美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

佐藤一斎 岩村城 林述斎

佐藤一斎の言志録で、幕末の西郷隆盛・坂本龍馬・勝海舟らに影響を与えた。

投稿日:2019年3月29日 更新日:

 恥ずかしい話ですが、地元出身なんですが佐藤一齋が岩村藩出身とは知らなかったです。

 

ましてや、こんなに日本に影響のある人物だったとは、小泉元総理が2001年5月に衆議院で教育関連法案の審議中に佐藤一齋のことのに触れたためです。

 

 

こんな無知無能な人間が、佐藤一齋の記事を書こうとしていますが、誠意いっぱい書きますから読んでください。

 

 

 

佐藤一齋は美濃国岩村藩出身

佐藤一齋は、幕末に生きた儒学者、当時、朱子学はすでに官学としての地位を与えられていたが、その晩年、幕府直轄の学問所、昌平黌(昌平坂学問所)の儒官として活躍していました。

 

 

佐藤家のルーツ、佐藤一斎は岩村藩出身で幕末に生きた儒学者

美濃国岩村藩出身著名な儒学者である。

 

 

安永元年(1772年)に江戸浜町の岩村藩邸下屋敷内で生を受ける。

 

      
          ▲ここが岩村藩藩主邸の跡です。ここに佐藤一斎の像と知新館があります。

 

 

父は、美濃国・岩村藩の家老、佐藤信由で子は二男二女の兄弟中一斎は末っ子

 

 

20歳すぎまで江戸に育った一斎は早くから俊才ぶりを発揮したが、他方かなり豪放な一面を持っていたらしい。

 

            ▲藩主邸跡に建っている佐藤一斎像・小泉元首相も来ました。

 

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若い頃拳法とも柔道とも言われる武技に秀でて筋力も強かった
一斎が夜間に酒に酔い、親友と共に道行く者を倒して歩いたという、穏やかでない逸話が残っている。

 

 

やがて一転そうした品行を悔い悟し、奮然と志を立て、学問に専念するようになったと伝えられる。

 

 

 

ちょうどその頃、一斎は十九歳の時、岩村藩主・松平能登守乗保の近侍として出仕し、武士として正式な籍を得た

 

 

松平乗保は丹波国・福知山藩5代藩主・朽木玄綱の八男として誕生。
先代第3代岩村藩主・松平乗薀の長男の乗国、次男の乗遠がいずれも早世し、玄綱が初代岩村藩主・松平乗紀の息子であったことから養子に迎えられた。

 

天明元年(1781年)、養父の隠居により家督を相続する。

奏者番、若年寄、大坂城代、西丸老中を歴任した、第4代岩村藩主です。

 

 

ところが翌年一斎は職を免ぜられ、自ら願い出て士籍を脱してしまう

そこにどのような事件や経緯があったかは不詳、浪士となった一斎は江戸を出て大阪懐徳堂※1(かいとくどう)儒者・中井竹山のもとに至る

※1懐徳堂とは、1724年〜1869年、享保9年(1724年)大阪の豪商たち(三星屋武右衛門・富永芳春(道明寺屋吉左衛門)・船橋屋四郎右衛門・備前屋吉兵衞・鴻池又四郎)が出資し、三宅石庵を学生に迎えて尼崎町一丁目(現在の大阪市中央区今橋三丁目)に懐徳堂を設立した。

三星屋らは懐徳堂の「五同士」と称される

享保11年(1726年)、将軍徳川吉宗から公認されて官許学問所となり、学校敷地を拝領した。

官許は得たももの、その後の運営の財政面は町人によって賄われ、懐徳堂が「町人の学校」と呼ばれる所以となっているが。明治政府によって旧幕府から受けていた諸役免除などの特権を廃止され、明治2年(1869年)に懐徳堂は一旦廃校となる。

 

                                              ▲佐藤一齋

 

そこで約半年に渡って学問に専念し、研鑽を積む事になる。

 

佐藤家のルーツ

生家は佐藤方政※2(さとうかたまさ)の子孫の系と伝えられ代々岩村藩の家老を務める家柄だった

 

※2佐藤方政とは、安土桃山時代から江戸時代前期の武将で佐藤秀方(六左衛門)の次男、通称才次郎で別名重秀、母は金森長近の姉、美濃国鉈尾山城主だった。

文禄3年(1594年)父佐藤秀方の死により領地を継ぐが、代々の名乗りである六左衛門という名は兄の清重が継ぐ。

しかし、小田原征伐へは佐藤方政が父・秀方が隠居、兄は病弱のため自分が出陣。
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死後、岐阜城主織田秀信の帷幕にあった。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは西軍に属し、手兵を率いて岐阜城に入城して、戌亥出丸持口を守備した。
東軍が迫ると、木曽川で阻止するため織田秀信自身が自ら出陣、佐藤方政は木造具正、百々綱家(どどつないいえ)と共に従軍し、新加納に布陣するが、八月二十二日の米野の戦いで、敵軍の福島正則、池田輝政率いる大軍に破れた。

