茶屋四郎次郎と家康の関係は、とても深い関係です。
NHKの大河ドラマを観られた方も多いと思いますが、これからどんどんと深みにはまっていきます。
Yahoo!の知恵袋見てたら、こんな記事がありました。
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【質問】してた文章です。
本能寺の変の本当の黒幕って誰だと思いますか?
わたしは、明智光秀=天海説信じてみたいなと思ってるので、徳川家康が黒幕じゃないかなって思ったりしています。(明智光秀に暗殺を頼んで、山崎の戦いで助けた。)
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【アンサーの方が答えた】文章です。
家康の使者として、在京していた茶屋四郎が未明に変を知り、堺から上洛中の家康一行に知らせるために単騎で堺に向かっていたとき、偶然にも飯盛山付近(現・城陽市)で先行していた、本多忠勝・服部半蔵に出会い、変を知らせたとしています。
それを知った家康は知恩院で切腹しようと言い張ったが、本多忠勝は猛烈に諌め、半ば強引に家康の伊賀越えを強行したとされています。
本多忠勝の武勇は有名ですが、私は本多忠勝の一番の功績はこれだと思います。
ですから黒幕は「家康ではない」と思います。
明智光秀が信長を倒したのは事実で実行犯ですね。
じゃ黒幕がいたのかという事ですが、黒幕はおらず協力者はいたと思います。
それは、信長に実権を与えられず小バカにされていた足利義昭と朝廷と思います。
明智家は足利将軍家に仕えていた「源氏」、一方信長は「平氏」ですから。
以上が、アンサーの方が答えている文を見つけました。
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ここからは【私の意見】を述べさせていただきます。
以下の文章は真実です。
明智光秀は直接本能寺に行ってないから実行犯ではない。
※ここに明智光秀が本能寺に行ってないことが明らかになった新聞記事があります。興味ある方は上記の明智光秀をクリックして読んでください。
以下は、個人的な意見ですので、聞き流すのもよしだと思います。
実行犯は光秀の重臣・斉藤利三と家康の密約ではないだろうか?と疑っています。
でも茶谷四郎次郎の伊賀越えを読んでみると分からなくなってきますが、ここが、先ず、疑問です。
光秀が実行犯なら、なぜ春日局(福)を家光の乳母に家康が決めたか? という春日局問題と天海和尚問題です。
光秀が山崎の戦いで敗れて落武者に殺され、首を獲られ秀吉の前で首実験した時は、相当腐敗してたと言われますので確認は曖昧だと思います。
春日局は斉藤利三の娘で、光秀と利三は従兄弟同志です。
まして大奥の一番偉い人になれたかという事です。
天海和尚も光秀がなっているかわかりませんが、それらしい”くさい話“だと思います。
※上記の天海和尚をクリックして興味ある方は読んでください。
もう一つは、光秀の何番目かの娘が信長の側室になっている理由です。
まあこの位にしておきます。
あゝそれから「源氏」も「平氏」も出身は同じ天皇家から出ています。
茶谷四郎次郎清延とは
先ず、最初に家康と茶谷四郎次郎の歳の差を、茶谷四郎次郎清延は1545年生まれ、一方の家康は1543年生まれで、家康の方が2歳年上です。
親の茶屋四郎次郎は、安土桃山時代から江戸時代にかけて京都で呉服などを商いし戦国武将にも大きく関わった京都の豪商です。
もとは、信濃守護・小笠原長持の家臣・中島明延(中島四郎左衛門明延)が戦いで深手を負い武士をを退き京都に店を構えたのが始まりです。
茶屋家は、京都新町通蛸薬師下る(現・京都市中京区)に屋敷を設け、160年にわたって本教を置いた。
この中島明延の子が茶屋清延といい、一般的に茶谷四郎次郎清延が初代と呼ばれ、若い頃は徳川家康の近習※1であったとされ、信玄との戦い三方ヶ原の戦いで活躍し、その他の合戦にも参戦していたといいます。
※1.近習(きんじゅう)とは、主君の近くに仕えること。あるいは仕える人のことを指す。「きんしふ」の変化した語。類語、縁語としては近侍、近臣、近習衆、近習番など。
明延の子の茶屋四郎次郎清延が、どうして家康に接近したか分からないが、接近し徳川家の呉服誤用を一手に引き受けるようになった。
