妻木城は岐阜県土岐市の南部、妻木川を通って約4Km、三方を山に囲まれた小さな盆地が妻木町です。
いまでは、近辺にはゴルフ場が点在してます。
妻木城は標高409mの山頂に築かれた山城です
城山の北側山麓には、御殿跡、土塁後の遺構※1が残されています。
※1、遺構とは、残存する古い建造物で、昔の都市や建造物の形や構造を知るための手がかりとなる残存物。考古学では、住居跡・倉庫跡・水田跡など、その配置や様式を知る手がかりとなる基壇や柱穴などがあります。
▲土岐市妻木町
いつの時代に築城されたか定かではありませんが、一説には暦応2年(1339年)に土岐明智彦九郎頼重が祖父である美濃国守護「土岐伯耆入道頼貞」の遺領※2を継ぎ、妻木郷の領主になったのちに築城されたといわれます。
※2、遺領とは、死後残された領地。
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足利将軍第2代足利義詮とは
正平10年(1355年)の冬、頼重の弟下野入道頼高に、妻木郷笠原の半分をを譲渡した。
正平21年秋将軍足利義詮※3が、その譲渡に任せて、次のような安堵状を下した。
※3、足利義詮とは、室町時代の室町幕府の第2代将軍で、初代将軍足利尊氏の嫡男。母は鎌倉幕府の最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子です。
その足利義詮が出した書状→「尾張海東庄(除天竜寺管領)美濃国妻木郷之内 笠原半分曾木村細野同国多芸之内妻木郷、武蔵国大井郷不入読村地頭職 任兄民部少輔頼重、文和四歳(北朝1355)乙未十一月六日 譲状領掌不レ可レ有ニ相違之一状如件貞治五歳(1366)丙午八月三日 判官有茲 土岐下総入道殿」
この年頼重は没した。
しかし、近年の発掘調査によって戦国時代に築城された事が明らかになってきました。
この地方は戦国時代、武田氏と織田信長の両勢力の接点に辺り、織田方の城として防備が整えられて行ったものと考えられます。
妻木城は時代と共に改修されて、山頂には本丸、二の丸、三の丸、太鼓櫓、御殿跡、士屋敷 ※ここをクリックすると妻木城の士屋敷跡の写真がみえます。
の区画が石垣と共に残されています。(岐阜県史後に指定されています)
応永34年(1427年)以後の妻木郷地頭職の記録は徴(ちょう)し難いが、永正2年(1505年)妻木彦九郎弘定から妻木喜十郎まで、妻木城にあって近郷を領したことが知られている。
土岐明知氏が代々妻木郷を治めますが、戦国時代に入ると没落し、城主は一族の妻木氏に変わります。
妻木城主は陶器の生産を奨励し、織部・志野焼などに代表される美濃焼を育てた領主として名を残しています。
当時妻木氏は織田・武田の抗争に始まる動乱期に岩村城の遠山氏、小里氏など周辺領主が没落していく中で一貫して妻木郷を領していた。
妻木氏は織田信長に従っていたが、天正10年(1582年)6月、本能寺で織田信長が変死したとの知らせを受けた、東濃金山城の森武蔵守長可(ながよし)は、急拠金山城※4に帰城し、東濃における自立の計をたてた。
※4、金山城とは、守護代一族の系譜をひく斎藤正義により、烏峰城の名で天文6年(1537年)に築城。永禄8年(1565年)に織田信長の家臣・森長可が城主となって金山城と改称。城主は森長可、弟の蘭丸、忠政が城主となって、関ヶ原の戦いのあとに破上した。
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妻木氏は関ヶ原の戦いに徳川家康に味方し、その戦功により土岐郡内7500石の交代寄合(参勤交代をする旗本)として妻木陣屋を拡張整備しましたが、万治元年(1658年)領主の急死により後継がなく、妻木氏は断絶となり妻木陣屋(妻木城)は取り壊されました。
妻木煕子と明智光秀んの出会い
明智城の光秀が、たびたび訪れた妻木城を訪れた時に煕子との接点があった。
煕子は妻木氏の出身で、光秀とは、幼少頃より顔見知りで、仲良くて結婚し、三男四女をもうけた。