)で、 永享3年(1431年)生まれ。幼名は竹千代、通称は次郎三郎、左右亮、左京太夫と呼ばれ、文明3年(1471年)40歳の時、安祥城主に就任した、正室は加茂郡矢並(現・愛知県豊田市)の鈴木茂勝の娘。
応仁元年(1467年)尾張国品野、三河伊保の兵と井田野で合戦し、これを撃退。
文明2年(1470年)には、松平氏の氏神として伊賀八幡宮、同7年(1476年)に菩提所として矢作川東岸の鴨田 (現・愛知県岡崎市鴨田町)に大樹寺を創建している。これは本拠地であった安祥に適地がなく鴨田の親忠の所領があったためだと言われる。
長亨元年(1487年)額田郡麻生城を攻略。父松平信光の死後に出家し西忠と称した。
明応2年(1493年)10月には加茂郡伊保の三宅氏、挙母の中条氏、寺部の鈴木氏、八草の那須氏、碧海上野の阿部氏などの加茂碧海国人連合軍が岩津城を奪取し、岡崎城に迫ろうと矢作川を渡って、井田野(現・愛知県岡崎市)に押し寄せたが合戦し、これを破っている。
この時、信光の嫡男・修理亨親長は没しており、大軍に攻撃された松平家である岩津松平家の損傷は著しく、この 後、岩津松平家は松平一族を統率するにはいたらず、結局、この井田野合戦で武名を轟かせた松平親忠(西忠)を祖とする安祥松平家がこの後、松平一族の主流となっていく。
また、合戦直後、碧海郡の南部諸族はみな安祥松平家に服属した。松平親忠(西忠)は、明応5年(1496年)に家督を2男の長親に譲り(嫡男乗元には大給松平を、乗清に滝脇松平を称して分家した、文亀元年(1501年)8月10日大樹寺において没した。
享年71歳であったとも言われ(一説には63歳との説もあります)お墓は大樹寺にあります。
※2:松平乗元とは、戦国時代の武将。松平親忠の次男。大給松平家の祖。幼名は源次郎。通称:左近、兄弟に親長(岩津・惣領家)、長親(宗家)、乗清(滝脇松平家祖)など。子に乗正、親清、乗次(宮石松平家祖)。
三河国岩津(現・岡崎市岩津町)に生まれる。岩津に侵攻した松平信光は、長坂新左衛門の拠る加茂郡荻生(おぎゅう)の大給城を攻略して三男の親忠に与えた。
親忠は次男の乗元に細川城と共に大給城を譲った。乗元、乗正父子は永正7年(1510年)頃まで大規模な改修を行った。墓は大給城にあります。
※3:十八松平とは、松平氏に一族のうちで、徳川家康の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称。徳川宗家を 含める場合もある。徳川宗家を含める場合もある。
家康の祖父・松平清康までの庶家(しょけ、とは→宗家ないし本家より別れた一族の事を言う。嫡流に対して庶流の家柄。主に日本の封建時代においてみられた血族集団である。分家、庶流※4、庶子家ともいう。
なお、ときたま混同されるが、傍系とは、本家・分家とは無関係に、ある人物からみて共通の祖先のいる者たちをいう(例えば、兄弟姉妹、直系尊属の兄弟姉妹の子孫など)。
また、十四松平ともいわれる。十八松平は「松」の字を分解し十八公とする中国の慣習から着想されたと説があり、十八という数は実数ではないとも指摘される。
※4:庶流とは、宗家ないし本家より別れた一族のことをいう。嫡流に対して庶流の家柄。主に日本の封建時代に おいてみられた血族集団である。庶子家ともいう。
※5:譜代大名とは:江戸時代の諸大名のうちで、関ヶ原の戦いい以前に徳川氏に臣従(しんじゅう:臣下(しんか)として従うこと)した者。外様と区別される。領地は5万石以下が圧倒的に多かったが、戦略的に重要な地点におかれた。老中、若年寄など幕府の要職を占め、親藩に次いで好遇された。江戸時代後期総大名266家だったとき、譜代※6大名145家あった。安祥御譜代(特に阿部、青山、石川、植村、大久保、酒井、本多氏を安祥七譜代という)岡崎御譜代、駿河御譜代の別がある。なお、外様大名で譜代大名に準じるものを願御譜代といった。
※6:譜代とは、譜第とも書く。家の系統を継いでくることで、七徳の一つといわれ、家系、世系さらには系図、系 譜、また代々主人に仕える者を意味した。特に江戸時代、幕府は徳川氏に世襲的に仕えた大名を譜代大名といい、農村では主人に世襲的に隷属(れいぞく:つき従うこと。従属。)した下人を譜代下人といった。
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歴代岩村城主
岩村遠山氏
○加藤景廉:源 頼朝の重臣
○遠山景朝:加藤景廉の嫡男。
○遠山頼景
○遠山景友
○遠山景前
○遠山景任:元亀3年(1572年)12月に城中にて戦病死。
○御坊丸 ○おつやの方:天正3年(1575年)11月織田軍に投降。(長良川にて磔刑)
武田氏
○秋山信友:天正3年(1575年)11月織田軍に投降。(長良川にて磔刑)
織田氏
○河尻秀隆:天正10年(1582年)6月甲斐にて武田遺臣により殺害される。 ○団 忠正:天正10年(1582年)6月本能寺の変により死去。
