恵那の岩邑小学校の頃遠足というと「飯高山詣で」でした。
いま思うと近いとこだな〜車ならすぐです。
飯高山は岩村町と山岡町の接する住所で馬場山田というぐらいだから岩村城の馬に関係してた所じゃないかなぁと推察できます。
飯高観音の歴史
平安時代の初期、円仁(慈覚大師)により創立され、本尊の十一面観世音は慈覚大師の作品と伝わっています。
この観音さんは歴史あるお寺さんです。平安時代からあるお寺さんで名古屋にある四観音(荒子・甚目寺・笠寺・竜泉寺)
荒子観音‥寺伝によれば、天兵元年(729年)、泰澄の草創と言い、天平13年(741年)、泰創の弟子の僧・自性が堂宇を整えたという。泰創は加賀の白山の開祖とされる伝説的人物であり(草創伝承がどこまで史実を伝えるものかは定かでない。)
甚目寺観音‥伝承によれば、推古天皇5年(597年)、伊勢国の海人豪族である甚目龍麿(甚目龍麻呂:はだめたつまろ)が漁ををしていたところ、当時海であった、この付近で観音像が網にかかり、その観音像を近くの砂浜にお堂を建て安置したのが始まりと言う。
竜泉寺観音‥「沙石集」によれば、尾張龍泉寺は龍王が一夜のうちに造立した寺で、馬頭観音が出た池の跡が見えるとされている。これを原型としたと思われる「龍泉寺記」宝暦5年(1755年記)には、延暦年間に伝教大師「最澄」が熱田神宮参籠中に龍神のお告げを受け、多々羅池畔で経文を唱えると、池から龍が昇天すると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀ったのが開祖とされている。
笠寺観音‥寺伝によれば、天平5年(733年、一部文章には天平8年(736年)、僧・善光(または禅光)が呼続の浜辺に打ち上げられた、夜な夜な不思議な光を放つ霊木を以て十一面観音像を彫り、現在の南区粕畠町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。
小高い丘標高約600mの上にある飯高観音
飯高山 萬勝寺は(通称)飯高観音と呼ばれて親しまれ御朱印・厄払い、恵那三十三観音の第13番札所。
▲飯高山萬勝寺・飯高観音への地図です。
現在の名称は、飯高山萬勝寺は東美濃の標高600m近い恵那市岩村町から山岡町を経て明智町に至る東海自然歩道沿いの、山岡町馬場に4,000坪という広大な敷地の中にあります。
▲飯高山萬勝寺&恵那三十三観音第十三番
満昌寺の創設は平安時代初期に修験者が開基した。
この寺の前身は満昌寺と称し、平安初期にさかのぼる天台宗の古刹(こさつ)※1であり、この満昌寺が臨済宗妙心寺派(現・大本山妙心寺:京都市右京区花園町妙心寺町64)現・萬勝寺として誕生した。
スポンサードリンク
近郷の信仰を集めるに至るまでの道程は恵那地方のみならず東美濃一帯に、わたる歴史のうねりと決して無関係ではありません。
この地方には、修験道※5(しゅげんどう)の開祖である役小角(えんのおづぬ)役行者(えんのぎょうじゃ)の石像が多く残っていることからも、うかがえるように満昌寺は、はじめは修験道の寺として開基※7(かいき)されました。
▲山伏(修験者)が火渡りを ▲ほら貝
修験とは、超自然的な霊力を得るために山野に篭って修行することで、修行者ははいわゆる山伏として知られています。
修験道が平安時代に入って真言、天台の二宗※7(にしゅう)と結びつき大きく成長したことから、満昌寺は天台僧の寺院として栄え一般民衆と結びついたのでしょう。
自伝によれば、満昌寺の開祖は慈覚大師(円仁794年〜864年)といわれた、本尊千手観世音菩薩は慈覚大師の三礼一刀の御作でした。
▲慈覚大師 円仁 ▲慈覚大師像
慈覚大師は、比叡山延暦寺の三代座主で伝教大師(最澄)※8の開いた基礎を
固めて、全国に天台の教団を拡大していった天台創立当時の高僧です。
その教化(布教活動)は京都にとどまらず、故郷の下野はもとより陸奥(青森)出羽(秋田)にまで及んだ。
円仁は度々東国に下っていったようで、当時の東山道は御坂越の難所を控えていたため、その脇道として山岡から上矢作を経ての道を利用しました。
円仁がその途中の飯高へ教化(布教活動)に訪れたのは、おん歳60代半ば頃(858年)だったでしょうか。
平安時代の片鱗を全く残さない萬勝寺創建当時の祈祷が行われ、近郷の信仰を集めています。
スポンサードリンク
加藤景廉が源 頼朝の命により、この地方の地頭になる。 遠山氏の時代には満昌寺の全盛時代。
円仁のまいたけ種は、恵那郡の豪族遠山氏によって芽を吹き、中世(鎌倉〜
室町)に開花した。
▲源 頼朝の重臣加藤景廉
文治元年(1185年)美濃国遠山庄の地頭に任命された加藤景廉の嫡男景朝は岩村に定住土着し遠山姓を名乗って遠山景朝となって美濃国岩村城の始まりです。
遠山景朝は岩村城を本家とし明智(明知城)・苗木(苗木城)など七つに分かれて恵那郡全域に勢力を伸ばした。
岩村城から満昌寺までは、わずか一里と離れていない、当然その影響下にあり、岩村遠山氏、明智遠山氏の庇護※9(ひご)を受けました。