3代清次は家康の側近や代官の役割も務め、朱印船貿易で巨万の富を築き、また、角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家と共に京都町人頭を世襲し、「京の三長者」と言われた。
茶屋家の没落始まる
しかし、鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになる。
10代茶屋四郎次郎延国(延因)時代の、寛政12年(1800年)には納入価格をめぐって呉服御用達を差し止めを受け、文化7年(1807年)に禁を解かれたものの以後は商いが振るわず、明治維新後間もなく廃業した。
茶屋四郎次郎清延の伊賀越えの功績
徳川家康の人生の決定的な場面に、一度のみならず、二度もその傍にいて、立ち会った男がいました。
その名は、茶屋四郎次郎清延ともう一人は初代の2男、3代目茶屋四郎次郎清次。
この父子、二人の茶屋四郎次郎が家康の人生の大事な場面に家康の横にいたといいます。
茶屋四郎次郎は、京都の豪商です。
商いは呉服屋、簡単に言うと、権力者と政商、といった間柄です。
でも茶屋家は、家康が天下を獲ったから家康に急接近を図った、というわけではありません。
初代の清延が、天下分け目の関ヶ原合戦の4年前、慶長元年(1596年7月27日)に死んでいることがその証です。
家康の何が清延をそうさせたかは不明ですが、この「初代・茶屋四郎次郎清延」は、初対面以来陰に陽に家康を支えました。
その一番が、あの本能寺の変です。
あの騒動に清延が直接かかわっていなかったが、彼の情報網があの異変、信長の死という超一級の情報をキャッチしなければ、家康も危なかったかもしれません、
この「本能寺の変」の翌日に、茶屋四郎次郎は家康のもとに自らが早馬に乗って駆け付けます。
※上記の本能寺の変をクリックして頂くと、家康が伊賀越えをした時の記事があります。興味ある方は読んだください。
その衝撃の一報を、家康が聞いた場所は大阪・四条畷の路上でした。
領国は三河の家康が、何故、そこにいたかと言えば、それはその時、家康は信長の提案で、たまたま畿内(京阪神)への慰安旅行の最中だったのです。
4か月前、山梨県の天目山で、武田勝頼が自刃して、信虎、信玄、勝頼と続いた武田家は滅亡したた。
攻めたのは信長・家康連合軍、その戦での家康の働きは見事だったと信長に褒められ、そのご褒美としての慰安旅行でした。
「戦」ではないのですから、家康一行は数十人の非武装集団で、茶屋四郎次郎清延のこの早馬での急報がなければ、1万数千の兵力で本能寺を襲った光秀の前に、旅先の家康はひとたまりもなかったでしょう。
一報に接した時、家康は、即座に殉死※2を考えましたが、同行していた重臣・本多忠勝が必死に説得し、「こんなところで自害はなりませぬ。」
※2.殉死(じゅんし)とは、高貴の身分の人や主君などの死に際し、その従者や妻子らが死者に随従するために自殺、もしくは強制的に殺されること、追腹ともいうと、『国史大辞典』に説明がある。さらに、殉死は古代からしばしば見られ、戦乱期には従者が戦死した主君に殉死するのは珍しくなかった。▲
家康の殉死は、家康のお家芸ではなかったか?と疑います。
何故なら桶狭間の戦い後、今川義元が亡くなって、岡崎の大樹寺に逃げ込んだ時も先祖の墓の前で同じ行動をとっています。
本多忠勝が「何が何でも領国・三河に帰り、明智を討つ。」「それが信長公への報恩ではありますまいか。短慮を排して、ここは捲土重来を!」この熱誠溢れる本多の提言に家康は翻意※3した。
※3.翻意(ほんに)とは、一旦した決意を変えること。
しかし、三河に帰るといったところで、畿内(京阪神)から三河国までの主要道路には光秀の兵が潜んでいることは火を見るより明らかです。
思案の末、選んだ逃避路は、これまで通ったことのない伊勢志摩半島を縦断するコースでした。
なんとしても伊勢に辿り着き、そこから海路、三河を目指すというルートです。
といっても、これは未知のコース。山中には山賊が跋扈しているでしょうし、落ち武者狩りの無法者たちもいます。
その時、家康一行は、服部半蔵と茶屋四郎次郎を先行させました。
半蔵が、未知の伊勢山中の情報収集と道順決定、それに、村長ら山の有力者との協力要請交渉していきます。
茶屋四郎次郎がその代償としてのお金配りをしたであろう。
本多忠勝ら猛将が家康の安全警護担当、という役割分担し結果は大成功だった。
伊勢の浜から領国・三河に向かう小船に乗った時、漁師が差しだしたヤドカリの塩辛を口にした家康は、殊の外、風味よしと、粟麦飯を三杯食したといいます。
