観光客の多くの皆様は商家の城下町の方を歩いていますが、岩村の町はお城ができて約830年の歴史がある町です。
そのため岩村川を挟んで侍屋敷も幾多の地区にあったし、城山の麓には藩主邸もあったし、今は藩主邸が資料館になっています。
麓ですが乗政寺山墓地には、幾多の殿様の墓、佐藤一齋の先祖の墓、下田歌子の墓などがあります。
現・城下町ではなく、遠山時代からの旧城下町もあります。
※下田歌子の記事がありますクリックしてみてください。※佐藤一齋の記事があります興味のある方は読んでください。
岩村駅の近くには遠山景廉を頼って来た鴨長命の碑があるし、山上には加藤景廉が座ったとされる腰掛け巌があります。
妙法寺にはおつやの方と秋山虎繁を供養してる”まくら塚“があるし、其の東の丘には織田信忠が陣を張った大将陣があります。
岩村と云う所は、鎌倉時代に加藤景廉の嫡男・遠山景朝が築城したのが始まりで、南北朝時代・室町時代を経て戦国時代の末期に遠山氏最後の城主・遠山景任に織田信長の叔母・おつやの方が政略結婚で嫁いできて武田信玄に敗れて、その大将・秋山信虎とおつやの方が結婚して信長の報復によって滅ぼされる。
信長の時代に河尻慎吉が天正時代に城下町を北から南へ移した、岩村川の南の商家街が今のメインストリートになっています。
廃藩後の岩村城下町は武家屋敷と商家は岩村川で区別
▲①②③④の地区が主に侍屋敷あった所です。
明治四年名古屋尾張藩から釣姫様が花嫁として岩村藩に嫁いできた年ですが、岩村藩は岩村県にとなり、翌年岐阜県の管轄となり、ここに至って武家政治の開始より城下として約八百年年間栄えて来た岩村も、城下の歴史も終わった。
上記の釣姫様をクリックすると詳しく書いてあります。
明治六年城郭は入札競売させられ、その勇姿を没し明治八年迄に藩主は夫々※1給録を奉還し明治十年に至って資金の下賜を受け、父祖以来幾代ここに生活をした懐かしい岩村の山河を後に落ちゆく心情は七卿の都落ちにも似て、その心中や察するべきであった。
※1.夫々とは、なんと読みますか?(ふふですか?答えは、それぞれです)
かくして古い殻を破って進んだ新興日本は、封建の旧思想から自由民権の欧化思想へと進み、封建治下の岩村藩国の首都岩村城下町と失業した武士階級は、いかなる道をたどったかを究むることは蓋し興味ある材料を提供するのであろう。
一言で言えば、岩村城下町の一部たる岩村川北の侍住宅地区域は荒廃し去ったが、城下町そのものは依然として哀亡に抗し、安全を保ち今日の発展の基礎を作った。
旧藩士の行方と岩村川北(侍屋敷)人口の激減
改新の火蓋を切った新日本の政治行進曲のプレリュードは、先ず、明治元年の皇政復古そのものであった。
翌明治二年藩籍奉還、藩主・松平乗命は岩村藩知事となり藩士と共に明治新政府に属し、越えて明治四年散髪脱刀令、明治五年岩村県は岐阜県となり岩村藩国は解散を余儀なくされた。
ここに事実上藩士は失業して士族に編入され、旧藩士の屋敷をそのままに其の時の居住者に与えられたが、旧藩士の屋敷を売却他出するもの続出し、各地の郷党・知己を尋ね、或いは新しい職業を見つけて岩村を離れ、明治十二年には四百余名から一八〇名に激減した。
其のため岩村川北(侍屋敷)人口・戸数もグラフの波を生じた訳であります。
侍屋敷のあった、現在の新屋敷・新市場・馬場・殿町・日出町・江戸町・新道等の道路に沿った田畑の多くは、皆当時の侍屋敷の跡で、城麓の一帯・小学校付近・熊洞辺の如きは、大部分畑となり、その他にも屋敷跡を田畑にしている者が多く、家の間・竹敷の下等は空く当時の石垣のみを苔蒸して、ありし昔を物語っている。
時勢の然らしむるものとは云え、藩国亡びて山河ありとでも云うべく、うたた懐古の念を禁じ得ないのである。
旧藩士族は年と共に減少し、明治三・四年頃407名の者が同十二年末では181名(岩村在住のみ)明治二十一年には152名、明治四十三年には176名、昭和十三年60名と云う数字を示しています。(外にも在住士族13名あり)
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聚落解散悲話
廃藩についての興味ある聚落解散悲話たる隣村・阿木村(現・中津川市)の山奥(木曽山脈中の渓谷・焼山)にもたらされている。
この村は年々山を焼き払い、ふき・わらびを取り藩主へ、藩主は又将軍へ献上していた。
しかしその山間部は明治学制の、小学校を建つべき財力もなく、然して通学したくても中津川川上、又は阿木村へ出ねばならず、それには余り遠く、土地の開墾計画も聚落も捨ててついに村を解散し、今は耕地も荒れ果て、ただ僅かに炭焼き小屋をやるのみと云う。
旧藩士の職業開拓
明治政府は旧藩士に職を与えるために種々の便益を計った。
しかし武士は元来商工業を軽蔑していたので主に洋式産業の方面に向かい地方のインテリアとして官員(役人)・教員・巡査の如きは殆ど全部が明治初年に於いては、これら武士の手に独占せられていた。
また、当時の兵隊も武士がその上級を占め、将校は殆ど武士であって、古老の語るところによると、それら将校は髭ももじゃもじゃの実に逞しい顔で、兵士を叱る時など昔の武士の通りで”其の方儀、不届きにつき‥‥さがれツー“と言った調子で、歌舞伎で使うセリフのようであった。(陸軍大尉・中垣喜三郎談)
岩村では、明治八年旧藩主邸を校舎として、岐阜県師範学校出張所が開講された。
士族の子弟の入学するものが多かった。
一方大将陣・分根辺りもこれら士族の手によって開墾されたもので、中には旧藩領であった土岐郡河合村馬屋の平の原野六町歩を開墾し桑園となし養蚕業に着手し、小菅吾郎氏(其の頃は東京在住)の如きは豊橋の高師ヶ原の開墾に従ったのである。
これら失業してる武士は給禄奉還金の下賜と、政府の低利資金貸付はあったが、いずれも生活に困窮し、新しい時代の嵐吹かれながら、弓矢とる身で一農夫となり、不毛の荒地を開拓して行った心情は、祖国イギリスを離れ北米開拓に当たった清教徒の涙ぐましさにも、その心情や正に壮とすべきものが多々あったのです。
しかし、この名誉ある岩村藩学の旺盛と、志気の朴実さは廃藩後と雖も比すべく、これら旧士族の中より貴族院議員陸軍中将・大島堅一、同ドイツ駐在武官少将・大島浩(大島健一子息)、植物学者理博士・三好学(明治初年土岐郡土岐小学校に奉職せれる)イタリー前大使・松井道一の諸子、女流教育家・故下田歌子其の他多数の人材を中央へ送り出している。