美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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源氏累代の御家人・加藤景廉が初戦で山木兼隆を討ち武功を挙げる

投稿日:2022年1月21日 更新日:

   我が故郷の岩村城である、加藤景廉は源頼朝の挙兵以来の御家人として活躍、頼朝から遡(さかのぼる)ること5代前の河内源氏の棟梁・源朝義に祖父・藤原景道が仕えて以来の累代の家来の家系でもあります。

               ▲武田信玄も源氏の系統です。

 

 

この祖父・藤原景道が加賀介となり、加賀の藤原を「加藤」と略したことから加藤氏が始まったといわれます。

 

 

景廉は元々伊勢国を本拠としていたといわれ、平氏との争い敗れ、父・景員と共に伊豆国に下り土着していきます。

 

 

嘉応2年(1170年)保元の乱※1に敗れた源為朝が配流先の伊豆諸島において持ち前の武勇を発揮して勢力を伸ばしたために派遣された討伐軍に加わっています。

※1.保元の乱とは、保元元年(1158年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳天皇方に分かれた政変です。崇徳天皇方が敗れ、上皇は隠岐に配流された。
この調停の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増していった、のちの武家政権へ繋がるキッカケとなっていく。

 

 

治承4年(1180年)源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると麾下※2に馳せ参じ、挙兵最初の戦いである。

※2.麾下(きか)とは、(大将の采配の下の意から)将軍に直属する家来。

 

 

 

加藤景廉が 伊豆目代・山木兼隆の首を取る

頼朝が先ず最初に目指したのは、伊豆国内で伊東氏と組み急激に勢力を伸ばしていた伊豆国目代・山木兼隆です。
伊東氏とは、八重姫の父・伊東祐親※3です。

※3.伊東祐親とは、治承4年(1180年)頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを打破、しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後、娘婿の三浦義澄に預けられる。頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による除名嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されるが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い自害してはてた。

 

 

山本兼隆は、平安時代後期の武将で、桓武平氏大掾氏の庶流和泉守・平信兼の子、平氏であることから、別名は、平兼隆・大掾兼隆、兄弟には平兼衛、平信衛、平兼時がいます。

 

 

京では、別当である平時忠の配下とみられ、検非違使少尉(半官)として、内裏の門などの警備を担当していました。

 

 

ところが、父・平信兼が理由は定かでないが、子である平兼隆を訴え出たため、1179年に解任されて、宇野治長・宇野治信(のちの江川氏)がいた、伊豆・山木郷兼隆は流されました。

 

 

以仁王※4の乱のあと、懇意であった検非違使別当・平時忠が伊豆を知行することになり、平時兼が伊豆国司となり、許された平兼隆は「伊豆目代」に任じられる。

山木兼隆は伊豆で勢力を持つようになりました。

※4.以仁王とは、平安時代末期の皇族で後白河天皇の第三皇子。以仁王の令旨を出して源氏打倒の挙兵を促したことで知られる人物。

 

 

北条時政政子山木兼隆嫁がせるつもりだった。

時政が大番役で京へ上がっていた間に二人は恋仲になってしまった。

 

 

山本兼隆との縁談を進めていた北条時政は、平清盛の逆鱗を恐れ、無理矢理でも政子を山木兼隆の元へ送ろうとしますが、政子は逃げ出し頼朝のもとに駆けつけた(俗に押掛け女房)、これを聞いた山木兼隆は激怒しましたが、二人は伊豆山権現に逃げ込んだため、手が出せなかった。

 

 

頼朝が最初に標的にした目代・山木館襲撃

政子を取られた北条時政は、源氏に付くより仕方なかった。
(伊東祐親)を敵に回した。

 

 

そんな折、以仁王の令旨を受けて挙兵を決意した源頼朝は、最初に狙いを付けたのが山木兼隆の館を急襲する計画を立て、伊豆の豪族衆を味方につけ準備をした。

 

 

挙兵の前に、頼朝の配下の工藤成光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一人づつ呼んで計画を打ちあけたという。

 

 

以前から安達盛長の推挙により味方にしていた、遊歴の官史・藤原邦通を密かに派遣して、山木館周辺の情報を得ていた。

 

 

いよいよ襲撃の日が来た

三島大社の祭礼の日を狙って決行した。
山本館の家来の多くは社の神事を見た後、黄瀬川の宿で遊んでいた。

 

 

襲撃したのは、子の刻(23時〜1時)の夜間で、まず佐々木定綱、佐々木高綱が、山木家一番の勇士で後見である堤信遠の館を襲って討ち取ったようです。

 

 

この様子を、源頼朝は、蛭ヶ小島の館から、伺っていたようですが、煙も見えなかったため、加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家を援軍として出しています。

 

 

そして、山木兼隆の屋敷に討ち入ると、佐々木盛綱加藤景廉が、山木兼隆を討った。

 

 

この山木判官襲撃成功が、鎌倉幕府樹立へと繋がる、第1歩となったのでした。

      ▲加藤景廉が山木兼隆討つ。「月百姿  山木兼隆」画・月岡芳年

 

夜陰に紛れての山木館の襲撃に成功した後、加藤景廉は頼朝の軍勢相手に奮戦する山木兼隆に近寄り、その首を討ち取りました

 

 

頼朝は山木兼隆を討ち取らんとする景廉に、手ずから※5長刀を与えたといいます。景廉に対する信頼の篤さがうかがえますね。

※5.手ずから(てづから)とは、自ら手を下して。自分で渡す。

 

