細川ガラシャの子供達とは、父・明智光秀の孫たちである。
明智珠(玉)と、彼女の夫である細川忠興の間に生まれえた子供です。
彼らは明智光秀の孫として、本能寺の変やキリスト教の信仰など、激動の時代を生き抜きました。
その中で、どのような人生を歩んだのしょうか?この記事では、ガラシャの子供達のそれぞれの運命や現代に続く子孫について紹介します。
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細川ガラシャといえば、明智光秀の娘、この名前が頻繁に用いられるようになったのは明治になってからです。
よって、ここでは明智珠(玉)で通します。
ガラシャと細川忠興の子達
正式な名前は、明智珠か明智玉で戦国時代の永禄6年(1563年)に越前で誕生した。
父は明智光秀で、母は明智光秀の2番の妻である妻木煕子、光秀は美濃の斎藤道三に仕えていたが、弘治2年(1556年)の斉藤道三と息子である斉藤義龍の父子の争い(長良川の戦い)で、道三が自害すると、母方の若狭の武田義統※1を頼り、のちに越前国朝倉義景に仕えていたので、その越前・朝倉義景に仕えていた際に、珠(玉)は三女として誕生した。
※1.武田義統(たけだよしずみ/よしむね)とは、武田信豊の長男で若狭国守護で、若狭武田氏8代当主。
天正6年(1578年)8月、父の主君・織田信長の発案により細川藤孝(幽斎)の嫡男・細川忠興に嫁いだ、明智珠(玉)は16歳で細川忠興の正室となり、20歳の時、父・光秀が本能寺の変を起こし反逆者の娘として豊臣秀吉から2年間山中に幽閉されました。
※上記の細川忠興の正室になった、細川家は凄い家柄興味ある方は、ここに記事を載せておきますから興味ある方は読んでください。
忠興は離縁しませんでした。
江戸時代以前は、結婚しても実家の姓(旧姓)を名乗っていました。
ですから明智珠(玉)は細川家に嫁いでも、生涯明智珠(玉)のままです。
実は、珠(玉)がクリスチャンになったのは35歳の時、それは夫の忠興にとっては非常に困ったことでした、珠(玉)自身も二つの規制が生じます。
一つは、クリスチャンのため離縁はできなくなったこと、もう一つは、石田三成に人質に取られそうになった時、自害することができなかった。
ですから家臣に自らを殺させ、さらに邸に火を放って遺体も残らないように焼かせれいます。
辞世の句「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
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天正6年(1578年)明智珠(玉)が16歳のときに、後の小倉初代藩主・細川忠興と結婚、珠(玉)の父・明智光秀と忠興の父・細川藤孝【天正10年(1582年)に長岡幽斎を名乗り。細川姓に復したのは幽斎死後後の忠興の代】は盟友と呼ばれる間柄でしたが、織田信長の肝入りによる明智家と細川家はさらに深い間柄になります。
戦国一の美貌を持つといわれた珠(玉)は、時に強すぎる忠興の愛情に守られ結婚生活をスタートさせます。
天正7年(1579年)には長女・御長を出産、翌天正8年(1580年)には長男・忠隆を出産します。
子供たち3男2女(3男3女ともいわれる)
長女・於長
長女:於長(御長とも書く)(おちょう)・・・前田景定の正室で、前野長康の嫡男で、前野氏の家督を継ぎました。
前田景定は、天正19年(1591年)に於長(御長)を正室として迎えるが、文禄3年(1594年)に秀吉の怒りを買って自害、その際、細川家の尽力で離縁し出家したといわれています。
細川家を継げなかった長男・忠隆
母・珠(玉)が幽閉されている間は、離れて育ち2歳〜4歳でした、母が亡くなったとき、慶長5年(1600年)、父・忠興は徳川家康に従って上杉征伐に20歳で父・忠興と共に遠征に出ていた。
忠隆の正室の千世は、騒ぎがあったとき義母を置いて逃亡したため、忠興の不信をかい離縁を求められました。
17歳のとき、豊臣秀吉の命により、豊臣政権の五大老の一人の前田利家の七女・千世と結婚、関ヶ原の戦い前後の頃は、忠隆が後継ぎと見なされていたようです。
母・珠(玉)が壮絶な死を遂げた時、長男・忠隆の妻・千世は、宇喜多秀家の屋敷に逃れ事なきを得ます。
千世の姉が宇喜多秀家の正室で、姉の指示で宇喜多屋敷に逃れたようです。
宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いで石田方につき副大将を務めた人物です。
