なぜ、財政改革をやった、上杉治憲(鷹山)だけが「名君」と呼ばれるのか?
江戸時代の中期とは、(一般的に17世紀後半の元禄期(1690年頃から)、18世紀後半の田沼時代・天明期(1780年頃)までを指し、天和〜安永(1681年〜1780年)と区分されることも多く、文治政治(4代将軍・徳川家綱〜7代将軍・徳川家継)や享保の改革(8代将軍・徳川吉宗)、田沼意次による幕政(田沼時代)が含まれる時期です)
この時期は、深刻な財政難に直面していた、その中で「改革者」として名を残したのが、上杉治憲(後の鷹山:米沢藩)が、明和4年(1767年)に米沢藩主として就任後の「大倹約令」です。
田沼意次の商業重視政策と、松平定信は「寛政の改革」として天明7年(1787年)から寛政5年(1793年)の約6年間に渡り主導され、江戸三大改革の一つで、幕府財政再建と風紀粛清、農村復興を目指した財政改革です。
しかし3人は同じ「財政改革」を行いながら、一方は。上杉は「藩改革」田沼と松平は「幕政」改革ですが、その方法も評価も結果もまったく異なっていました。
「米沢藩を民から立て直したのが上杉治憲(鷹山」は、名君と称えられた。
「幕政の経済を回そうとした田沼意次」は、悪政の象徴された。
「幕政の秩序を取り戻そうとした松平定信」は、恐怖政治の印象を与えた。
3人の改革はどう違っていただろう?
上杉鷹山・田沼意次・松平定信の3人は、それぞれの改革の対象範囲(藩政か幕政か)、経済政策の基本方針(重要主義か重農・緊縮主義か)、そして政治手法や思想において大きく異なります。
まず、3者の改革の比較
▲上杉治憲(鷹山)・田沼意次・松平定信の比較
上杉治憲・田沼意次・松平定信の改革評価
上杉治憲(鷹山)の藩財政改革
「名君」として知られ、改革は長期的に成功を収めた(下記に記載)。
田沼意次の商業重視政策改革
賄賂政治のイメージが強かったが、近年では時代を先取りした有能な経済政治家として再評価されています(下記に記載)。
松平定信の寛政財政改革
一時的に財政再建に成功したが、厳しすぎる統制が反発を招き「白河の清きに魚も住みかねて」という落首※1のよな不評をかい、短期間で失脚した(下記に記載)。
※1.落首(らくしゅ)とは、「世の中の出来事や政治、権力者などを風刺・批判し、匿名で詠まれた詩歌(狂歌・狂句など)」のことで、江戸時代を中心に平安時代から見られる表現形式です。人目につく場所に「落書」として掲示され、庶民の不満のはけ口や、もう一つの世相を知る重要な史料ともなり、言葉遊び(判じ物)の要素も含まれました。
幕府vs藩の改革の違いの要点
米沢藩・上杉治憲(鷹山)の藩政改革
関ヶ原の戦い後、上杉謙信を親(義父)にもつ上杉景勝は家康に反旗を翻し、西軍に属していたが、関ヶ原本戦には直接参加せず、東北で(上杉景勝・直江兼続×最上義光・伊達政宗と戦う:慶長出羽合戦という)。
西軍に組みしたことから、会津120石から米沢30万石への大幅な減封処分を受け入れ、改易(領地没収)は免れまれたが、米沢に移っても家臣6千人を召しかかえた上杉家は借財が20万両(現在の通貨に換算すると150億から200億円に匹敵)が、米沢に移っても家臣数はそのまま召し抱え石高が15万石(実高は約30万石)だった。
上杉鷹山とは
宝暦10年(1760年)、米沢藩主・上杉重定※2の養嗣子となり、明和3年(1766年)に花元服、上杉勝興と名乗るが通称は直丸。
※2.上杉重定とは、米沢藩第8代藩主。山内上杉家24代当主。
第10代徳川将軍・徳川家治の偏諱※3を受け、上杉治憲と改名して明和4年(1767年)に家督を次ました。
※3.偏諱(へんき)とは、武家社会なぢで、主君が家臣に自分の名前(諱:いみな)の一字(特に通字でない方)を与え、家臣はその字を名前に含めて名乗った事を指し、その与えられた字自体も偏諱と呼ばれます。
これは主従関係の絆を深め、家臣は「一字拝領」として名誉とされ、対価として金銭を献上することもありました。
米沢藩政の改革
当主になった治憲(鷹山)は、天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発、治憲(鷹山)は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に務め、自らも粥を食して倹約を行った。
