慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉は伏見城中で63歳の生涯を閉じたが、心残りは息子・秀頼は幼く政務はできず、豊臣政権の運営には五大老・五奉行に委ねました。
生前秀吉は、五大老と五奉行を置いた、徳川家康を筆頭に毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝の五大老と、五奉行:浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以を置いた。
▲大阪城
秀吉の死後、五大老の一人前田利家の死去により、徐々にパワーバランスが大きく崩れ、家康が中心になって豊臣政権の政務を取り仕切っていきます。
こうした状況を快く思わない五奉行の一人石田三成は大谷吉継や五奉行の増田長盛・長束正家・前田玄以らを巻き込み、反家康派を形成していきます。
そして、五大老の一人毛利輝元を総大将とし、家康に対して挙兵します。
西軍・東軍に分かれ戦闘激化していく
慶長5年(1600年)9月15日、東軍の家康方約70,000人、西軍の三成方約80.000人が関ヶ原(岐阜県不破郡)で睨み合いし対峙しまます。
いわゆる天下分け目の関ヶ原の戦いです。
▲家康が最後の陣地跡
▲全体図
▲小早川秀秋の陣地(撮影者:市川弘信)
一進一退の攻防が続いていましたが、「金吾」(小早川秀秋)の裏切りを契機に石田三成方は総崩れとなり、家康方が圧勝します。
そして関ヶ原の戦いは終結します。
慶長8年(1603年)2月12日、家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開き、武家にとって伝統的な官職である将軍任官は、家康が豊臣政権五大老の地位を脱し武家の棟梁としてその頂点に立つ重要な契機となりました。
内政・外交に着手
家康は将軍任官後の慶長8年(1603年)に、三河国や遠江国の諸寺社に対して、数多くの寺領寄進状・社領寄進状を発給し、一方で、畿内近国の諸寺社へも寄進状を発給しています。
また、慶長20年(1615年、元和元年)、豊臣家を滅亡させた直後にも、数多くの寺領寄進状・社領寄進状を発給しています。
徳川家の天下が確立した後の7月7日には「武家諸法度」、同月17日には「禁中並公家中諸法度」という、武家全体が守る基本法と朝廷統制の要となる法が出されました。
外交に着手
関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)、家康は東アジアから東南アジアへと渡航する商船に朱印状を発給することで、海外貿易の統制に着手します。
同年10月には安南国(あんなんこく、ベトナム北部)への返書で、日本に来航する船の安全を保障するとともに、朱印状を所持しない日本商船の安南での交易禁止を求め、ここに朱印船貿易が開始され、こうした外交文書を担当したのは、西笑承兌、三要元佶、以心崇伝の3人の臨済宗の僧侶でした。
江戸城内の文庫造営に力を注いだ
徳川家康は武将であり政治家でもあると同時、学問を重んじ文教の振興に努めた、慶長7年(1602年)6月、江戸城本丸「富士見の亭」に文庫を設置、富士見の亭とは本丸の南側に位置し、現在の富士見櫓付近です。
江戸城の文庫には、家康が蒐集した蔵書や鎌倉時代中期の武将・北条実時が創設した金沢文庫の蔵書等が納められました。
足利学校の竜派禅珠(寒松)が最初に蔵書目録を作成しました。
なお、家康は慶長10年(1605年)4月に秀忠へ将軍職を譲り、同12年(1607年)に駿府城へ移りますが、駿府城にも文庫を創設しています。
江戸城「富士見の亭」にあった金沢文庫本等が移されました。
最後の最後に西軍から東軍に寝返った小早川秀秋
小早川家は、毛利家からでた一派です。
毛利家は、鎌倉時代の大江広元を祖とする一族、鎌倉殿の三代将軍・源実朝の時代に任命され毛利を名乗ります。
大江孝光こと毛利孝光は、幕府の執権・北条時頼と宝治合戦に敗れて毛利荘を失っていますが、その後、子孫の毛利時親の孫である毛利親衛が、吉田荘の地頭職まで上りつめた。
こうして毛利家は安芸国吉田荘に基盤を築き上げると、室町時代後期には毛利元就の代で毛利の名を全国に轟かせた。
五大老の毛利輝元は、毛利隆元の嫡男として、天文22年(1553年)1月22日生まれ、母は正室である尾崎局(内藤興盛)の娘で、大内義隆の養女)。
永禄6年(1563年)8月、父・隆元が急死したため、幼名・幸鶴丸(輝元)11歳で家督を継ぐも若年であったため、祖父・毛利元就や二人の叔父・古川元春や小早川隆景による後見を受け、元服して、室町将軍・足利義輝より「輝」の偏諱を受けて輝元と名乗った。
月山富田城の戦いで初陣を飾っている。
小早川家は元就の三男
小早川隆景は、毛利元就の三男で竹原小早川家第14代当主、後に沼田小早川家も継ぐ。
小早川隆景の兄弟に同母母の兄・毛利隆元・吉川元春がいる。