その後、妻・千世が実家の前田家に逃れた為とも、徳川家が細川家と前田家の婚姻関係を良く思っていなかったためとも伝わりますが、父・忠興は忠隆に千世との離縁を迫ったといわれています。
しかし、忠隆は離縁に納得できませんでした。
父の命令に従わず廃嫡※2れてしまいます。
※2.廃嫡(はいちゃく)とは、何らかの理由により嫡子に対し相続する権利を廃すること(もしくは嫡子側から見て、権利が廃されること)を指す。廃嫡はお家騒動に発展する曲型的な要因の一つであった。家制度を定めた日本の民法の旧規定では、法律上、推定相続人の家督相続権が失われことを指していた。
その後、妻・千世が実家の前田家に逃れた為とも、徳川家が細川家と前田家の婚姻関係を良く思っていなかったためとも伝わりますが、父・忠興は忠隆に千世との離縁を迫ったといわれています。
しかし、忠隆は離縁に納得できませんでした。
父の命令に従わず廃嫡されてしまいます。
そして、出家して長岡 休無(ながおか きゅうむ)と号し、祖父・細川幽斎の助けを得て暮らします。
その後、千世の実家である前田家の援助も受けられず、千世とは結局離縁することになってしまいます。
(※細川家と千世は離縁したものの、忠隆とは離縁せず、暫く一緒にいたようですが後に離縁しています。)
忠隆は後に、継室・喜久を迎え、後に父・忠興と和解したと伝わります。
次男・興秋
母・珠(玉)が幽閉されている間に誕生、母が亡くなったとき17歳で、父・忠興と兄・忠隆と共に出陣していました。
慶長10年(1605年)に弟・忠利が細川家の嫡子となったため、忠利に代わり徳川氏の江戸人質に向かう途中で出奔した、その後、大阪夏の陣では豊臣方に味方し、奮戦しますが豊臣方の敗北により離脱、その後切腹しました。
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三男・忠利
母・珠(玉)が幽閉生活を終え、大阪の屋敷に戻ってから誕生したが、病弱だったため、キリストの洗礼受けさせたいわれます。
慶長5年(1600年)正月から徳川氏の江戸人質になれ、母が亡くなったとき屋敷にはいませんでした。
長男・忠隆に代わって、江戸前期の熊本藩初代藩主。
徳川秀忠より一字を与えられて忠利と改め,内記と称した。
父・忠興の希望で嫡子となり,10年従五位下侍従に叙任,14年秀忠の養女千代姫(小笠原秀政の娘)を妻に迎え,19年の大坂の陣では秀忠に従った。
元和6年(1620年)家督を相続して小倉藩主となる。
寛永9年(1632年)加藤忠広改易のあとの肥後熊本藩54万石に封ぜられて,九州のおさえの役割を果たした。
14年の天草・島原の乱には子・光尚と共に積極的に出兵,原城攻撃に際しては有効な助言をし,家臣・陣佐左衛門(大将・天草四郎を討ち取る)などの働きもあって軍功第一といわれた。
幕閣中枢の年寄衆,春日局,稲葉正勝らとのパイプを保って藩政を保った。
戦国大名の系譜を引く大名で,老中への付け届けから家臣の登用,藩政の細事について,はては庭木の移植から,鴨の塩辛の塩加減まで指示している。
藩内のすべてはその決定によっており,すぐれた政治感覚が,九州のかなめとしての熊本藩の地位を安泰ならしめた。
次女・多羅
母・珠(玉)が洗礼受けた後に生まれた。
多羅も洗礼を受けたといわれます、その生い立ちは定ではありません。
慶長7年(1602年)稲葉一通の正室になった。
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明智珠(玉)の子孫は系図を辿ると
今上天皇・・・長男・忠隆の子孫です。
竹田恒泰・・・1975年生まれ、政治評論家・作家、旧竹田家の出身です。
細川隆元・・・1900年1月17日〜1994年12月19日、政治評論家で元衆議院議員
細川隆一郎・・1919年〜1月1日〜2009年8月25日、細川隆元の甥で政治記者、忠隆の系譜に連なる。
細川護煕・・・第79代内閣総理大臣、肥後細川家の第18代当主でありますが、直系の子孫ではない。
忠隆の弟・忠利の子孫は繁栄していきますが、第七代藩主・細川治年には子ができず、養子が藩主を継ぐことになったので、明智珠(玉)・光秀の直系ではありません。
クリス・ペプラー・・1957年10月22日、タレント・声優・ナレーター、光秀の土岐氏から派生したとされており、お母さんが土岐氏の子孫とされています。