茶屋四郎次郎はこの時の功績で、家康の御用商人として取り立てられ、以後、親交を深めて、徳川家の呉服御用を一手に引き受けることになります。
やがて、公儀呉服商の地位も得て、その商人の座を盤石なものにしますが、実は、この茶屋家の先祖は呉服屋さんではありませんでした。
この初代清延の父は元・武士で、信濃国の守護・小笠原永時の家臣でした。
名を、中島明延といい、詳しい事情は不明ですが、彼の時代に武士を廃業し、明延は16世紀の半ばに京都に出て、呉服商を始めたとのこと。
茶屋さんは、もとは中島さんでした。
「茶屋」という呼称は、室町幕府第13代将軍・足利義輝がしばしば京都の中島明延邸に茶を飲みに立ち寄ったことに由来したといいます。
この屋敷は京都・中京区の蛸薬師にあり、「茶屋」と屋号をつけた明延の息子、清延が茶屋家の初代当主になりました。
この蛸薬師の屋敷が以後160年にわたって茶屋家の本拠となり隆盛を極めます。
清延以来、当主は代々「四郎次郎」を襲名するのが習わしでした。
既述のように、関ヶ原の合戦の4年前に清延が死んだあと、家を継いだのは清延の長男・清忠でした。
彼は秀吉の死後、家康の絶大な力を背景に京阪神の物流の取締役などに就任します。
しかし彼は、徳川幕府開府の年、1603年に病死します。
清忠の急死で跡を継いだのが、清忠の弟・清次でした。
この三代目茶屋四郎次郎も遣り手でした。
彼は、家康の後押しもあって御朱印船貿易の特権を得、ベトナムとの貿易で巨万の富を得ます。
茶屋家が、角倉家・後藤家と並んで「京の三長者」と言われたのは、この、清次のころです。
そして、この清次が、家康の人生の決定的な場面に居合わせた、「もう一人の」茶屋四郎次郎なのです。
戦乱の世を生き抜き、天下分け目の関ヶ原でも勝ち、勢力天下無双の家康でしたが、より盤石な体制をと、後陽成天皇から、武士社会のトップ・征夷大将軍と、公家社会のトップ・源氏長者の位を同時に授与、という二つの宣旨を同時に受けられるまで、「関ヶ原勝利」から更に2年半、待ちました。
満を持して自前の幕府を開いたのが1603年3月。でも自分がその将軍の地位にいたのは僅か2年でした。
1605年には三男の秀忠を後継に据え、自分は影響力を保持したまま駿府に隠居し、以後300年近く続く、世界史でも類を見ない一族支配の形を整えたのでした。
待つことのできる政治家・家康は、自前の幕府を作った後も、なおそこから12年待って、目の上のたんこぶだった豊臣家を大坂の陣で追い落とし、全く後顧の憂いのない形で、元号も平和の始まりを意味する「元和」に変え、やれやれと、心から安堵の日々を送っていたある日のことでした。
家康は趣味の一つだった鷹狩りに出かけます。
元和2年(1616年1月21日)のこと、場所は駿府城からほど近い、今の藤枝市のあたりの田中というところでした。
ここでの放鷹は、もちろんこの日の重要な目的の一つでしたが、実はこの日は、もう一つ大事な用事がありました。
それはその放鷹現場の近くの田中城で、ある人物に会うことでした。
その人物こそが、3代目茶屋四郎次郎、清次だったのです。
何故、彼と会うのが家康の居城・駿府城ではなく田中城だったのか、そのことに触れた資料はありませんが、私は朱印船貿易の利権絡みの話だったからかなと思っています。
それを裏付ける資料はありませんが、ただ、その日の夜、清次と夕食を摂った後、家康がにわかに腹痛を訴えたということは、『東武実録』という記録にあります。
家康はその日、すぐに侍医の片山宗哲の診察を受け、投薬で一応は回復します。
でも、なぜかそのまま田中城に逗留して、駿府城に戻ったのは24日のことでした。
ただ、家康の体調は、この日以降、どうもすっきりしません。
彼はその時、今でいう後期高齢者でしたから、数年前と比べて体力全般がすぐれないのは仕方がないとは思っていました。
家康は大変な、健康オタクで、自分で調剤などをすることが多く、侍医の薬よりも家康自身が調合した薬を飲んでいたことも、不調の原因だったかもしれません。
見舞いに駆けつけた秀忠は、そのことを目撃して侍医の片山に、「侍医の自分の出す薬をお飲みください」と言わせようとします。
当の片山侍医は気が進みませんが、でも天下の2代将軍様の命令だからと恐る恐る申し出ます。
と、案の定、家康は激高して、即刻片山侍医は免職、信濃に配流されます。
そんなこんながあって、体調は一向に良くなりません。
でも、ちと、食い過ぎたか。」と自分を無理やり納得させるのでした。