 

勝利から2日後には、わずかな兵を引き連れて、土肥実平の相模・土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出し、「石橋山の戦い」となります。

 

 

 

加藤景廉の武勇伝~鉢田の戦い~

石橋山の戦いでの敗戦後は、景廉は甲斐国にのがれます。
そこで甲斐源氏・武田氏の知己を得て、武田信義、武田信光、そして北条時政らとともに鉢田の戦いに挑みます。

武田信玄は甲斐源氏です。

 

 

この戦いで、加藤景廉は駿河国目代・橘遠茂を捕虜にしたとも、討ち取ったとも言われています。

 

 

この戦いでは、橘遠茂の子息二名と、同じく駿河国目代であった長田入道が討ち取られて、もしかしたら彼らの死にも加藤景廉は関わっているかもしれません。

 

 

加藤景廉の武勇伝~源頼朝・源範頼に付き従う~

加藤景廉はその後も忠実に源氏に仕え続けました。

平家征伐では、源頼朝の異母弟・源範頼の部下として、瀬戸内海にも従軍しています。

 

 

さらに、頼朝による奥州征伐にも付き従い、武功を上げ頼朝が鎌倉殿として天下に名をとどろかせた後も、頼朝の配下として、頼朝の死まで頼朝に忠実に仕え続けました。建久4年(1193年)には、頼朝の命で安田資定を誅しています。

 

 

加藤景廉の武勇伝~比企能員の変~

建久10年(1199年)、頼朝が死去します。
その後1年足らずで、梶原景時の変が起こりました。

 

加藤景廉梶原景時と親しかったため、連座して所領の一部を没収されることとなります。
この際の景廉の心境は分かりません。

 

 

ただ、景廉は、敬愛する頼朝の子息・頼家ではなく、北条義時北条氏のもとで働くことを選んだようです。

 

 

建仁3年(1203年)比企能員の変の際には、北条義時の命で仁田忠常比企能員の嫡男・余一郎兵衛尉を殺害しました。

 

 

その後、彼は三代目将軍・源実朝評定衆となります。

実朝の鶴岡八幡宮参詣の際には警備責任者の立場にありましたが、実朝は頼家の子・公暁によって暗殺されてしまいます。

誰も彼を咎めることはありませんでしたが、景廉は出家します。

 

 

その後も景廉は、生き続け、承久の乱の際には幕府方の宿老として鎌倉防衛に勤めますが、同年に亡くなった。

 

 

承久の乱で兄・光員が朝廷方となってしまい、敵味方に別れてしまったことがもしかしたら心労をもたらしたのかもしれません。

 

 

 

加藤景廉は武勇に優れていたが病弱だった

加藤景廉「猪武者」とも称され、数々の敵の武将を討ち取ってきたが、実は病弱で下戸でした。

 

 

寿永元年(1182年)には、ある御家人の館で飲みすぎて意識を失い、佐々木盛綱が幕で包んで担ぎ家まで運んで行った。

 

 

心配した頼朝が翌日お見舞いに行ったりしています。
さらに元暦2年(1185年)、いよいよ平氏を追い詰めたところで景廉は病魔に倒れました。

 

 

景廉はそのことを隠して源範頼ひきいる平家征伐軍の船に乗り込みますが、見かねた父・景員は頼朝に言いました。

 

 

その結果、頼朝が景廉の上司であった源範頼に「景廉は療養させて、療養が終わったらすぐに鎌倉に返してくれ」と親書を出すという事態にまでなってしまいました。

 

 

 

加藤景廉と遠山荘・美濃国の岩村城

美濃国恵那郡遠山庄事 右為勲功之賞遠山加藤次景廉所充行也者 早令領知可被専所務之状如件 建久六乙卯年三月三日引用:『遠山文書・源頼朝充行下文写』

加藤景廉遠江国、伊豆国、備前国など日本東西にわたる広い範囲に領地を与えられています。

 

 

その中で、加藤景廉の子孫にも伝わった領地美濃国の遠山荘です。

上記の領地をクリックしてもらうと関連記事があります。

 

 

加藤景廉は建久6年(1196年)に、確実にこの所領の領有権を頼朝より認められています。(地元では、文治元年(1185年)にはすでに認められています)

 

 

遠山荘の中心は岩村で、景廉の長男・加藤景朝(後に改名:遠山景朝)によって岩村城が築かれることになります。

 

 

岩村城は当初は城というよりは館といった趣だったそうですが、戦国時代には周辺との領地争いの激化もあり、山城となっていきます。

 

 

この地、岩村城は霧がよく発生また霧ヶ井戸によって霧が発生することから「霧ヶ城」と呼ばれるました。

 

 

岩村城は代々、加藤景廉の子孫・遠山氏が城主を務めていました。

しかし、最後の城主・遠山景任が子供なく没すると、信長の子・御坊丸を養嗣子に迎えるも幼く、その妻で織田信長の叔母であったおつやの方が事実上の城主になります。

 

おつやの方は、甥・信長によって苛烈な運命を与えられます。

 

地元岩村町では、祖・加藤景廉と遠山荘の祖・遠山景朝の二人は八幡神社と武並神社として祀られ、毎年10月の第一土日に秋祭りが行われます。

上記の秋祭りをクリックしてもらいますと関連記事があります。

 

 

 

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