美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

江戸

江戸という地名の由来はいつ頃から使われていたか?

投稿日:2023年6月26日 更新日:

 江戸という地名は、いつ頃からあっていつ頃から使われていたのか?
「江戸」ってとてもいい名だと思います。

 

 

江戸へ行くとか、江戸幕府とか、江戸時代とか、◯◯町の江戸町とかいろいろありますネ。

 

 

しかし、現存する史料からは「江戸」と呼ばれ始めた正確な年代は不明ですが、武蔵平氏一流秩父氏が12世紀前半に江戸地域に進出し、その地名から「江戸氏」を名乗ったと考えられるので、少なくともそれ以前にはすでに「江戸」という地名が存在したと思われます。

    ▲家康入城以前の江戸

 

 

昔は地名イコール名前を付けて行ったことが多い。

 

 

武蔵平氏の一流秩父氏とは

平将恒※1の子孫で、武蔵国の有力な武家でした。

※1.平将恒(たいら の まさつね)とは、桓武天皇6世で、武蔵国の名族・秩父氏の祖。
父は平忠頼、母は平将門の娘・春姫。母方の祖父が平将門で、将の将は将門から引きついだものと思われます。

 

 

武蔵平氏一流秩父氏は、畠山氏、河腰氏、江戸氏などの諸氏に分かれて武蔵国各地に勢力を広げていった。

 

 

武蔵平氏はの一流秩父氏は、源頼朝の挙兵に、当初は平家方として対抗しましたが、後に源氏方について鎌倉幕府の設立にに協力しましたが、、武蔵平氏の一流秩父氏は、南北朝時代にも北朝側について活躍したが、戦国時代には衰退してしまった。

      ▲江戸氏の系図

 

 

江戸氏は武蔵国と常陸国がある

江戸氏日本の氏族の一つで、歴史上、武蔵国常陸国で勢力を振るった氏族が有名である。

 

 

武蔵江戸氏は、桓武平氏秩父氏の一族、武蔵国江戸郷 (武蔵国)に本拠地を置き、のちに現在の皇居を本拠に勢力を張った一族です。

 

 

一方、常陸江戸氏は、藤原秀郷那珂氏の一族。

常陸国那珂郡江戸郷 (常陸国)に本拠地を置いたが、後に水戸城に移る。

 

 

 

武蔵江戸氏

武蔵江戸氏は平安時代の末(11世紀)に秩父重綱の四男・江戸重継武蔵国江戸郷を相続し、「江戸四郎」を称したのが始まりとされる。

 

 

江戸重継は現在の皇居の本丸、二の丸周辺の台地城に居館を構えたという。

 

 

江戸氏は、治承4年(1180年)源頼朝が挙兵した時、すでに武蔵国内の最有力の武家の一角となっていた。

 

 

江戸重継の子・江戸重長は初め頼朝と対立して頼朝方の三浦氏を伐ったが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。

 

 

弘長元年(1261年)10月3日_(旧暦)、江戸氏の一族の一人であった地頭・江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営が出来なくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)北条氏得宗家※2に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されている事が記録として残されている。

※2.得宗家(とくそう)とは、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系、初代執権の北条時政、2代義時からその嫡流である泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代のこと。

 

鎌倉幕府が滅びると、江戸氏は南北朝時代の騒乱において初め新田義貞に従って南朝方につき、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えた。

 

 

江戸長門・江戸高良らは畠山国清の命により矢口渡で新田義興謀殺に加わった。

 

 

その後、武蔵平一揆で敗退するなどして衰退した。

その後、庶流といわれる喜多見氏が世田谷吉良氏に仕える。

 

 

やがて、主家・世田谷吉良氏やさらにその主家である後北条氏が豊臣秀吉に攻められると没落した。

 

 

喜多見勝忠が江戸に入府した徳川家康に仕え、世田谷喜多見に所領を与えられる。

 

 

喜多見重政は征夷大将軍・徳川綱吉の寵臣として大名に列するようになり、喜多見藩を立藩する。

 

 

しかし、元禄2年(1689年)2月2日に突然改易され、大名である喜多見氏は滅びた(分家の刃傷事件に連座したともされる)

 

 

江戸氏の居館跡はのちに、長禄元年(1457年)太田道灌が江戸に封じられた後、江戸城として整備された。

 

 

太田氏の江戸城はやがて後北条氏の支配下に置かれる。

その後徳川家康が本拠地を置き、徳川幕府が代々整備し、明治維新後は宮城となり現在の皇居となった。

常陸江戸氏

常陸国の江戸氏は本姓は藤原氏。

家系は鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする川野辺氏の支流 那珂氏を祖とす。

 

 

那珂氏は平安時代末期に那珂郡に本拠地を置き、常陸の豪族として栄えた。

 

 

しかし、南北朝時代になると、宮方につき、一族の殆どが没落する。

しかし、那珂氏の一族である那珂通泰は武家方につき、那珂郡江戸郷を封ぜられ、子の江戸通高の代に江戸氏を称するようになる。

 

 

通高は守護・佐竹義篤 (九代当主)、佐竹氏第九代当主の娘を娶り、度々軍功をあげた。

 

 

江戸通景は本拠地を河和田(現・水戸市内)に移す。

その子、江戸通房の代には上杉禅秀の乱が勃発し、鎌倉公方足利持氏についた通房は、禅秀方に味方して共に没落した大掾氏の一族の馬場氏の拠点である馬場城(後の水戸城)の近辺に所領を得た。

 

 

大掾満幹はその後も馬場城を保持し続けたが、応永33年(1426年)に馬場城を留守にした隙に、通房に馬場城を攻め落とされた。

 

 

以降、江戸氏は馬場城(水戸城)を本拠地として那珂川中下流部で勢力を振るう。

 

 

その後、守護・佐竹氏の内部で山入一揆と呼ばれる内訌が発生すると積極的に介入し、佐竹領にも進出するようになる。

 

 

戦国時代に入り、佐竹義舜が山入氏を滅ぼすことにより佐竹氏の内訌が収まり、それとともに江戸氏の北進は止まる。

 

 

江戸通泰は佐竹氏に臣従の姿勢を見せたものの、独自の勢力を保ち、古河公方家の家督争いなどで混乱が続く常陸西部及び南部に進出する。

 

 

江戸忠通・江戸通政・江戸重通は佐竹義重 (十八代当主)と同盟を結び、佐竹氏は南奥に、江戸氏は常陸南部にそれぞれ積極的に進出する。

 

 

重通は府中に拠点を置く大掾氏を激しく攻めたてた。

天正18年(1590年)小田原征伐がおこり、豊臣秀吉は小田原城を包囲し、関東、東北地方の諸氏に参陣を命じた。

 

 

佐竹義重氏は後北条氏と対立し、秀吉と懇意にしていたため、参陣したが後北条氏と結んでいた江戸氏は参陣しなかった。

 

 

秀吉は佐竹義重に常陸21万貫の所領安堵状を発給する。

これを楯に佐竹義重は一気に南下、水戸城を落とす。

 

 

重通は妻の兄である結城晴朝のもとに逃走する。

これにより江戸氏は滅亡した。

 

 

子孫は結城秀康(家康の次男)に仕えたという。

江戸城の基礎は太田道灌が最初に築いた所に家康が、小田原合戦を終えて秀吉に三河国・遠江・捨て関東に移封命令出される。

 

 

諸説ありますが、一般的には「江の入口」や「江の港」という意味であるとされています。

 

-江戸

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。