岐阜城の戦いでは、佐藤方政の名が見られないことから、そのまま戦線を離脱して敗走したといわれ、母の実家の金森家に居候したとも言われる。

その後関ヶ原の戦い後は流浪し、慶長20年(1615年)の大阪夏の陣では豊臣方に加わって籠城の末5月7日に戦死。(ただし、方政が同じく大阪城に入城した佐藤春信と記録が混同していて、入城していないという説もある)。

戒名は佐藤院殿以徳道隣大居士。

佐藤系図によれば、兄・清重は鉈尾山城滅亡後は養老郡上石津村乙坂に蟄居し、乙坂佐藤家祖となった。
佐藤方政の嫡男・八兵衛は、大阪の陣の後、京都所司代の板倉勝重に許され西国大名に仕官下が、程なく病死した。

次男の佐太郎は出家し、尾張国熱田の円通寺の住持孤舟となったが、仔細あって遠島になったという。

子孫は、岩村城松平家※2に仕え、その後の子孫に儒学者の佐藤一斎が出た。

 

 

一斎も寛政2年(1790年)より岩村藩に仕え、12・13歳の頃に井上四明

に入門し長じて大阪に遊学、中井竹山(江戸後期の儒者)学んだ

 

 

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林 述斎は岩村城主第3代の若様だった、子に鳥居耀蔵

寛政5年(1793年)に、岩村城※3第三代藩主・松平乗薀(のりもり)三男・松平乗衛(のりひら)が、公儀儒官である林家に養子として迎えられ当主・大学頭※4として林 述斎※5と名乗った

※3岩村城とは、関ヶ原の戦い後は、家康譜代の家臣・松平家乗が慶長6年(1691年)1月に上野郡波藩から岩村城に入った慶長19年(1614年)2月に家乗は死去し、後を子の松平乗寿が継いだ

松平乗寿(大給の本家)は大阪の役【大坂の陣は、江戸幕府と豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた戦い、慶長19年(1614年)の大阪冬の陣と慶長20年(1615年)の大阪の夏の陣から成る。大阪の役とも呼ばれる】で、戦功を挙げたことを賞され、寛永15年(1638年)4月25日に遠州浜松藩へ移封される。

       その跡を↓

寛永15年(1638年)4月27日三河伊保藩より丹羽氏信が2万石で入る。
この丹羽氏(一色丹羽氏)は、信長に仕えてその四天王(信長四天王)にまでなった丹羽秀長と血縁関係の無い別の一族である。

第2代岩村藩主丹羽氏定は、正保3年(1646年)11月11日に、弟の丹羽氏春に1000石を分与したため、1万9000石の大名となる。

第5代岩村藩主丹羽氏音の時、藩政改革をめぐって家臣団内部で対立が発生、ついには家臣の村瀬兵衛が幕府に内情を訴えたために御家騒動となり、幕府からそれを咎められて、元禄15年(1702年)6月22日に越後高柳藩へ減移封となった。

       その跡を↓

元禄15年(1702年)9月7日に信州小諸藩より先の松平乗寿の孫・松平乗紀(大給の分家)が2万石で岩村城に入る

歴代の藩主の多くが奏者番・寺社奉行など幕府の要職を歴任しているが、そのために第4代藩主松平乗賢時代の享保20年(1735年)5月23日に1万石の加増受け3万石なったが、その内の5,276石が、駿河国の15ヶ所(現在の藤枝市・焼津市・島田市・静岡市の一部)で横内村に横内陣屋を設置し代官を派遣した。

また、岩村藩主大坂城代に就任した期間は摂津国、和泉国、美作国で計1万石を給付された
大給松平家は学問を奨励し、初代藩主松平乗紀は藩校・文武所(のちの知新館)を創設した

第3代岩村城主松平乗薀の3男松平乗衛は大学頭(だいがくのかみ)である林 信敬(子に鳥居耀蔵がいる)の養子となり、没後林家をついで林 述斎※2(林衛)となる。

1858年箱館奉行所の要請により足立岩次らを蝦夷地へ派遣し近代北海道の陶磁器生産である箱館焼の生産を開始するが数年で失敗する。
明治2年(1869年)最後の岩村藩主松平乗命は版籍奉還により岩村藩知事に任じられ明治4年(1871年)の廃藩置県により、岩村班は廃藩となり、岩村県を経て岐阜県に編入された。

 

※4大学頭(だいがくのかみ)とは、律令制で、大学寮の長官。従五位上相当。学生(がくしょう)の試験と釈奠(せきてき)のことを菅掌。江戸時代、昌平坂学問所の長官。元禄4年(1691年)林信篤(鳳岡)が任命され、以後代々林家が世襲。

 

