家康(元康)のことを知っていそうで知らない。
6歳から19歳まで今川義元に人質になっていた事は知っていると思います。
家康の幼名時代の名前が竹千代でした。
元服した時は、松平元信で後日には松平元康となって行く、そうして桶狭間の戦いに進んでいった。
この戦いを元にだんだんと今川氏と距離を置いていく元康が信長と接近して同盟を結ぶまでを記事にしました。
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松平元康の初陣から今川氏との別離
幼名時代は竹千代という名だったが、弘治元年(1555年)、竹千代14歳の元服の折今川義元の「元」の一字を与えられ元信とした。
松平次郎三郎元信の誕生だ。
元服した翌年に元信は岡崎への里帰りを許され、祖先の法要と墓参りをした。
竹千代が8歳の時父・広忠を失ったが、この時初めて亡き父親の墓に参った。
※上記の竹千代をクリックすると父。広忠の死と母・於大の方との離縁の様子が書いてあります。興味ある方はご覧になってください。
岡崎城では、城を守っていた鳥居忠吉(八十歳)から、密かに城内を案内され、家臣たちが苦労して貯めた軍資金や兵糧米を蓄えたものを元信が帰国した時に困らないように見せた。
▲岡崎城
元信は家臣たちが食うものも食わず儂のために夢を託してくれた事を知った。
弘治3年(1557年)正月15日、元信は蔵人元康と改名した。
義元の勧めで元康16歳、瀬名姫(義元の姪)と結婚した。
一人前となった元康は、その直後に西三河攻めを今川義元に命じられ初陣を飾った。
勝利の陰には大樹寺(松平家の菩提寺)の登誉上人が、衆徒を引き連れ「厭離穢土・欣求浄土」の旗をシンボルに加勢してくれたという。
永禄3年(1560年)今川義元が織田信長に桶狭間で討たれると、それまで今川氏に従属していた松平元康(家康)は岡崎城下の大樹寺で切腹を図ろうとしたが、寺の住職より泰平の世を築くべき生きよと論されて思いとどまり、今川氏から独立を図った。
東の駿河国の今川家との全面対決となった元康(家康)は西の織田信秀の子・信長への接近を考えた。
松平元康が徳川家康と名前を改名したのは、永禄九年(1566年)12月19日勅許を得て、「松平」から「徳川」に改姓し、従五位下三河守に叙任されるから、それまでは元康と書きます。
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信長と軍事同盟を結ぶ
大樹寺の住職から諭された元康は、このとき岡崎城は祖父伝来の居城であり、今川氏に抑えられていたが、桶狭間の敗戦を聞いた今川軍は城を放棄して駿河方面に撤退していた。
▲大樹寺
三河の支配権を取り戻すべき空き城となった岡崎城を取り戻した元康は、その後、今川氏と同族の吉良氏などの三河における親・今川勢力を攻撃しはじめる(善明堤の戦い及び藤波畷の戦い)。
これに怒った今川氏真は、永禄4年(1561年)に家臣の吉田城代・小原か大原肥前守鎮実に命じ、松平側の人質を城下の龍拈寺口で殺害した(一説には串刺しもいう)。
東の駿河国の今川家と敵対関係となった、元康は西の隣国である尾張国織田家との接近を考え、当時元康の片腕であった石川数正を交渉役として、織田家に同盟を模索させた。
一方の信長も、美濃の斉藤氏と交戦している経緯から松平元康との同盟を考えており、織田氏と先に同盟(織水同盟※1)を結んでいた、元康の母方の伯父に当たる水野信元が元康を説いた。
※1.織水同盟とは、水野忠政の跡を継いだ水野信元は、それまで親・今川路線を変更し、織田信秀と同盟(織水同盟)を結んだ。水野信元は元康(家康)の母・於大の方の兄に当たる。
