徳川家康は天文11年(1542年)岡在城にて、松平広忠と母・於大の方の間に誕生、慶長10年(1606年)将軍職を3男・秀忠に譲り駿府城に戻り、大御所として65歳〜74歳まで権力を振るったが、74歳で死去。
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生涯に蓄えた金額(軍資金)はどのぐらいあったか知りたくないですか?
家康といえば、幼少の頃、今川義元の元で倹約の人質生活を送っていた、ところが永禄3年(1560年)5月19に、織田信長が愛知県の桶狭間にて奇襲攻撃をかけて名門・今川義元を討ち取った。
家康にとってはラッキーで、人質生活から呪縛から解き放され、以後は武田家との間で幾多の戦い、長篠の戦いで勝利し、天正10年(1582年)の2月から3月にかけて信長は武田軍を甲州征伐で滅ぼし、3月11日に天目山の戦いで壊滅させるが、信長は6月に本能寺の変で死去してしまう。
やがて家康は武田領甲州の黒川金山を手中に収める。
家康は織田信長と豊臣秀吉が「攻め」の経済を推奨、「守り」の経済を邁進していた。
家康は関ヶ原の戦い後の、慶長19年(1914年)の大阪冬の陣、慶長20年(1915年)で豊臣家を滅亡させ、豊臣の財をそっくり徳川に全国の富を中央に集約する幕府体制と、金山銀山の直轄経営する。
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以後260年という、長期安定政権は確固たる財政基盤なしにはあり得なかった。
家康の決定的な戦いは、関ヶ原の戦い、豊臣方の石田三成との戦いと思っている方が多いと思いますが、最初は徳川家康と上杉景勝の戦いに石田三成が参戦して全国に波及して起きた戦いです。
では何故、関ヶ原に上杉軍が来られなかったか不思議、それは家康の次男・結城秀康他各武将が道を断ったから参戦出来なかった。
※上記の結城秀康をクリックしていただくと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。
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上杉は秀吉に仕え会津藩120万石を収め、秀吉から佐渡の支配を任されいた、秀吉の強さの一つには、上杉に任せて吸い上げる佐渡金銀でした。
日本国内で10万規模の兵を動員するためには、土地から上がる年貢だけでは、とても足りません、そこで有力な金銀山を持つことが武将としては国内を制覇するための要因です。
家康にとっても上杉にとっても手に入れたい佐渡の領地だったんです。
家康軍につく大名は、上杉征伐に加担して褒美を期待した。
家康の死後久能山埋蔵金とは
今まで貯めに貯めた軍資金を『久能山御蔵金銀受取張』が尾張徳川家に元和2年(1616年)という記録が残っています。
つまり徳川家康の遺産である。
▲久能山東照宮 徳川家康の神廟
それには「金箱の数四百七十箱、この内は金銀の一箱入、銀の箱四千九百五十三箱」とある。
全体の金額は、金九十四万両。銀が四万九千五百三十貫で九十九万六百両という。
また、銀銭が五百五十両、合計:百九十三万一千百五十両である。辻文学博士の説によると、「銀五十匁を金一両として、総額:九十四万千六百両ほどになる」という「久能山御蔵金銀受取張」。
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この金を幕府の御用学者・林羅山や本多正純らによると、御三家に全部分配しないで、残りの百数十万両は久能山の御金蔵に納め、他日の必要に備えたことになっている。
将軍職を秀忠に譲って江戸から駿府の大御所として来たとき、江戸城にも大金を残している。
家康は将軍職を三男・秀忠に譲って江戸から駿府に大御所として来る時、江戸城にも大金を残し、秀忠に「自分の贅沢のために使うな国家のために使え」という事をいった。
家康は幼少の時代から他国の敵地で過ごしていたため、金銭の貴重さを身に染みて実感していたため、金銭の使い方を心得ており、旗本や奥女中らにも平素倹約を教え、堅くおごりをたしなめていた。
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由井正雪久能山埋蔵金狙う
由井正雪は、この埋蔵金を狙い幕府転覆を企てていた。
▲由井正雪(イメージ)
その久能山東照宮には家康公が祀られ、榊原氏によって厳重に登山する人々を取り締まっており、どこかに埋蔵金が隠されているのか不明であるが、埋蔵伝説が伝わり正雪もこれを奪って軍資金とする計画だった。
その場所はどこか。
この金を巡っていろいろな話がある。
家康公が亡くなって一年後、遺体は日光に埋葬された。
天海僧正が言うには、「天海自ら鍬を執って改葬の事を行った」という。
このため久能山の霊廟(墓所)は主人不在というが、実際は遺体の改葬はなく、家康の御霊だけを日光に御遷座しただけという。
真実はどうなっているのか。
天海僧正は歌に、「有れば有り、無ければ無しと駿河なる、久能なる宮の 神遷しかな」と詠んだ。
また江戸時代の噂では、「家康の遺金の一部も家康の廟に同居している」とのロマンも一緒に埋葬されたことになる。
このため久能山の霊廟(墓所)は主人不在というが、実際は遺体の改葬はなく、家康の御霊だけを日光に御遷座しただけという。
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徳川幕藩体制の財政基盤をつくった「地方経済」
徳川家康が豊臣政権の足場を弱体していくために行ったのは、豊臣秀吉の直轄領から約200万石〜240万石、金山・銀山を徳川のものにしていきました。
関ヶ原の戦い後、金山奉行・銀山奉行を置いた大久保長安(大久保石見守長安)です。
彼が石見銀山や佐渡金山・出雲金山などを直轄することになり徳川幕府の直轄地のみで約400万石、そこから出土した金銀が幕藩体制の財政基盤をつくったということになります。
そればかりではなく、代官頭で伊奈忠次が各地の河川を補修し、新田開発をしていき砂金を拾い莫大な金を納めた
いわゆる「地方経済」といって、それが相当大きな力を発揮していき幕府に入ります。
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朱印船貿易から鎖国へ
各大名が各自の船で南蛮貿易をしていました。
そうすると、海外貿易によって収入を得ていき、幕府にとっては脅威になりかえないため、次第に貿易を規制していき、結局幕府の老中の出した朱印船を持っていない船は貿易をしてはダメとなって、貿易の権利は幕府が独占していくことになっていきます。
3代将軍・徳川家光お時代に鎖国になりますが、厳密にいうと幕府の貿易独占です。
まとめ
金山・銀山は直轄していき、鎖国といっても長崎の出島で貿易をしていて、そこに利益も徳川幕府が全部独占した。
圧倒的な経済力を持った徳川幕府は長期安定政権の基盤をつくっていった原因です。
時代をさかのぼりますが、足利幕府は非常に不安定な政権があり、足利尊氏の気前の良さ領地を皆に分配しすぎたといわれています。