※5林 述斎とは、江戸時代後期の儒学者で林家8代当主。父は美濃国岩村城主松平乗薀、祖父は享保の改革を推進した老中松平乗邑。諱(いみな)は初め(松平)乗衛(のりひら)、のちに(林)衛(たいら)。
字は熊蔵・叔紞・徳詮。号は述斎・蕉軒・蕉隠など。晩年は大内記と称す。

林述斎渋井太室(渋井太室とは、1720年〜1788年江戸時代中期の儒者)らに師事する

寛政5年(1793年)林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する

文化年間における朝鮮通信使の応援を対馬国で行う「聘礼の改革」にもかかわった。
柴野栗山・古賀精里・尾藤二州(寛政の三博士)らと共に儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌:しょうへいこう)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)。

述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』・『徳川実記』(成島司直と共同)・『朝野旧聞裒藁:ちょうやきゅうもんほうこう』・『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。

和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。
中国で散逸した漢籍(依存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内では評価は高い。

別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した。

門弟には著名佐藤一斎(同じ岩村藩なので、生まれながらの主従)・松崎慊堂、井部香山、葛西因是、青葉半山など、没後は嫡男の林檉宇が林家を継いだ

林 述斎の三男は鳥居耀蔵(とりいようぞう)(第11代徳川将軍家斉は、岩村城松平乗命に嫁いだ尾張藩の釣姫のお祖父さんが隠居して徳川家慶が12代将軍)となり、老中である水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。遠山の金さんとはライバル関係。釣姫様のブログがあります、興味のある方は釣姫様をクリックしてください。

 

鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門(13代目後藤庄三郎)と共に水野忠邦の三羽烏と呼ばれる)六男は林復斎。
娘には設楽貞丈の妻、堀利堅の妻があり、外孫に岩瀬忠震(設楽貞丈の子)堀利熙らがいる。

 

 


              ▲岩村城跡の写真

 

一斎も近侍し門弟として昌平坂学問所に入門する

文化2年(1805年)には塾長に就き述斎と共に多くの門弟の指導に当たった。

 

 

儒学の大成者として公に認められ、天保12年(1841年)述斎が死去したため、昌平黌の儒官(総長)を命じられ、広く崇められた。

 

 

当然、朱子学が専門だが、その広い見識は陽明学までおよび、学問仲間から尊敬を込めて『陽朱陰王』と呼ばれた。

 

 

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佐藤一斎門下生は三千人と言われた。

 

一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、若山勿堂、池田草庵、東沢瀉、吉村秋陽、安積艮斎、中村正直、林鶴梁、大橋訥庵、河田藻海、竹村梅斎、河田迪斎、山室汲古、北條悔堂など、いずれも幕末に活躍した英才がいる。

 

 

同門の友人には松崎慊堂がいる。
将軍侍医杉本宗春院とは極めて親しかった。

 

 

また、一斎は常に時計を持ち、時間厳守を第一とする厳格な性格の持ち主であった。

 

 

だが、「蛮社の獄」※6(ばんしゃのごく)では、無実の罪で窮地に落ちいった渡辺崋山を擁護する毅然とした対応を取らなかったので、後々(特に明治以降)「言行不一致」と批判される事となった。

※6:蛮社の獄とは、天保10年(1839年)5月に起きた言論弾圧事件である。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた。

 

 

安政元年(1854年)の、日米和親条約の終結交渉では、大学頭・林復斎(述斎の六男)を補佐している。

安政6年(1859年)88歳で死去。

 

                  ▲岩村の乗政寺いある佐藤家の墓

 

長男・慎左衛門の娘・町子(まち)は田口卯吉・木村鐙子の母親(異母姉弟)となり、鐙子の名前は一斎の命名による。

 

また、三男・立軒の次女・士子(ことこ)は、事業家の吉田健三に嫁ぎ吉田茂の養母となった
墓地は、東京都港区六本木の光専寺と書かれている。

 

 

佐藤一斎、「この人物が居なかったら、日本の夜明けは無か

ったかも知れない。」と言われる江戸時代後期の儒学者です。

 

 

門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがおり、一斉の著書であ

「言志四録」幕末西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬などに大きな影響を与えたと言われています。

 

 

城下町には一斎が残した名言が書かれた200枚もの木板が家々の軒下に掲げられてます。

 

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また各所に建てられた碑文は15ヶ所(天瀑山※7にも誌碑があるので16箇所)このような環境から岩村町では、至るところで一斎の言葉に触れることができます。

※7天瀑山は岩村にあります。
         ●興味のある方は上記の天瀑山をクリックしてください、ネットのURLを貼り付けておきます。
         ●飯高山にも興味のある方は、ブログが書いてあります。飯高山をクリックしてください。

 

 

岩村にお越しの際はこの『碑文めぐり』をしてみてはいかがでしょうか

また、佐藤一斎の「言志四録」について書きます。

 

 

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