しかし、両家は織田信秀(信長の父)と松平清康(家康の祖父)・松平広忠(家康の父)父子が宿敵関係で戦っていた経緯から、両家の家臣団の間での遺恨も強く、同盟はなかなかまとまらなかった。
桶狭間の戦いから一年後の永禄四年(1561年)のは石ヶ瀬において小競り合いが起きている。
元康の岡崎城帰還は信長による、三河侵攻を警戒する今川氏真の許しを得たもので、この時点では元康も今川氏から離反する意思はなかったが、氏真が織田軍と戦って三河を防衛するよりも、上杉謙信に攻められた同盟国の武田氏・北条氏の救援(→小田原城の戦い(1560年))を優先したために、今川氏の援軍を得られずに苦境に立たされた元康は今川氏から離反した。
正式に同盟が終結されたのは桶狭間の戦いから二年後、永禄5年(1562年)に元康が信長の居城である清洲城を訪問して、信長と元康との間で会見が持たれた上で同盟が終結された。
戦国時代に尾張国の大名・織田信長と三河国の大名・松平元康の間で鎮軍事同盟が結ばれた。
▲清洲同盟
それぞれの一文字から職徳同盟、また尾三同盟とも呼ばれるが、一般的には清洲同盟と呼ばれている。
※1の織水同盟とは
水野忠政は戦国時代の武将、戦国大名で水野家の当主で通称は藤七郎・右衛門太夫・下野守。
緒川城及び刈谷城主であった、また徳川家康の生母・於大の方(伝通院)は娘で家康は外祖父にあたる間柄の忠政の死後、次男の水野信元が跡を継いだ。
今までの親・今川路線を変更し、織田信秀と水野信元の間で織水同盟を結んだ。
このため松平宗家の第八代・松平広忠(家康の父)に嫁いだいた信元の妹・於大の方は松平広忠と離縁となり刈谷に帰り、久松家に嫁ぐまでの数年を刈谷城の近くの椎の木屋敷で過ごした。
ただし、松平氏と水野氏の同盟そのものが松平広忠の後見であった、叔父の松平信孝※2が主導したもので、信孝が広忠や重臣たちによって排斥※3された以上、水野氏との同盟は継続できなまったとする説もある。
※2.松平信孝とは、戦国時代の武将で三河国松平氏6代当主・松平信忠の子。広忠の父の弟、三木城主。
※3.排斥(はいせき)とは、(好ましくないとして)おしのけ、しりぞけること。
また、水野信元も今川氏と織田氏との境目の武士として今川氏の西三河進出に伴って今川方につくこともあり、確実に織田方として定着するのは、織田信長が織田氏の家督を継いで知多郡の支配を立て直しを意図した天文21年(1551年)のことととする指摘がある。
また、庶流の常滑水野氏は、その後も今川氏と通じていた形跡がある。
水野信元の弟・水野信近(水野忠政3男)は、永禄3年(1569年)の桶狭間の戦いにおいて、城代として刈谷城を守ったが戦いの直後に、今川家臣・岡部元信に城を攻められ戦死した。
水野信元は永禄5年(1562年)には、元康(家康)を支援して信長との同盟(清洲同盟)を仲介し、その後も水野惣領家として、三方ヶ原の戦いや長島一向一揆との戦いに参陣した。
しかし、天正3年(1575年)水野信元は突如、信長に武田勝頼への内通を疑われ(佐久間信盛の讒言※4によるとされる)、徳川氏を頼り逃亡を図るが、信長の命を受けた徳川家康により殺害された。
4.讒言(ざんげん)とは、他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げ、その人の事を悪く言うこと。
これには織田・徳川両氏の陰謀による水野氏排斥であったとする見方もある。
このとき跡継ぎであった水野信政(信近の子)も殺害され、ここに水野氏は断絶となる。
まとめ
戦国の世を生き抜いて行くことは並大抵じゃないですが、半分は運、半分は実力で生き抜いて行った武士たちだと思う。
現代では殺し合いはないので死ということは、余り考えなくても良いですが、出世に関しては同じじゃないでしょうか?