美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

大給松平宗家

大給松平宗家は「十四松平」の一つ徳川家康は東美濃岩村藩を置いた

投稿日:

 武家の家が発展するには、分家が欠かせない、例えば、室町幕府を開いた足利尊氏は、清和源氏の流れを汲み、足利(現・足利市)に地名の足利の姓で本拠を置いた。

 

 

でも、松平氏の場合は少し変わっています。

どういうふうに違うかというと、松平氏は一族で分家を重ね、のちに「十四松平」と称されるようになった。

 

 

「十四松平」に関しては、江戸時代に成立した『寛政重修諸家譜』に記され、次の十四松平家を挙げている。

 

 

竹谷松平家・形原松平家・大草松平家・五井松平家・深溝松平家・能見松平家・長沢松平家・大給松平家・滝脇松平家・福釜松平家・桜井松平家・東条松平家・藤井松平家・三木松平家

 

 

こうした松平家の数え方は、徳川宗家を含める場合や、家康の祖父・清康までの庶子に限る場合もある。

 

 

このほかに家系が途中で断絶した松平家としては、岩津松平家・押鴨松平家・鵜殿松平家があります。

 

 

松平の庶子は、一致団結して徳川宗家を支えることになるが、一部敵対する松平家も存在した。

 

 

別に「十八松平」というものがあり『改正三河後風土記』に記されいます。

 

 

「十八松平」とは、江戸幕府が成立後、特に将軍家から「松平」の姓を許された家を示しています。

松平加賀守家・松平土佐守家・松平薩摩守家・奥平松平家・松平陸奥守家・松井松平家・松平筑前守家・戸田松平家・松平安芸守家・久松松平家・松平長門守家・鷹司松平家・松平因幡守家・松平備前守家・本庄松平家・松平肥前守家・越智松平家・松平阿波守家・松平美濃守家。以上です。

 

 

実際には十九家ありますが、それは「十八松平」が実数を表すのではなく、「松」の字を分解して、「十八松」とする中国に習ったという説があります。

 

 

松平の例以外でも、「黒田八虎」や「武田二十四将」などにみられるように、このような数字にあやかった数え方がこのまれたようです。

 

 

 

家康が天下を取って直ぐ大給松平宗家を岩村に置く

徳川家康の親戚である大給松平宗家6代・松平家乗岩村城に配置した。

初代岩村藩主には、天正15年(1587年)​​12歳で元服を迎えると家康から「家」の一字を賜り「家乗」になり、松平家乗が藩主として、慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの功績により岩村藩2万石加増移封となり藩主として就任。

 

 

じゃあ徳川家康大給松平宗家はどういう関係なのか?
大給松平家は、松平氏の庶流にあたる武家・華族だった家。

 

 

家康の先祖の初代・松平親氏から数えて松平宗家4代目・松平親忠の次男・松平乗元を祖とする十八松平の一つで、江戸時代には譜代大名4家が出、維新後には4家とも華族に列した家柄。

 

 

 

 

大給松平宗家は三河・西尾藩で落ち着

大給とは、初代・松平乗元

家康の先祖・松平親氏のの甥の松平信光・三河国松平氏3代当主(岩津松平家の祖)が、地元の土豪・長坂新左衛門を攻め落とし、乗元の父・松平親忠に与えたものを引き継いで乗元が居城とした。

※上記の居城をクリックしていただくと関連記事が掲載しています。興味ある方は読んでください。

 

 

乗元の子・乗正が、永正3年〜永正7年(1507年〜1510年)にかけて、城郭としての体裁を整備したとされる。

 

 

城郭は山容※1鞍部※2を堀切で区切り、東西220m、南北280mの規模、中央の山頂に主郭(東西45m、南北20m)と副郭を、その南側には居館を建てた曲輪を配していて、特徴的なのは、城北面に「水ノ手曲輪」といわれる曲輪を2を設けている山城である。

※1.山容(さんよう)とは、山のかたち。山の姿。

※2.鞍部(あんぶ)とは、峰と峰の間の尾根の最も低い地点。麓から見ると峠になている。

 

 

これは谷筋を堤防などで複数に仕切って2つの曲輪として構成し、それぞれの曲輪内を井戸水と雨水によって湛水させることで、水堀と水利、両方の役わりを果たします。

 

 

堤防のうち一つは幅30m、高さ5mの大規模なものです。
大給松平氏は、周囲の松平一族とたびたび抗争を繰り返しており、大給城は天正3年(1575年)に滝脇松平家の襲撃を受けた際に放棄された。