森氏(織田信長)
○森 蘭丸:18歳にて城主になるも本能寺の変で戦死。
○森 長可:蘭丸の兄。小牧山の戦いに秀吉の旗下として戦い長久手の戦い で戦死。
○各務元正:岩村城を摂取した森 長可の家老。鬼 兵庫と呼ばれた。
○森 忠政:蘭丸・長可の末弟、慶長4年まで城主。
田丸氏(豊臣秀吉)
○田丸直昌:北畠氏庶流。関ヶ原の戦いで西軍に属し改易。
徳川氏(徳川家康)
○松平家乗:初代岩村城主。大給松平家第6代・松平真乗※8の長男、母は 戸田忠重の娘。正室は石川康通の娘。
子供は松平乗寿(長男)、松平智乗(次男)、娘(大久保教隆正室)、 娘(知丸直政室)らがいる。
官位は従五位下、和泉守。幼名は源次郎。天正10 年(1582年)、父・松平真乗が37歳の若さ死去したため家督を継ぐ。
天正15年(1582年)、主君徳川家康から偏諱※7(へんき)を授かって家乗と名乗った。
▲藩主邸櫓を復元
城の麓に藩主邸を造営し、これを中心にして城下町を経営した。尾張・三河方面から有能な商人を招聘(しょうへい)して、城下町の繁栄を図った。
林 述斎(じゅっい)、佐藤一斎を輩出。
※7:偏諱とは、貴人などの二文字の中の一方の字を忌み避けること。 また、その二文(家康)字の一方の字を貰って松平家乗と名乗った。
天正18年(1590年)、家康が関東に移封(いほう)されると、家乗は上野国那波郡内(こうずけのくになわぐん→とは、群馬県(上野国)にあっ郡。)に1万石の所領を与えられる。
慶長元年(1587年)には官位を叙任された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原に戦いでは、家康に従って従軍し、三河吉田城の守備を務めた。
戦後、家康からそれを賞されて美濃国岩村藩2万石に加増移封された。
慶長19年(1614年)死去。跡を長男乗寿が継いだ。
※8:松平真乗(まつだいら さねのり)、戦国時代の武将。松平親乗の子。 母は松平信定の娘。子供には松平家乗、松平真次。幼名は源次郎。早くから徳川家康(又従兄にあたる)に仕え、遠州平定戦では掛川城攻めで活躍した。
そのほかにも姉川の戦い、諏訪原の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、徳川の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げていた。天正8年(1580年)の田中城攻めの帰り、殿の石川数正の軍を朝比奈信置が襲撃した際には、松平真乗が反撃して破っている。天正10年(1582年)に37歳の若さで死去した。家督は長男の松平家乗が継いだ。
○松平乗寿:(のりなが)江戸時代前期の大名。美濃国岩村藩第2代藩主、遠江国浜松藩主、上野国館林藩初代藩主。大給松平家宗家7代。
父・松平家乗の死により家督を継ぐ。
同年冬からの大坂の陣に出陣して戦功を挙げ、寛永15年(1638年)美濃国岩村2万石から遠州浜松城3万6000石へ加増移封された。
寛永19年(1642年)には、徳川家綱付きの老中に任じられ、正保元年(1644年)2月28日には、上野館林6万石に加増移封となった。家綱が4代将軍となると、正式に老中の一人として政務を取り仕切った。
承応3年(1654年)55歳で死去。
丹羽氏(2万石)
○丹羽氏信:大阪の陣で武功あったことから、美濃国岩村城主となり、譜代大名として岩村藩の初代藩主。
○丹羽氏定
○丹羽氏純
○丹羽氏明
○丹羽氏音
松平(大給)家(2万石〜3万石)
○初代松平乗紀(のりただ):文教政策に志し城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。
小藩でありながら、文教藩として全国に名を馳せた。元禄15年(1702年)信州小諸より転封するや文武所を建設し後藤松軒の門人の佐藤勘平※9(周軒)を 招いて藩士の子弟を教育した。
※9 :1665年〜1741年江戸時代前期〜中期の武士儒者。寛文5年生まれ。後藤松軒に学び、元禄15年美濃国岩村藩の儒者となる。松平乗賢の養育係をへて家老にすすむ。曽孫に佐藤一斎。
77歳で死去。江戸出身。名は広義、通称勘平、別号に塵也。著作に「本邦祭義」「四書参考」「小学参考」などがある。
○二代松平乗賢(のりかた):歴代藩主の中で最も名君の誉れ高き人、幕府の老中に抜擢され、領地も1万石加増され3万石となった。
将軍の代替わりの時、領地目録と朱印状が交付される。
老中となったため1万石は西美濃で五千石、静岡県で五千石を領した。
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○三代松平乗薀(のりもり)の子に三男林述斎の子三男鳥居耀蔵(南町奉行)
○四代松平乗保(のりやす)
○五代松平乗美(のりよし)
○六代松平乗喬(のりたか)
○七代松平乗命(のりとし)明治元年官軍に帰順ついで版籍奉還。