美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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岩村町の歴史は3万年前の旧石器時代に水晶山下に居住していた

投稿日:2022年6月25日 更新日:

   岩村の町はいつ頃から誕生したのだろう?
疑問が湧きませんですか?

 

 

旧石器時代というと原風景が想像もつかない。

 

考古学の先生方が、平成22年6月13日岩村公民館で「最近発見された冨田堀田遺跡、飯羽間上尾先古墳と岩村町史に対する考察」が日本考古学協会会員(恵那市教育員会嘱託)橋詰講師(当時51歳)の勉強会が開催されました。

※上記は、平成23年3月末日、歴史掘り起こし読本(第二巻)を参考にして記載してます。

 

 

 

三万年前に人が岩村地区に住んでいた

それによると、勉強会を開催した理由が岩村町冨田大円寺に住んでる方が終戦後、田畠を開墾して石片を拾い、それを上記の橋詰講師に鑑定して頂いた結果、岩村町の遺跡では最古の後期旧石器時代の石刃であり、約一万三千年前のものと推定されました。

       ▲岩村地区略図

 

更に旧富田水晶山下の開墾地で石刃を鑑定したところ、岐阜県第一号といえる貴重な約3万年前のナイフ型石器と鑑定されました。(当時の記事)

 

 

という事は、いかに岩村町は古から部落あったという事がわかります。

 

 

上記に岩村町の略図を描き、だいたいの場所を載せますので参考にしてください。

 

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大円寺という場所は岩村城祖・加藤景廉が亡くなったあと菩提寺として遠山一族が造った大圓寺がありますが、その大圓寺を武田の武将で秋山信虎岩村城攻めをしたとき焼き払い、しかも名僧の希菴和尚を狙って暗殺しました。

※ここに大圓寺のURLがあります。上記の大圓寺をクリックして興味ある方は読んでください。

※上記の希菴和尚をクリックすると詳しい関連記事があります。興味のある方は読んでください。

 

 

fを妻に娶り信長の子・御坊丸を人質の取って甲斐へ送った。

 

 

ゆえに歴代の城主の名前が飛んでいて燃えてしまったと推察します。

 

 

大圓寺という寺跡は今は野晒しで石碑があるぐらい、それも合併前の岩村町が建立。

 

 

本来なら岩村町合併した恵那市が、こんな歴史ある場所を保存・整備しないとは後世に伝えていけなくなるんじゃと心配してます。

 

 

岩村城の本丸の上(北)の方にに俄坂門があります。
そこからすぐの所に菩提寺・大圓寺ありました。

 

    ▲俄坂門の図を入れる

 

 

大圓寺建立の前に平安時代だと思うけど、明知線の「極楽」駅の近辺に極楽寺がありました、そこから南には同時期に萬勝寺(通称:飯高山)が今でも健在です。

※上記の極楽寺をクリックして関連記事を読んでください。
※上記の萬勝寺をクリックして関連記事を読んでください。

 

 

両寺とも相当古いお寺だったとも思われます。

 

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時代の考古学

歴史掘り起こし読本から抜粋の記事を掲載します。

旧石器時代

堀田遺跡水晶山下遺跡から後期旧石器の発見(当時の成瀬和郎氏※1があった。

※1.成瀬和郎とは、岩村町大円寺に住んでるかたで、農作業をしていて石片を見つけた方です。

 

 

遺物包含層の確認及び生活面の有無については発掘調査によらなければ確認できない、また、打杭遺跡根平遺跡などから今後旧石器の発見される可能性が期待される。

 

 

縄文草創期

水晶山下遺跡では、成瀬和郎氏が黒曜石製尖頭器破片を発見されている。

縄文草創期に帰属する史料であろう。

 

 

また、過去に採集された石器に有舌尖頭器が2点あり、出土地は富田とあるが、出土地点が明らかでない。

打杭遺跡や堀田遺跡で発見される可能性が高い。

 

 

縄文時代

岩村町では、発掘調査が行われていないこともあって、石器類は沢山表面採集されていたのにもかかわらず縄文土器の資料が殆どなく、遺跡の年代観が明らかにできない。

 

 

破片資料でも良いから、資料の収集が必要であると書かれている。

 

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弥生時代

前期〜中期の条項文土器が大円寺遺跡、胴ヶ平遺跡で採集されているが、後期の土器は未発見である。

 

 

弥生時代後期の土器は、明知線の阿木駅前遺跡で発見されている。

赤彩土岐(パレススタイル)と呼ばれる祭祀的性格の強い特殊な土器であり、岐阜県内では大垣市や岐阜市等美濃平野部の大集落(拠点集落)遺跡での発見が多く美濃加茂市の為岡遺跡からも良好なパレススタイル土器が出土している。以下省略。

 

 

 

古墳時代

平成17年に試掘調査が実施され埋葬主体の土壙(墓穴)の平面的な規模や主軸(長軸)方位が明らかになった。

 

 

しかし、遺跡保護を優先として土壙内部の深掘りは行ってないため副葬品の出土がなく被葬者の性格や年代的な事を語るには、実証性が少ない。以下省略。

 

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奈良時代

山岡(手向)廃寺は中央本線沿い及びその東では、正家廃寺を含め2例しかない貴重な古代寺遺跡の一つである。

※山岡というのは、飯高観音の方向です。正家は恵那市で阿木川ダムと恵那駅の中間位に位置してます。

 

 

しかし、寺院跡の範囲は明らかではない。
長期を見据えて、保存整備の道筋を探らなければならない。

 

 

一方、開発が進行しつつある岩村の極楽寺地区については早急な遺跡の範囲確認が必要です。

 

 

極楽寺については、地名として残っているため寺院遺跡である確証が高い。

 

 

出土品から、鎌倉〜室町時代の寺院建築の可能性がある。
しかし、奈良時代の須恵器片が少量出土していることは見逃せない。

 

 

極楽寺の前に寺院建築があったが、平安時代まで残らず廃絶した可能性が考えられる。以下省略。

 

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まとめ

東美濃地方って、そんな以前から人が住んでいたんだとは知らなかった。

 

 

今から約830年前に加藤景廉がお城を創建した頃かと想像してたけど、それよりず〜と以前旧石器時代には人が住んだ形跡がある遺跡が発掘されている。

 

※次回は加藤景廉が岩村にやってくる以前のことを書きたいと思い恵那図書館に行って調べてきます。

 

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