岩村町民なら岩村城は幼き頃から存在を知っている。
昭和39年に歌手の梶光夫さんが「青春の城下町」をヒットさせました。
流れる雲よ 城山に
のぼれば見える 君の家
明かりが窓に ともるまで
見つめていたっけ 逢いたくて
あぁ 青春の 思い出は
我が 故郷 城下町
また、三橋美智也さんの「古城」もピッタリのお城山です。
慶長5年9月15日の「関ヶ原の戦い」のあとの徳川時代の岩村城主たち。
せっかく岩村へ来たなら目の前にあるお城山へ登って見よう。
岩村城跡を登ると途中に霧ヶ井戸、この井戸から霧を発生させるんだと感心させ、その前に旧八幡神社跡があります。
▲霧ヶ井戸
※上記のお城山をクリックしてもらえば、登城口から本丸までが詳しく書いてあります。よろしかったら見てください。
また、こんな山奥にある山城で武田信玄・織田信長が城取り合戦を繰り広げ争ったこと、こんな山城を探索しましょう。
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遠山氏の時代には鴨長明が居住していた、また林 述斎(大給分家松平家 第3代岩村藩主松平乗薀の三男乗衛が養子として林家へ)、斎藤一斎、三好 学その他を出している。
※上記の鴨長明をクリックすると記載があります。
▲お城山
それ以前鎌倉時代(今から830年前)にお城ができていた事を知るときっと驚く事でしょう。
そんな岩村町でNHKの朝ドラ『半分、青い。』の撮影が行われた。鈴愛が女城主「おつやの方」になると、もっと人気が出る。
▲加藤景廉の紋(上り藤に三つ目結) ▲長男遠山景朝(丸に二つ引)
遠山氏の後は武田信玄の武田二十四将の一人秋山虎繁(信友)その後、信長の家来河尻秀隆が秋山虎繁対峙し元亀3年岩村城攻めの主力として活躍したため岩村城を与えられた。
川尻秀隆は天正疏水の建設など現在の城下町(富田地区から城下を移転した際に)の基礎を築いたが、天正10年(1582年)武田攻めの戦功により甲斐一国を与えられる。
▲城下町の各家庭に引かれている天正疏水
その後織田信長の小姓の森蘭丸(本能寺の変にて戦死)天正12年(1484年)の小牧長久手の合戦後、岩村城は森蘭丸の弟森忠政の属城となり家老各務兵庫に与えらる。
森忠政は転封したため田丸直政が4万石で入封、半年後の関ヶ原の戦いで西軍に与した。
直政自身は大阪城に詰め、城は家臣が守り妻木城などを攻撃したが、東軍が勝ったため開城。
この岩村城下町で慶長6年(1601年)上野那波(伊勢崎市堀口町)から大給松平家乗が2万石で入封し、徳川初代岩村藩主となる。
関ヶ原の戦いの前までは豊臣の田丸直昌が4万石で岩村城主だったが、東軍勝利で城を明け渡した。
▲松平家乗(蔦)
▲大給松平氏。「関ヶ原の合戦」の翌年、戦功により恵那郡25村、土岐郡6村合わせて2万石を与えられ入城した。
初代松平家乗は天正3年(1575年)〜慶長19年2月29日(1614年4月8日)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
大給松平家宗家第5代で松平真乗の長男。
母は戸田忠重の娘、正室は石川康通の娘。
子には松平乗寿(長男)・松平知乗(次男)・娘(大久保教隆正室)・娘(知久直政室)らがいる。
官位は従五位下、和泉守。幼名は源次郎。
天正10年(1582年)父が37歳の若さで早世したため、家督を継ぐことになった。
天正15年(1587年)主君・徳川家康から偏諱※1(へんき)を授かって家乗と名乗った。
天正18年(1590年)には家康が関東に移封されると、上野国那波郡内に1万石の所領を与えられる。
慶長元年(1596年)には官位を叙任され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って従軍し、三河国吉田城の守備を務めた。
戦後、家康からそれを賞されて美濃国岩村藩2万石に加増移封された。
慶長19年(1614年)死去。
※1:偏諱とは、貴人などの二字名の中の一方の字を忌(い)み避けること。また、その二次名の一方の字。
跡を継いだのは長男・松平乗寿が継いだ。
松平乗寿(のりなが)は、美濃国岩村城第2代藩主で大給松平家宗家7代。
父の死の同年冬から大坂の陣に出陣出陣して戦功を挙げ、寛永15年(1638年)岩村藩2万石から遠州浜松城へ3万6000石で加増移封された。
寛永19年(1642年)には徳川家綱付きの老中に任じられ、正保元年(1644年2月28日)には上野館林6万石に加増移封となった。
家綱が徳川第4代将軍となると、正式に老中の一人として政務を取り仕切った。
承応3年(1654年)55歳で死去。その子が松平大給の分家として丹羽氏の後に岩村城に入る。
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松平乗寿転封のあとは、丹羽氏信が寛永15年(1638年)4月27日に三河伊保藩より2万石で岩村城に入る。
▲丹羽氏信の紋(丸本骨上がり総檜扇)