記録によれば、このころの満昌寺は岩村城の西方にあり、七堂伽藍(山門・法塔・庫裏・僧堂・浴室・東司)佛法道場、仁王門を備え、山内寺院(さんないじいん)(不動院・孤月坊・大聖坊・般若坊・尊勝寺・内光寺・苦別堂)鎮守白山大権現、田沢山中薬師四ヶ寺、都合十二ヶ院、観音堂は十二間四面とあり、堂々たる大寺であった。
『巌邑府誌』巻之四に「満昌寺境内は駿馬を馳す可誌」。
その両辺花樹を載流。呼んで桜花馬場と日う・・・」
とあり、馬場があったところから、僧兵がいたという説もありますが確証はありません。
※現在も萬勝寺の住所は山岡町馬場山田です。
しかし、馬屋、御屋敷、寺屋、関屋、仁王ヶ淵、鞍掛、兼平(鐘平)などの地名があり、また現在残る遺構※10としては、奥の院本坊、(現在の観音堂)、仁王門跡、経塚二ヶ所、五輪墓地、白山大権現、馬場桜、弁財天池(機子ヶ池:はたごがいけ)、古井戸などがあって、想像よりはるかに大規模な寺であったかもそれません。
武田信玄の家臣秋山信友の襲撃により満昌寺は滅亡した。
応仁の乱(1467年)から始まった領地をめぐる武力抗争、すなわち戦国時代
は、織田信長が室町幕府を滅ぼした天正元年(1572年)前後、大詰めを迎えようとしていました。
東美濃もまた、其の大きな渦の中で無傷でいることを許されませんでした。
元亀三年(1573年)武田信玄の家臣秋山信友(虎繁)の率いる三千の兵が東美濃を襲い、遠山氏の菩提寺大圓寺を延焼その住職希庵和尚等を飯羽間の橋のたもとで殺し(のちにその場所を希庵橋という)襲いました。
遠山氏は、一族を挙げまた奥三河の徳川軍の兵も率いて上村(現・上矢作町)で奮戦しますが、明智城主遠山景行はあえなく討死します。
天正二年(1574年)正月東美濃全域は戦火に包まれ、武田勝頼が前年に死亡した父・信玄の遺志を継技、ついに本格的な東美濃侵攻を開始し、すでに岩村城をて中に収めた武田軍は、周辺の子城に狙いを定め、苗木城(現・中津川市)高山城(土岐郡)をはじめ串原城(恵那市)など、わずか四・五日で十六城を攻め落とした。
そして、いざ明知城へ向かう途中、満昌寺に美濃の兵が潜んでいると思い、境内に火を放った。
栄華を誇った飯高山満昌寺は無念にも一日で焼失した。
スポンサードリンク
信長から秀吉、家康と権力が移るなか、満昌寺は時代から取り残された。
※この次には、妙法山萬勝寺の誕生は、次回書きますので、興味のある方はご期待ください。
※1:古刹とは、名刹・古刹という。有名な由緒あるお寺や歴史があり古いお寺を言いますが、なぜ、「刹」の字がお寺のこと指すのでしょうか?
刹には、二つの意味があります。
●一つ目はサンスクリット語のksetraの音写(おんしゃ)※2で、刹多羅(せつたら)※3:や差多羅(さたら)と表記され、土・地・田・国・国土などと意訳(いやく)※4されます。
また、土地・領地・田畑・国土などを意味し、転じて神聖な土地。聖地や仏が現れて衆生を教化する世界つまり仏国土をもつ意味する語となりました。
●二つ目の意味は、サンスクリット語のyastiの音写で、柱・竿などと意訳されます。
古代インドや西城では、お寺の堂塔の前に柱や竿を建て、先端に宝珠・火焔(かえん)の目印をつけてお寺の標識としたり、僧侶が修行の末、一法を得た時、柱の先端に旗をつけてお寺の周辺や遠方の人に知らせたそうで、そうしたことからこの語が、やがて寺院を意味するようになったとということです。
※2:音写とは、ある言語の語音を別の言語体系の文字で書き写すこと。「梵語を漢字でい一にする」。
※3:刹多羅とは、(仏教)仏教の僧院、寺院や神社。
※4:意訳とは、原文の一語一語にこだわらず、全体の意味をとって翻訳すること。また、その訳。 「日本人にわかりやすく-する」 → 直訳 ・逐語訳。
※5:修験道とは、密教や神道、古来の山岳信仰などが融合して形成された日本仏教の一つ。求菩提山※6(くぼてざん)は、中世以降に発展し、英彦山に連なる霊山として最盛期には500もの宿坊があったと伝えられるが、明治維新の廃仏毀釈(きしゃく)で廃れた。千日回峰行では未明に山中の仏像や社寺を巡拝して歩き、千枚の護摩木をたく「護摩曲く)」を千日間続ける。
※6:求菩提山とは、福岡県豊前市求菩提と築上郡築上町寒田の境界に位置する筑紫山地に属する標高782mの山である。麓の豊前市のシンボル的な山であり、かつては英彦山、犬ヶ岳と共に修験道の山だった。
※7:二宗とは、平安時代の仏教の「天台宗」、「真言宗」を意味する。
※8:最澄のことを調べるには、こURLをクリックしてください。
※9:庇護とは、弱い立場の者を庇って守ること。
※10:遺構とは、過去の建築物、工作物、土木構造物などが後世の残された状態、言い換えれば過去の人類の活動の痕跡のうちの不動産的なものを指す。現在まで残存している部分のみを言ったり、かつての構造物の構造の痕跡が確認される全体を指したりする。