 

 

そして徳川家康が関東に移封となったため廃城となった。
なお、大給城から続く尾根の東端に松平乗元の墓がある。

 

 

廃城後、松平宗家に仕える

大給2代目嫡男・松平乗正は松平親忠の三男、いわゆる叔父さん松平宗家5代の松平長親に仕えることになる。

 

 

『寛政重修諸家譜』によれが、永正3年(1506年)に、今川氏親(今川義元の父)が、伊勢宗瑞(北条早雲)を将として三河に攻め込み、氏親自らが岩津城に攻めてきた時、松平乗正は、松平宗家5代の松平長親軍の先鋒を務め、小原某(なにがし)の首を挙げるなどの活躍をした。 天文10年(1541年)に60歳で没した。

 

 

大給松平家3代・松平乗勝

『寛政重修諸家譜』によれば、2代の乗正の長男として、生まれる。
明正5年(1496年)に誕生するも、大永4年(1524年)に29歳で死去する。

 

 

妻は、松平清康(家康の祖父・松平宗家7代)の養女・実は清康の父・松平信忠(松平宗家6代)の娘で、永正12年(1515年)に松平親乗を産んだ。

 

 

未亡人になった随念院は、足助城主の鈴木重直に再婚、後に徳川家康の乳母になった。

※上記の足助城主をクリックしていただくと関連記事があります。興味あったらご覧になってください。松平家乗の母も再婚相手に足助城の城主を選んでいます。

 

 

大給松平家4代・松平親乗

松平乗勝の嫡男として永正12年(1515年)に生誕。

享禄3年(1530年)、松平清康に従って熊谷氏の居城・宇利城を攻め軍功を挙げた。

 

 

 

天文21年(1552年)東条松平家松平忠茂※3大給城を攻められ忠茂と戦う。

※3.松平忠茂とは、三河松平氏の一族・東条松平家の松平義春(右京亮)の次男なのに、天文年間松平宗宗家と共に今川氏に服従していた。

父の死後、兄の松平甚二郎(甚次郎とも)が家督を継いだ。しかし、家督を継いだ兄は俄に織田氏に味方して今川氏に敵対したため、今川義元により、天文20年(1551年)に、家督を継いだ松平甚二郎の追放と弟・忠茂の家督継承がなされた。

忠茂は若年のため、義元の家臣・松井忠次と山内助左衛門尉が、松平忠茂の寄騎を命じた。

弘治2年(1556年)8月に今川義元に命じられ織田氏の居城・蟹江條を攻める。弘治2年(1556年)に滝脇松平家の滝脇城を攻め、松平乗清・乗遠親子を戦死させた。

この頃、今川氏の人質であった家康に随身し駿府に居住しており、弘治3年(1557年)1月8日には、駿府滞在中の山科言継を訪ね酒宴に及んだことが『言継卿記』に記載せれて流。

これ以後、永禄11年(1588年)山科言継とは会合を重ね親交を深めている。同じ松平家なのに今川氏に加担しているもの織田家に味方しておる松平氏がいて同族間で戦っていた。 

 

 

大給松平宗家5代・松平真乗

天文15年(1546年)に、松平真乗と母・松平信定の娘の興正院の間に誕生、子には松平家乗、真次がいる。

 

 

早くから徳川家康(又従兄にあたるため)仕え、遠州平定戦では掛川城攻めで活躍した。

 

 

その他にも姉川の戦い、諏訪原の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、徳川家の主要な合戦の多くに参戦して武功を挙げていった。

 

 

 

天正8年(1580年)の田中城攻めの帰り、殿(しんがり)の石川数正の軍を朝比奈信置が襲撃した際には、真乗が反撃して破っている。

 

 

しかし、天正10年(1582年)に37歳の若さで死去したため、母・興正院は弟・真次を連れて足助城主・鈴木康重に再婚した。。

※上記の足助城主をクリックすると戦死した夫・松平真乗が死去したため、足助城主と再婚し、後に家乗の夫が家臣になり弟の真次を将軍・秀忠の家臣に頼んだりした記事があります。興味ある方は読んでください。<.span>

※上記の真次をクリックして頂くと、家乗の弟の記事があります。

 

 

大給松平宗家6代・松平家乗

父・松平真乗が若くして死去したため、8歳で家督を継ぐ。

天正12年(1584年)の長久手の戦いの時、まだ幼少であったため家老の松平近正が代理として、大給松平家を率いて参戦した。

 

