徳川家康は、江戸幕府を開いた人物として歴史に名を残していますね。
幼少の頃は、織田家と今川家で6〜19歳まで人質として扱われ不遇の時代を送ってきました。
今の時代でいえば、高校卒業するまで監禁された状態で人質になっていたわけです。
そんな中、織田信長の奇襲で今川義元を「桶狭間」で襲撃し討ち取りました。
いわゆる「桶狭間の戦い」です。
これを契機に、今川家から独立し織田信長と同盟を結んで武田軍を倒し、目覚ましい活躍をして行きます。
天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」を経て大阪夏の陣・大阪冬の陣と戦い豊臣家を滅ぼし、長きに渡る戦国時代に終止符を打ち、264年間続く徳川幕府体制を成立させた人物です。
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そんな徳川家康がどんな刀を持っていたか
徳川将軍三代・家光により神格化され、東照大権現として祀られている。
家康もまた、他の武将たちと同じように刀剣を蒐集していた。その名刀の数々は幕府の守護刀となり、あるものは東照宮に納められ、あるものは歴代将軍の元で秘蔵された。
また、一部は徳川美術館で見ることが出来ます。
謎の剣・ソハヤノツルキ
家康の所蔵する刀になんとも不思議な名のものがあった。
それがこのソハヤノツルキである。
作者は筑後国三池光代といわれており、駿州の御宿家当主・源左衛門貞友が献上したという。
茎の佩表(はきおもて)には「妙純傳持ソハヤノツルキ」とあり、裏に「ウツスナリ」とある。
※茎(なかご)と読みます。
▲ソハヤノツルキの茎(ネットより)
そのまま読めば、かつての妙純という者が持っていたソハヤの写し(模倣)であるという風にとれる。
ではソハヤの剣とはなんだったのか?
妙純とは誰だたのか?というと、それがよくわからない。
一説には美濃国守護土岐家執権・斉藤越前守年国の法名が妙純だったことから、その持ち物だったのではないかといわれている。
また、ソハヤとは、熱田神宮にあるソハエの剣ではないかともいう。
古語では、「そばえ」は「戯え」とも書き、ヤ行にも活用するので、この語を指すかもしれないが、これであると「たわむれる剣」「じゃれつく剣」あるいは「天気雨・通り雨の剣」という意味になる。
ソハヤノツルキは家康の死後遺言によって西国に鋒を向けて置くように指示された。
※鋒とは、切っ先です。
これは、大阪の秀頼方武将の残党に対し、ニラミを効かせるための呪術的な意味があると考えられている。
その後、ソハヤノツルキは久能山東照宮に霊剣として奉納された。
家康は「久能山は駿府の本丸」というほどこの地を重要視しており、自身の埋葬の地としてもここを選んでいる。
東照宮は日光が有名だが、これは分御霊であり、本社はこちらなのである。
そこに祀られ第一の神宝といわれているソハヤノツルキは、家康にとって重要な意味を持つ剣だったことを示しています。
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日光助眞と加藤清正家の悲劇
日光東照宮には家康の残した複数の名刀が納められいます。
そのうちの一振りが「日光助眞」である。
※助眞(すけざね)と読む。
この大刀の刀装は家康が自分の好み合わせて作らせらもので「助眞拵」と呼ばれている。
黒漆塗りの天正拵の代表作です。
作者は備前国の刀工、文字助眞です。
当時の第5代執権・北条時頼の招聘で相州鎌倉に下向したという。
※北条時政も天下五剣に数えられる鬼丸国綱を粟田口国綱に作らせています。粟田口国綱は山城国の刀工で後鳥羽天皇の御番鍛冶を務めた人物です。北条時政をクリックしてもらえれば詳しい記事があります。
そのため作風は相州風ではなく備前風の作が多い。
助眞の門は鎌倉一文字と呼ばれ、華やかな刃文が特徴とされてている。
日光助眞は加藤清正が、秀吉没後に家康へ献上された。
清正の長女は家康の十男・頼宣に輿入れしており、その婚礼の祝い品として贈られたと伝えられている。
清正はこれで加藤家も安泰だと信じ、まもなく死去したが、幕府は後に加藤家2代・忠広を改易、配流したため加藤家は断絶した。
助眞は贈り損になってしまった。
