信長の家臣・荒木村重が謀反を起こした時期は、織田信長は天正6年(1578年)には、播磨平定半ばで嫡男・織田信忠を大将にし石山本願寺へ攻撃をかけさせた。
第二次上月城の戦いでは、三木城(現・兵庫県三木市)の別所長治が毛利軍に寝返ったため羽柴秀吉に討伐を命じたが、毛利軍の猛攻を受けた上月城は毛利軍に攻略されため尼子氏は滅亡した。
また、信長は、天正4年(1576年)7月に補給路を断つため戦ったが毛利水軍(村上)に大敗したため、家臣である九鬼嘉隆に命じて巨大船の造船を命じ天正6年(1578年)6月に、九鬼嘉隆率いる巨大鉄甲船六隻と滝川一益率いる白大船一隻で毛利水軍(村上)を淡輪沖で攻撃し石山本願寺への補給路を絶った。
天正6年(1578年)10月に、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた荒木村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した。
驚いた信長は荒木村重のもとに使者(明智光秀(娘が村重の嫡男・荒木村次と結婚してたが、謀反を起こした歳に離縁)・松井友閑・万見重元)が出向いたが聞き入れなく失敗。
さらにこれを聞いた高槻城の高山右近も有岡城に向かい、村重が信長から受けた恩義や信長に勝つのは不可能のことに翻意を促す※1も失敗。
※1.翻意(ほんい)を促すとは、一旦決めた決意や意志をひるがえさせるように仕向けた意味です。
秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高を使者として有岡城に派遣し、翻意を促したが、荒木村重は孝高(官兵衛)を拘束して土牢に監禁してしまったため帰城出来ないため音信不通になり信長は裏切ったと思い人質となあっていた松寿丸を殺せと秀吉に命令する。
官兵衛荒木村重に幽閉される
織田信長から播磨諸侯に人質を求められ、主君の小寺政職の息子を差し出すよう言ってきたが嫡子・氏職が病弱であったため松寿丸(後の黒田長政)を天正5年(1577年)秋に安土城へ代わりに人質として出した(黒田家譜)。
天正6年(1578年)3月、別所長治が殆どの周辺豪族を引き込んで反旗を翻し毛利氏が呼応する。※3
※3.呼応(こおう)とは、互いに呼び交わすこと。互いに示し合わせ、相応じて行うこと。
4月には海側から宇喜多直家軍が7,000と雑賀衆の兵が、別府の阿閉城に攻め込ん来た際には孝高(官兵衛)が救援し1,000の兵で防いだが、7月に秀吉本隊は信長の指示に従い尼子遺臣団を残して上月城を放棄し書写山まで撤退した。
双方の調略も激しさを増して、9月には孝高(官兵衛)は宇喜多直家を調略することに成功したが、しかし、摂津国を任さていた荒木村重が信長に謀反を起こし、有岡城に籠城した。
この時、主君の小寺政職も荒木村重に呼応しようとしたために、10月に孝高(官兵衛)は荒木村重を翻意させるために有岡城に乗り込んだが失敗して逆に幽閉されてしまった。
天正8年(1580年)10月19日、本丸を残すのみとなっていた有岡城は開城し孝高(官兵衛)は栗山利安に救出されたが、1年半の監禁により官兵衛の足は不自由になっていた。
有岡城の戦い
荒木村重は何故突然織田信長を裏切ったのか?