 

また、尾張蟹江城・前田城攻め(蟹江城合戦)では、松平近正率いる大給勢が武功を挙げている。

 

 

天正15年(1587年)に元服、主君・徳川家康から「家」の一字の偏諱(へんき)を受け家乗と名乗った。

 

 

天正18年(1590年)、家康が秀吉によって関東に移封を命じられると、上野国那波郡内に1万石の所領を与えられ、この時家老であった松平近正が家康の直臣に取り立てられた。

 

 

家乗は上野国那波に父・祖の菩提寺として雄山伝英和尚を招いて久昌山盛巌寺を建立した。

慶長元年(1596年)従五位和泉守に叙任された。

 

 

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、三河国吉田城の守備を務めた。

 

 

これに関して家乗は、家康に旗本の先駆※4を務めたいと申し上げたところ、家康は吉田城が尾張国知多郡に通じる「軍監の通路」であるため枢要※5の地であるという理由を示し、重ねて吉田城を守備するよう命じた。

※4.先駆(せんく)とは、前駆。転じて、人に先立って物事をする人。
※5.枢要(すうよう)とは、物事を動かす中心になる一番大切な所。要である。

 

 

戦後は家康の命を受けて伊勢国桑名城に赴いている。

慶長6年(1601年)正月、美濃国の岩村城に1万石を加増の上転封され、恵那郡・土岐郡内で2万石を領する大名となった、このとき盛巌寺を岩村城の近くに移転した。また浄光寺と浅見家も連れてきた。

 

 

慶長19年(1614年)2月19日に死去40歳。誓願寺境内の墓地に埋葬され、曲折を経て家乗の墓所は乗政寺山墓地(大名墓地)に現存されている。

      ▲大名墓地

    ▲大名墓地の中にある松平家乗の墓石

 

 

大給松平宗家7代・松平乗寿

父・松平家乗が慶長19年(1614年)に亡くなったとき、乗寿は慶長5年(1600年)1月12日生まれなので14際で家督を継いだ。

 

 

同年冬の大阪の陣に出陣して戦功を挙げ、寛永9年(1632年)には、岩村城の鎮護と領民の安泰繁栄を祈願して、城の西に石室千体仏を建立、また、武並神社を創建した。

ここに、武並神社のURLがあります。興味ある方はご覧になってください。

※上記の石室千体仏をクリックして頂くと詳しい記事があります。また、武並神社をクリックしても同様です。

 

 

そうして、寛永15年(1638年)美濃岩村藩2万石から遠江浜松藩に3万6000石へ加増移封されました。

 

 

浜松在城中はは、高力忠房の時代から続く五社神社・諏訪神社の造営を寛永18年(1641年)に完成させている。

 

 

しかし、譜代大名は幕府の要職に付くことが多く、老中となっていたので浜松にいることは少なかった。

 

 

た、寛永19年(1644年)には家綱付きの老中に任じられ、正保元年(1642年)2月28日のは上野館林藩に6万石に加増移封となり、家綱が4代将軍となると正式に老中の一人となって政務を取り仕切った。

 

 

大給松平家は初代・2代までの37年間岩村藩を治めた。

 

 

以後の大給松平宗家の殿様

大給松平宗家8代・松平乗久

大給松平宗家9代・松平乗春

大給松平宗家10代・松平乗邑

大給松平宗家11代・松平乗祐

正徳5年(1715年)9月29日、松平乗邑の次男として誕生、兄・意乗は早死にしたため家督を継いだ。

 

 

父・乗邑が老中を罷免され隠居謹慎を命じられ、大給松平家6万石の家督を相続したが、追罰を受け、直後に山形に懲罰的国替を命じられる。

 

 

その後、寺社奉行を経て大坂城代となり、三河国西尾藩に転封となるが、同地は2万7000石しかないため飛地として差分は越前国内に与えられた。

※上記の三河国西尾城をクリックして頂くと岩村城との関係記事があります。興味ある方はご覧になってください。

 

      ▲西尾城

 

大給松平宗家12代西尾藩2代藩主・松平乗完

大給松平宗家13代西尾藩3代藩主・松平乗寛

大給松平宗家14代西尾藩4代藩主・松平乗全

大給松平宗家15代西尾藩5代藩主・松平乗承

明治を迎える。

-大給松平宗家

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。