岩村名物「水半漬物販売店」の前の桝形地形、岩村町の中心場所。
そういえば岩村警察があった、当時商店街にはネオンサインがキラキラと灯っていた。
その反対側には昔から「八日ゑびす」をやるお宮庚申堂がある。
そこは祥雲寺というれっきとしたお寺でした。
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岩村藩の城下町にある、祥雲寺(庚申堂)にある三基の石造仏。
歴史掘りおこし委員会を参照して文章を作成。
岩村城下町・下木戸の枡形に祥雲寺(庚申堂)があります。
境内には高札場看板があって、その隣にタイトルの三基の石造仏が並んであります。
▲高札場と奥に三基の石仏
▲奥に見えるのが祥雲寺(庚申堂)、右側に三基の石仏
いま、写っている建物は江戸時代の祥雲寺が復元された建物です。
この祥雲寺は元和年間(1615年〜1624年)に第2代岩村藩主、松平乗寿(後の老中)が建立されたとされ、西に位置する石室千体仏も、このお殿様が安置した。
※石室千体仏の記事があります、興味のある人は上記の石室千体仏をクリックしてください。
▲祥雲寺(庚申堂)境内にある石仏
境内には、高札場看板があり、隣には三基の石場物が並んで立っている。
向かって左から「阿弥陀三尊文字塔」、「地蔵菩薩」(舟形光背浮彫立像)、「名号碑 南無阿弥陀佛」の順に並んでいます。
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年代も不明で,今までは「無縁さん」として正月に供養するだけだった。
04年の町村合併以前から、町石造文化財調査委員の岡田武司さんを中心とした調査委員会が全町の石仏調査をした。
その結果、「地蔵菩薩」は延宝七年(1669年)の建立で最も古い地蔵とわかり「名号碑」についても「寛文五年(1665年)」の文字の読み取りに成功した。
「阿弥陀三尊文字塔」は、町内では、唯一の貴重な石造物で、善光寺三尊と同じ文字が刻まれていたこともわかったという。
特に地蔵菩薩は錫杖(しゃくじょう)が大きく、先端が二つに割れていることや、舟形が楕円形であることなどから、同委員会は「超一級の地蔵」と説明している。
○お問い合わせは、ふれあいの館0573-43-4622まで。毎日新聞2009年6月11日掲載から引用。
三尊とは、阿弥陀如来と左脇侍に観世音菩薩、右脇侍の勢至菩薩(せいしぼさつ)の三尊で構成する。
観世音菩薩は般若心経の冒頭に、世の人々を観察し、人々の願いを聴く。
勢至菩薩は月待ち信仰の二十三夜の主尊になり、女性に広く信仰される。
阿弥陀三尊は智慧(ちえ)の光をあまねく照らし迷いを取り除く。
鶴里町誌編纂委員会の事務局長中嶋洋二氏のご指導によると土岐市妻木町に数例あり下石町に一基、多治見市に一基、笠原町に一基あり、これは「閑唱名号塔」と呼ばれ融通念仏により人心を安定に導いに「作仏聖」「万治の石仏」と共に活動して閑唱※1(かんしょう)の筆になるもの、
※1:閑賞とは、閑唱上人のことです。岐阜県土岐市妻木町の山寺には、古いお寺の跡がいくつかあります。「山寺」という地名もその事に由来すると考えられます。その中に霊合山但唱寺(たんしょうじ)という小さなお寺の跡があります。
明治時代の初めに廃寺になりましたが、今でも雑木林の中に石積や門の跡が残っていて当時の面影が偲ばれます。この寺には閑唱上人というありがたいお坊さんがおいでになりました。上人は岐阜・笠原の心性寺で千体仏を刻み、妻木の八幡院の住職を勤めた後、霊合山を隠居所としました。
閑唱上人の話は、紀州徳川家が作らせた書物の中に登場してきます。上人は、厳しい寒さの中でも薄い衣ひとつで念仏のみをしていたと言います。ある時、信者たちが上人に珍味美味を食べてもらおうと届けました。しかし、上人は胸に刺さると言って食べてもらえませんでした。
また、床下には大蛇が住んでおり信者がいない時には、上忍の膝を枕にしていたと言います。霊合山には、この地方だけではなく三河、尾張からも多く信者が集まっていました。また、庶民だけではなく領主妻木氏も厚く信仰していました。
上人は、この地方の他に、伊那谷(長野県飯田市付近)や江戸のお寺の住職を兼ねており、これらの地方を行き来しながら、あちこちで人々に教えを説いていました。妻木町内を初めとして、この地方には多くの閑唱上人に関する石造物が残されています。
「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号碑や、近年「万治の石仏」として有名になったお地蔵さんなど、上人の名前はいつか忘れられてしまいましたが、石造物は長く信仰の対象としてお祀りされて来ました。
閑唱上人のような僧侶を、木食(もくじき)僧と言います。奥深い山中で厳しい修行をし、広い地域を布教して歩きます。円空仏で有名な円空さんや、槍ヶ岳開山の播隆さんなども木食僧の一人です。
現在は西町一丁目の公会堂として使われ、この建物には祥雲寺当時からの庚申堂が祀られているので通称・庚申堂と呼ばれています。
また、毎年1月8日には「八日ゑびす」として使われいます。
西宮神社がここ祥雲寺(庚申堂)を内務省登録9180号の版権を得て「透かし入り」の特別「御神影札」として頒布しています。
御神影札(おみえふだ)
西宮神社のご祭神(ごさいじん)である「ゑびす神」は、福の神様として鎌倉・室町時代には文献や謡曲、狂言などに語られ、全国の崇敬※2の方々にお祀りされてきました。
※1:崇め(あがめ)うまやうこと。尊祟(そんすい)。「生き仏として尊敬する」「尊敬の念」
▲正面が祥雲寺(庚申堂)枡形地形にあります。
これらの由緒によりまして、江戸時代の寛文3年(1663年)に4代将軍徳川家綱公がご造営された社殿の維持修復料にあてるために、古来より発行されてきた「御神影札」に版権が許可され、独占的に頒布することが認められてました。
「御神影札」は、北陸・中部・東海・関東方面から遠く東北地方にまで普及(ふきゅう)し、多数の崇敬者があったことを窺い(うかがい)知ることができます。
江戸時代の本社神主家発行の免許状を先祖より受け継がれ、今日に至るまで配布を続けておられる方もあります。
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この庚申堂の三基の石仏について、西町一丁目組の新年初寄合で隣組みの柳町、本町五丁目組の代表者も列席され『無縁供養』を毎年執行されています。