信長自身も「一体何の不足があったのか?」と謀反に困惑していた。
理由はいっぱいあるだろうが真意の程はわかりません。
毛利軍と戦うことに怖気ついたか?大将は秀吉、その次の荒木村重だった。
だけど裏切って荒木村重は信長と戦うために、本願寺や毛利氏と手を結びます。
そのために、嫡男・荒木村次に嫁いでいた明智光秀の娘を光秀のもとに返します。
決戦をする前に再度使者を送って謀反を思い留まらせようとしますが返事はNoで止められず。
でも、一説には村重は謀反について思い留まって信長に直接会って弁明しようとしましたが家臣の中川清秀が、信長は「一度裏切ったら許さないから謀反を実行するよりしかない」と諫言※4▲したことで安土城に向かうことなく引き返したそうです(『立入左京亮道隆佐紀』)。
▲※4.諫言(かんげん)とは、いさめること。▲
ただ、中川清秀が荒木村重を止めようとしたという話もあります。
そのあたりの事はハッキリしていませんが、村重は結局のところ信長に会わず戦う方向にして、本願寺や毛利氏と手を結び嫡男・荒木村次に嫁いでいた明智光秀の娘を実家に返した。
信長は再度村重を説得しようと思い使者を送りましたが謀反を思い留まりませんので村重討伐を決定して有岡城の戦いが火蓋を切りました。
因みに、この時点で黒田孝隆(官兵衛)は捕らえられて牢獄に、有岡城が落城するまでの1年超まで監禁されていました。
官兵衛からの音信普通で裏切ったと思う信長
「荒木村重を織田家に取り戻す」と言って官兵衛は有岡城に向かったが一向に戻って来ない信長は「織田を裏切った」と思い込み人質の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を羽柴秀吉に命じましたが、竹中重治(半兵衛)が反対。
松寿丸は家臣の下で匿まって信長のもとに偽の首を差し出した。
この事を「上司であるある羽柴秀吉は知っていたのか?」バレれば信長から激しく叱責されかねない一件であった。
羽柴秀吉も起請文※5.▲を官兵衛に提出している。
▲※5.起請文とは、神様に誓う形で約束する契約書の一種です。▲
①官兵衛を祖略に扱わない②人質の身の安全を確保すると言ったことが記されていました。
しかし、荒木村重は信長軍の対・毛利軍の後衛を務める、中国軍団の秀吉に継ぐNO2で官兵衛より格上でした。
信長が裏切ったと思ったかというと、官兵衛の直属の主である小寺氏も裏切っていたのでそのように思ったに違いないが、怒り狂う信長に対し半兵衛は「官兵衛は忠義者なので裏切る理由がありません。
黒田家を敵に回すと毛利攻略が危なくなります。」と言って松寿丸を連れ出した。
官兵衛が幽閉中に秀吉が官兵衛の叔父に改めて忠誠を誓う書状を出している(黒田家譜)そこには、半兵衛が信長に対して異議を唱えていることが記されていました。
毛利攻めで、秀吉は黒田家の重要性を痛感していた、万が一裏切っていたとしても黒田家本体を味方にして置くには松寿丸を生かしておく方が得策でした。
天正7年(1579年)6月、有岡城が陥落して官兵衛が解放される4ヶ月前に半兵衛は病死していました。
小寺孝隆(黒田官兵衛)
先ず、知っておきたい。
黒田家は、『寛永諸家系図伝』などによると、近江国伊香郡黒田村(現・滋賀県長浜市)出身とされるが定かではないが。
祖父・黒田重隆の代に備前国邑久郡福岡村から播磨国に入り、龍野城主・赤松政秀、後に赤松晴政の重臣で御着城(現・姫路市東部)を中心に播磨平野に勢力を持っていた戦国大名の小寺則職・政職父子に仕えた。
小寺氏は黒田重隆を高く評価し、天文14年(1545年)に姫路城代に任じた。
黒田重隆の子・黒田職隆には小寺政職の養女を嫁がせ小寺姓を名乗らせた。
翌年天文15年(1546年)11月29日に嫡男として播磨国の姫路に生まれ官兵衛は幼名を万吉、永禄5年(1562年)、父と共に土豪を征伐し、この時が官兵衛の初陣で、この年から「小寺官兵衛」を名乗る。
永禄10年(1567年)、官兵衛(孝高)は父・小寺職隆(黒田)から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪・光(てる)と結婚、永禄11年(1568年)9月、放浪中の足利義昭が織田信長と美濃国で会見して上洛を要請し、三好三人衆を退けて室町幕府15代将軍となった年である。
天正3年(1575年)、官兵衛は信長の才能を高く評価し、主君・小寺政職に長島の戦いで勝った織田氏への臣従を進言し、7月に羽柴秀吉の取り次ぎにより岐阜城で謁見し信長から名刀・へし切り長谷部を授かる。
▲ここにへし切り「長谷部」を入れる▲
翌年、年明けに小寺政職・赤松広秀(政秀の嫡子)・別所長治らと揃って京都で謁見させる。
足利義昭の室町政権は、永禄9年(1568年)〜天正元年年(1573年)の5年間続け、その後信長に追放後も将軍として活動しており、河内国や和泉国、紀伊国に滞在した後、備前国に下向した。
そして、毛利輝元の庇護を受け、亡命政権・鞆幕府を樹立し、信長に対抗した。
信長が本能寺の変で死亡したのち豊臣政権が確立すると帰京し、秀吉から山城国槙島村に一万石の所領を認められ将軍を辞して出家し昌山道休(しょうざん どうきゅう)と号した。
義昭は前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上、また秀吉の御伽衆に加えられるなど貴人として遇された余生を送って享年61歳(満59歳没)。