安土桃山時代の慶長5年(1600年)9月15日に、関ヶ原の戦いに勝った家康は慶長8年(1603年)に朝廷より征夷大将軍に任じられた。
ここで一つ確認をしてほしいことがあります。
征夷大将軍に就任できるのは源氏のみという話を聞いたことがある方が多いんじゃないですか?
家康は源氏の系統ですか?秀吉は身分の低い育ちだから将軍にはなれなかった。
結論からいえばNOです。
それでは織田信長の例をみてみましょう。
「三職推任問題」において朝廷側から、信長に征夷大将軍・太政大臣・関白のうち好きなものを選んでいいと提案されますが、信長は平氏の子孫であるから問題はなかったのに保留をした。
平氏も源氏も元を正せば天皇家の親王ですから、信長には権利はあった。
三英傑の中では身元がハッキリしているのは織田信長だけです。
後の二人(秀吉・家康)は身元はハッキリしていませんが、家康が江戸・秀吉が大阪に本拠地を置いたおかげで現在それぞれ発展しています。
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家康の江戸に転封を決めたのは秀吉
秀吉と家康の北条征伐後
家康は娘・督姫を北条氏に嫁がせているが、秀吉と共に小田原城を攻めている。
母は側室・西郡局の間に生まれた。
▲家康の子供達
天正18年(1590年)7月11日に北条氏政と氏照が城下の医師・田村安栖の屋敷で切腹、そして当主の北条氏直は一命を助けられ、氏規ら300人と共に高野山へ追放され、小田原征伐は終わった、落城前に秀吉から北条氏の旧領国を徳川殿に明け渡したいと打診があった。
秀吉曰く
「徳川殿、どこにお住みになるつもりかと尋ねられた」
家康曰く
「さしあたっては小田原城に住みたい」と答えたという。
秀吉曰く
「秀吉は小田原は東国の喉仏なので、ここは家臣の優れた者を置いて守らせ、更に奥の江戸がよかろう」
と地図を出して見せた。
よっぽど家康を煙たい存在だったに違いない、こうして家康を江戸に追いやったのは秀吉である。
家康の旧領の三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の5カ国、およそ150万石だったが、北条家の旧領である関東への転封により240万石になることが見込まれたので、転封は栄転であった。
ただし、豊臣政権の中枢である京都・大阪から距離的に離れる関東、更に本拠地を東の江戸に指定されたということは左遷といえる。
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家康がまず町づくりの基礎づくりは
大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし天下を取って、260年間続く江戸幕府を開いたのは、先見の目があった家康の頭脳。
家康が行った江戸の町づくりに関する経緯は、当時の江戸は低湿地が広がる未開の地だったため、大名が住むには不向きだったようである。
また、関東には古都・鎌倉があったので、この地を本拠地にする際の理由になったともいわれています。
では、家康は江戸を本拠地に選んだのか?
それは江戸の地理に目を付けたからだ、江戸は海に面していた上に、関東地区に流れる川の終着点となっていたため、水脈に惠られていた。
この水脈を利用した港や航路を造れば、江戸は必ず発展するだろうと考え、本拠地を江戸としたのである。
家康が地理に目を付けた本拠地にしたのはよかったのだが、低湿地帯で未開の地を切り開くのは容易ではなかった。
そこで、家康は江戸湾から江戸城への水路を建造することから始めたのです。
江戸湾から江戸城に至るまで水路を建造した家康が次に行ったのは、その水路から建築資材や米を運んで、江戸城の改築工事を進めた。
通常であれば、他の水路も建造する方が江戸の地理を活かし発展させることができたが。当時は戦いが多い時代だったので、本拠地である江戸城の改築を行ったといわれている。
江戸幕府を開いて「天下普請」制度
天下統一を果たした事で絶対的な権力を手にした家康は、諸大名に土木工事をさせる「天下普請」という制度を作った。
この制度によって、人材、資金を更に潤沢にすることができたので、江戸の開発はより活発になったといわれています。
また、他にも江戸の開発が活発になった理由があった、それは堀割運河がという水路を建造したことです。
堀割運河という町の内部に張り巡らされた水路で、舟での荷物の運搬を円滑にした、家康が水路開発を積極的に行ったことで水運が発達した町となりました。
歴史上、江戸の町ほど水運が発達した町は珍しいと考えられています。
現在の東京は陸上交通が発達したため、かつて水運が発達していた江戸の面影は残っていませんが、かつてこの地を見出して人を集めた家康こそが、現在の東京の基盤を築いたといえます。