●現在の保管場所
東照宮のご神宝とされてきたが、現在は都立博物館に寄託されています。
同館での特別展や常設展に出展される場合があり。
文化財指定データ
指定名称】太刀
【銘】助眞
【時代・年】鎌倉時代
【寸法・重量】刃長71.2cm、反り2.8cm、元幅2.2cm、先幅2.5cm、鋒3.8cm
【品質・形状】鎬造、庵棟、身幅広く、磨上げながら踏張りがあり、先は猪首鋒。
鍛えは板目つんでやや肌立ち、地沸つき、乱れ映り立ち。刃文は匂深く、沸よくつき、大丁子乱れに互の目乱れ、尖り刃交じり、足・葉頻りに入り、表は中程特に焼高く、砂流しごこ
拵
【伝来・他】加藤清正→徳川家康→東照宮
【所在地】東京国立博物館
【説明】助眞は、備前国福岡一文字派の刀工で、後に鎌倉幕府に召され相州鍛治の基礎を築いた一人と言われる。地刃共に沸強く、力強いものが特色である。
豪壮で、やや肌立ち心の鍛えに大規様に激しく乱れて沸づいた力強い作風を示し、日光助眞と称して名高い。
附の打刀拵は、黒漆塗り、革柄に四葉文透の鉄鐔、赤胴の目貫、小柄、笄は堅実かつ雅味があり、室町後期から桃山時代にかけて流行した「助眞拵」と呼ばれる様式である。
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不動正宗と九鬼正宗
家康は正宗も持っていた。
現存する正宗の数少ない在銘の作のうちの一振り、不動正宗という短刀である。
刀剣史研究の上でも貴重な史料価値を持つ刀です。
この刀は、刀身に不動明王の彫りがあることから不動正宗と称された。
この彫物は正宗の手によるものではなく、後に本阿弥光二が医師・野間玄琢の祖父に彫らせたと伝えられている。
「刀剣名物牒」によると、豊臣秀次から家康が拝領し、前田利家、再び家康、その子秀忠の手を経て尾張徳川家へ伝来し現在に至る。
重要文化財に指定され徳川美術館に現存してます。
また、九鬼正宗という短刀もある。
こちらは多くの正宗の作と無銘です。
名前は志摩国鳥羽城主・九鬼嘉隆の子、長門守守隆が所持していたことにちなむ。
この守隆から家康に献上された後、紀州徳川家・徳川頼宣を経て、伊予西条の松平家の所蔵となった。
現在は林原美術館蔵。国宝。
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自害を阻む刀藤四郎吉光
藤四郎吉光は秀吉に寵愛され刀工であるが、家康も吉光の作の短刀を持っていた。
この短刀には不思議な逸話が残されている。
元亀三年、大軍を率いて上洛しようとする武田信玄に対し、これを阻止するために家康も出兵した。
しかし、自領、三方原の戦いで武田軍に大敗を喫し、討ち取られる寸前まで追い詰められた。
家
康は浜松城に立てこもり、使者を立てて信長の援軍待つことにした。
しかし、信長もまた敵に包囲網が敷かれており、簡単にに援軍を送ることが出来なかった。
ようやく援軍が派遣されたが、その数は少なく、信玄の軍勢には遠く及ばなかった。
この時、絶体絶命の家康の命を結果的に救ったのが吉光の短刀であった。
あまりの大敗に家康は覚悟を決め、城を解放して吉光で自害を試みようとした。
だがどいうわけか何度やっても、命を断つことが出来なかった。
そうこうするうちに、信玄の兵は引き上げてしまった。
城が開放されているのを、信玄は家康の仕掛けた罠だと疑い、踏み込まなかったのだ。
この「藤四郎吉光は自決しようと思っても出来ない刀である」という逸話は畠山政長の「薬研藤四郎」の逸話と共通している。
粟田口吉光
鎌倉時代末期に活躍した山城国(現・京都市)の短刀の名手・粟田口吉光作の脇差です。
もとは薙刀だったものを、磨上げ▲※で脇差にしたため、薙刀の面影が残っています。
※1.磨上げとは、使用者の体型や刀の扱い方に合わせて日本刀の刀身を短く仕立て直すこと。
ふっくらとした「ふくら」が鯰の尾のようなので、「鯰尾藤四郎」と名づけられた。
※鯰はなまずと読見ます。
織田信雄から豊臣秀吉、子の豊臣秀頼に伝わり、「大阪夏の陣」で焼けてしまったため、「享保名物帳」消失の部に記載。
徳川家康が徳川家御用鍛治の越前康継に打ち直しを命じ、粟田口吉光の名刀は甦りました。
尾張徳川家に伝わり、現在は名古屋市の徳川美術館の所蔵です。