まさか、光秀とあの南光坊天海と同一人物なんて、そんなことはあり得ないと思ってる方が多いはずです。
同一人物か、もしくは同一人物ではないにしろ、なんらかの縁者だと思う。天海が突然豊臣家方が終わったときに現われている。
これは何を意味してるか?
時は江戸時代より少し前の戦国時代に遡ってみると、明智光秀といえば「本能寺の変」で織田信長を討ったことで知られている人物です。
その後、本能寺の変を起こした光秀は、「山崎の戦い」で秀吉に敗れ自害したとか、落武者狩りにあって竹槍で命を落としたとか?・・・
というように伝わっています。
実はこんな話がある
亡くなったのは光秀ではなく
光秀の影武者だった?
生きのびて明智光秀は、牢人荒深小五郎という名に変えてた。
なぜ影武者説があるのか?
一つは、光秀が秀吉に敗れた後、農民に竹槍で突かれて自害したとされていますが、農民が光秀の顔を識別できたのでしょうか?
もう一つは、光秀の首は晒し首にされたたんですが、腐敗がひどく、誰のだかわからない状態だったようです。
光秀が本当に亡くなったのか疑問に思う点が浮上するんです。
秀吉からすれば、光秀を討ち取ったことを天下に知らせることの方が重要だったと推測されます。
この時代テレビもなければラジオもない、天下に情報を知らせることが一番です。
じゃあ、光秀が生き残ったとすれば、その後どうなったでしょうか?
江戸時代
江戸をつくった人物といえば、ご存知徳川家康です。
参謀役がいたとされています。
この参謀役が江戸を設計したとされているんです。
それが南光坊天海という人物です。
さて南光坊天海なる人物はいかなる人物か?
山崎の戦いで光秀の影武者となったのが荒木山城守行信「荒木への深い恩」って事から光秀は荒深小五郎と名前を変えました。
隠居生活の後、光秀は僧侶になり、その時の名が南光坊天海なのでは?
その天海は、秀吉の死後突然現れ、それまでの記録がありません。
光秀が名前を変えて生きていた、こんな話が秀吉にバレたら大変ですから、秀吉の死後突然現れたって不思議でもなんでもないかもしれません。
明智と天海の関係
家康の墓と言えば、日光東照宮。
ここには、明智光秀の家紋である桔梗紋があるとされている、一説によると桔梗紋ではないという意見もあります。
では、なぜ光秀の家紋がなぜあるのでしょうか?
日光東照宮には、華厳の滝を見渡せる場所があるんですが、それが明智平です。
🎼 かごめかごめ
籠の中に鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ 🎼
徳川埋蔵金ありかを示す鍵とされるのが「かごめかごめ」。
何千億円、何兆円という財産が日本のどこかに埋まっているとされています!
どこに埋まっているのやら、特番が組まれれて放映されましたがみつかりませんでした。
かごめかごめに関する説
妊娠したお嫁さんを、嫉妬とした姑が夜中に石段から突き落とした歌という説、
水子を供養するために作られたという説。
この歌に明智光秀の正体が隠されているという説も‥‥
光秀の位牌を祀る大阪の本徳寺に残存する光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」※1という裏書があり、そのまま読めば光秀は仏門でつまり出家して去っていったという意味です。
※1.般舟三味 放下去(はんじゅざんまい)とは、余生を送ったという意味である。
”かごめかごめ“は明智光秀が出家して天海になったことを示している?
天海が身に着けていたとされる鎧があります。
僧侶が果たして、こんな鎧を身に纏うのでしょうか?
武士が身にまとう見事な甲冑です。
否定的な意見もあって、光秀=天海なら天海の年齢は100歳以上になるし、光秀が本能寺の変を起こす頃の年齢は60歳位という研究結果もあるくらいです。
天海が本当に明智光秀なのかはわかりませんが、明智光秀に縁のある人物だったと考える事はできるんじゃないかとおもわっれます。
特に明智光秀の重臣・斉藤利三の娘・お福が家光の乳母・春日の局※2であったという事実です。
※2.春日局とは、斉藤福は安土桃山時代から江戸前期の女性で、三代将軍・徳川家光の乳母で、朝廷から春日局という称号を賜った名であります。父は光秀の重臣・斎藤利三。
いかに徳川家と明智家が深い繋がりがあったということです。
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山崎の戦い後に
琵琶湖のほとりにある明智光秀の居城、坂本城から北西4km行った所に比叡山がある。
▲いまは城跡になってる坂本城 ▲イメージ坂本城
その比叡山の飯室不動堂に、光秀が寄進したといわれる石灯籠がある。
その石灯籠には「奉寄進 願主 光秀」の文字とともに「慶長二十年 二月十七日」と書かれている。
慶長二十年(1615年)といえば、大阪夏の陣で豊臣家が滅びた年です。
光秀が山崎の合戦から33年後のことです。
我々がよく目にする光秀も肖像画は、光秀の息子が建てた本徳寺という大阪府岸和田市にあるお寺に所蔵されています。
▲光秀の息子が建てた本徳寺という大阪府岸和田市にあるお寺に所蔵
その肖像画の上には「般舟三昧放下去」とあるが、般舟三味経に基づく修行方法を常行三味、または仏立三味といい、心を一つの事に集中し、、正しい知恵を得るための修行のコト。
「般舟」はサンスクリット語の音写で、訳すと「仏立」となる。
「仏立」の言葉のごとく、仏様が目の前に現れるという修行で、「放下」とは投げ捨てる、放り出す、捨て切るの意味。
すなわち、「般舟三味、放下し去る‥‥」とは仏門に入り、すべての執着を捨て僧侶となって去っていった‥‥という事なのだという。
実は、光秀は天海僧正ではないか?‥‥との説がある!
南光坊天海は徳川幕府のブレーンとして家康・秀忠・家光と徳川家三代将軍に仕え、家光の名付け親でもあった。
家光の「光」はわかるような気がするが、秀忠の「秀」はこじつけのような気がする。
天海は108歳まで生きたとされるが、その前半生は不明、突如、歴史の表舞台に現れ徳川の側近として朝廷との交渉や宗教政策に深く関わったとされています。
都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づく江戸鎮護※3を構想、霊的な結果で江戸を守ため、鬼門である北東の方角に、家康を神格化した東照大権現を祀る日光東照宮を建てたのも天海です。
※3.鎮護とは、仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想がある。関ヶ原の戦いに勝った家康は、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開きますが、その際関東の地相を天海に見せました。
▲陽明門
その日光東照宮の陽明門にある鼓楼と鐘楼には桔梗紋の彫り細工が多くあるが、光秀と関係があるか?桔梗紋は明智家の家紋であることは多くの人が知っている。
また陽明門には、随身像という桔梗紋の袴をつけた像まであるのだ!
さらに天海が日光全体が見渡せる最も見晴らしのいい場所に明智平と名付けてある。
天海は死後、朝廷より慈眼大師の号を追贈され、日光の輪王寺にある天海の墓は慈眼堂という
慈眼時は全国にたくさんあるが、京都の慈眼寺には漆黒の光秀像が納められている。
▲光秀像