丹羽氏次は岩崎城7000石の領主でしたが、関ヶ原の戦いで東軍に与したので、戦後の恩賞として3000石加増されたことから1万石の大名として諸侯に列し、伊保藩を立藩した。
丹羽氏次は関ヶ原の戦い後の翌年死去し、跡を子の丹羽氏信が継いだ。
丹羽氏信は大坂の陣で武功を挙げたことなあどから、寛永15年(1638年4月27日)に2万石加増で、美濃国岩村藩に移封となり、伊保藩は廃藩となり、その所領は天領となった。
その後天和元年(1681年9月15日)に陸奥国浅川藩より本多忠晴が入ったため、再び伊保藩が立藩した。
この丹羽氏は(一色丹羽氏)は信長に仕えた、織田四天王にまでなった丹羽長秀と血縁関係の無い別の一族。
▲岩崎城
岩村城第2代藩主丹羽氏定は正保3年1646年11月11日弟の丹羽氏春に1,000石を分与したため、1万9000石の大名となる。
第3代は丹羽氏純は、2代藩主丹羽氏定の長男母は高木雅成の娘、正室は水野忠善の娘。子には丹羽氏明(長男・第4代城主)娘(土井元政室)。
官位は従五位下、式部少輔。
幼名は勘助。
明暦3年(1657年)、父の死去により第3代藩主となる。
寛文11年(1671年)に場内の八幡神社に奉納した絵馬は、現恵那市の文化財になっています。
▲城内にあった八幡神社跡
秋山虎繁夫婦を弔うため五仏寺(現・岩村町の妙法寺にあった)を建立したり、現瑞浪市の桜堂薬師の大旦那となる池、絵馬の奉納など大変信仰心の篤い藩主でした。延宝2年1674年9月27日享年38歳。
第4代は丹羽氏明、第5代藩主丹羽氏音の時、藩政改革をめぐって家臣団内部で対立が発生し、遂には家臣の村瀬兵衛が幕府に内情を訴えたために御家騒動隣、幕府からそれを咎められ、元禄15年1702年6月22日に越後高柳藩へ減移封となった。
再び松平家が岩村城主になりそして廃城まで。
丹羽氏音が転封した後、元禄15年(1702年9月7日)に信濃小諸藩より、先の第2代岩村藩主松平乗寿(のりなが)の孫・松平乗紀(のりただ)が2万石でやってきた。
▲大給松平氏の分家。松平乗紀は第2代岩村城主松平乗寿の孫
▲元禄15年に小諸から入封、知新館の前身の文武所を開くなど、文教藩の基礎を作った。
歴代藩主の多くが奏者番・寺社奉行など幕府の要職を歴任しているが、そのために第4代藩主松平乗賢(のりかた)時代の享保20年(1735年5月23日)に1万石の加増を受けて3万石となったが、そのうちの5,276石が駿河国の15ケ村(現在の藤枝市、焼津市、島田市、静岡市の一部)で横内村に横内陣屋を設置し代官を派遣した。
また、岩村藩が大坂城代に就任した期間は摂津国、和泉国、美作国で計1万石を給付されました。
なお、大給松平家は学問を奨励し、松平乗紀は藩校・文武所(のちの知新館)を創設した。
岩村藩主第3代松平乗薀(のりもり)の3男松平乗衛(のりひら)は大学頭である林 信教の養子となり、のちに林氏を継いで林 述斎(林衛)となる。
1858年箱館奉行所の要請により足立岩次※3らを蝦夷地へ派遣し近代北海道初の陶磁器生産である箱館焼きの生産を開始するが数年で失敗する。
第7代藩主松平乗命は、嘉永元年(1848年6月13日)第6代岩村藩主・松平乗喬(のりかた)の次男として生まれる。
安政2年(1855年)父の死去により家督を継ぐ、万延元年(1860年)12月に従五以下・能登守に叙位・任官する。
元治元年(1864年)に大阪加番に任じられ、慶応2年(1866年)の第二次長州征討にも参加している。
慶応3年(1867年7月)に奏者番に任じられ、12月に陸軍奉行に任じられた。
しかし幕府の要職にありながら、慶応4年(1868年2月)に、あっさりと新政府に恭順している。
明治2年(1869年6月)の版籍奉還で岩村藩知事に任じられた、明治4年1月4日に正室釣姫(ちょうひめ)を名古屋城から迎える。
なんせ62万石のお姫様だから格が違います。
※上記釣姫をクリックしてください。名古屋城の姫さまが、わずか3万石にお輿入れのことが書いてあります。
同年7月の廃藩置県で藩知事を免官された。
岩村藩は廃藩となり岩村県を経て岐阜県に編入された。
明治17年(1884年)の華族令で子爵に列せられる。
明治38年11月15日東京で死去、享年58歳。
※3:足立岩次とは、文化13年(1816年)現・瑞浪市釜戸町萩の島に生まれ、明治をさかのぼる20数年前、陶磁器製造においては孤立の状態にあった釜戸地区で優れた染付茶器その他を製造し、萩の島焼を確立した。
その精緻な製品は多治見市市之倉の加藤吾輔のそれに匹敵すると言われています。
安政5年(1858年)松平・岩村藩主の商用で北海道函館に渡り、道内初の瀬戸座を創業し、すぐれた製品を作るまでになりましたが、収支が償わないので、わずかの期間で廃業しました。
帰国後再び萩の島窯で茶器・その他を焼造し、輸出陶器にも力を尽くしました。
明治の初めには苦心の末電信碍子の製造をしていましたが、明治22年(1889年)享年72歳、以後まもなく萩の島窯も廃絶しました。
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