家康の本当の狙い
家康が江戸を本拠地にした理由は別にあったと考えられます。
それは風水を意識したからと考えられます。
風水地は、古代中国の思想で、都市・住居・建物・墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用いられてきた、「気の流れを物の位置で制御する」という思想。
最も重視した鬼門・裏鬼門
家康は風水と共に重要したのが鬼門である。
鬼門とは、北東の方位、方角のことであり、日本では古来から鬼が出入りする方角であるとして、忌むべき方角と古くから伝えられています。
また、鬼門の考え方は中国発祥だと考えられており、日本では、おそらく平安時代の頃、すでに認知されていたといわれています。
古来より、鬼門の方角にお寺などを建てて鬼を追い払う必要があると考えられてきました。
お寺を建てる事ができない場合は、鬼門の方角に猿の像を置いたり、柊(ひいらぎ)などの植物を植える事で対策を行ってきました。
そして、鬼門と同様に縁起が悪いといわれる方角があります。
それが、裏鬼門です。
裏鬼門も古くから縁起が悪いと考えられ、鬼門と同様に対策が行われた方角であった。
家康は風水・鬼門・裏鬼門を
この風水と鬼門が江戸とどのような関係にあるか、家康が江戸に本拠地を築いた訳は、鬼門を意識したからである。
つまり、家康は鬼門の知識を持っていて、江戸の地にとっての鬼門を増上寺に守ってもらおうと考えたのである。
江戸幕府を開いて、すぐの頃は増上寺だけだったけど、寛永2年(1625年)に今度は寛永寺が徳川家光の手によって建立されています。
寛永寺が建てられた理由は、いろいろあるといわれていますが、鬼門が深く関係しています。
家康と共に江戸の町づくりに深く関わった天海という人物、誰じゃあ、それは謎(明智光秀ともいわれる)、家康は鬼門や風水に関する知識はあったが、完全ではなかった。
※上記の天海をクリックして頂くと天海の記事があります。信じるか信じないかは貴方次第です、
そこで、活躍する人物こそが天海という人物である。
展開は天台宗の僧で、大僧正という僧侶を統括する官職に就いていたほどの僧であった。
その昔は比叡山延暦寺で修行していたが、織田信長による焼き討ちに遭ってしまう、その後は、武田信玄・豊臣秀吉の懐刀としても活躍するようになる。
また、浅草寺の資料によれば、北条攻めの際に家康の陣幕にいたといわれていて、家康とは特に親交が深かった事が予想されます。
天海は生年がハッキリされておらず、そのため100歳以上の長寿だった、などと様々な説が多く謎の人物です。
そして極め付けは、本能寺の変で織田信長を討った戦国武将・明智光秀と同一人物という説が存在する、この説によると光秀は、天正10年(1582年)の山崎の戦いで、豊臣秀吉に敗れているが、実は生きていたと考えられる。
山崎の戦い後、生き延びた光秀は複数の寺社に匿われた。
しばらくして、光秀は天海と改名して家康の懐刀として活躍したと考えられる。
天海と光秀が同一人物である可能性は高く、日光にある明智平という地名の名付け親が天海だった事や、徳川家光の乳母に、光秀の重臣・斉藤利三の娘である、春日局が採用されたことなどが、理由として挙げられる。
※上記の斉藤利三う人物か?光秀は本能寺には参戦していなかったという事実判明の記事があるので、興味ある方はご覧になってください。
その他にも、大阪の陣で豊臣方として戦っていた、光秀の孫である織田昌澄が戦後に助命されていることや、光秀の居城があった近江坂本に天海の墓所があるなど、同一人物と思われる内容が多く見つかっている。
天海は、家康の時代にも江戸の町づくりに対して助言したといわれている、一番助言をしたのは家光の時代だといわれている。
天海は、家光が更なる江戸の都市計画を考えた1616年に、寛永寺を建造するように家光に助言し、自ら住職を務めた。
展開が自ら住職を務めた理由は、鬼門からの災いを守護する為だったと考えられている。
更に天海は、裏鬼門にも日吉大社から分祀して、日吉神社を置き裏鬼門からの災いを守護した。
日吉神社を建てた事で、寛永寺・江戸城・日吉神社を一直線上に並べ、鬼門を完全に守護することに成功したのである。
また、江戸の三代祭(神田祭・三社祭・山王祭)である、神田神社の神田際、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸城の鬼門・裏鬼門を清める意味合いがあったという説が今も語られています。
家康が関東に転封して始めた江戸の町づくりは、秀忠を通り過ぎて家光の時代にようやく完成した。
江戸の町づくりに風水などを取り入れたから、江戸時代が260年も続いたのかもしれません。