また、曽祖父・上杉綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現・山形県立米沢興分譲館高等学校の前身)として細井平州・新保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。
改革に反対する藩の重役が治憲(鷹山)の改革中止と改革推進の竹保当綱派の罷免を強訴※4し、七家騒動が勃発したが、これを避けた。
※4.罷免を強訴(ひめんをごうそ)とは、主に平安時代から室町時代にかけての歴史的な用語で、武装した寺社の集団(僧兵や神人)が、自分達の要求(国司の解任や流罪など)を権力者に対して暴力的な示威行為をもって強要することを意味します。
これらの施設と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済させました。
天明6年(1785年)専修が目だった竹保当綱(たけのまたまさつな)を罷免し、同時に家督を前の8代藩主・上杉重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた治広に譲って隠居して(鷹山)と号した。
田沼意次の改革
田沼時代と呼ばれ、安永元年(1772年)頃から天明6年(1786年)までで幕政を主導した。
ときの将軍は、第10代将軍・徳川家治でした。
家治の父親は第9代将軍・徳川家重※5の遺言に従い聡明な田沼意次を重用して政治を任せ、自身は将棋や鷹狩りに没頭していました。
※5.徳川家重とは、8代将軍・徳川吉宗の長男ですが、病弱で言語障害があったので、側近の大岡忠光や田沼意次を重用して政務を行い、息子・家治に田沼意次のことを遺言をする。
田沼意次の失脚の主な原因は、天明の大飢饉(浅間山噴火などよる天災による米価壊滅)と、それに伴う米価高騰による一揆多発で庶民の不満が爆発、そこに田沼意次の息子・田沼意知の暗殺事件が引き金となっった。
保守派(松平定信ら)による政敵排除の動き活発になってきたことと、将軍・徳川家治の急死で、意次(身分が低い老中だったため)の後ろ盾を失い 「汚職老中」など批判と天災の責任を問われ失脚・蟄居となりました。
実際は汚職のみならず経済政策の急進性や守旧派との対立が背景にあったとされます。まだまだ辞任をするべきではなかっと思います。
田沼意次の主な失脚の要因
天災浅間山大噴火と経済的困窮(直接的な引き金)は、天明2年(1782年)から東北地方を中心に東日本が悪天候に見舞われ、翌天明3年(1783年)は、異常低温の年になり、春が間近に迫っていたが気温が一向に上がらず雨が降り続き、日本各地で洪水が起きるあり様でした。
夏になっても晴れる日は希で冬のような寒さが続き、そんな天候が続くので悪天候や日照不足のため農作物は全く育たず米の収穫高もほとんどない地域もありました。
そんな中、天明3年(1783年)3月には青森の「岩木山」7月には長野県の「浅間山」の崩壊が発生、特に浅間山が噴火田畑が火山灰で埋まり作物が取れず、天明の大飢饉で約900,000人以上が餓死し一揆が各地で甚大な被害状況が起きた。
田沼意次の政治で幕政は避難の的になった 江戸幕府の政を田沼意次が政務一般を司っていました。
その中で意次は、江戸幕府の財源を農民からの年貢に頼るのではなく、商業を重視して発展させることで、商人にも税を課す「重商主義政策」を打ち出します。
この政策、商業的農業を公認し、年貢増徴策を採って、庶民の生活を豊にしたが、豪商達を優遇していたため賄賂政治が横行し、下層からの搾取※6を生むことになり、幕政は腐敗し天明の大飢饉の最中、このような幕政に対する不満が高まって、百姓一揆が横行、また、」打ちこわし各地で勃発し激化して行きます。
※6.搾取(さくしゅう)とは、他者の労働力から資源などを不当に奪いとり、自分の益にすることを指し、特に優越的な立場を利用して弱者から不当な利益を得る非論理的な行為を意味します。
本来の「汁などを絞り取る」意味から転じて、労働者の「やるがい」を利用して低賃金や長時間労働を強いる「やりがい搾取」などの形で社会問題として頻繁に使われ、労働者のモチベーション低下や離職につながる問題です。
将軍の死で、意次の後ろ盾がいなく最終的に辞任に追い込まれました。
松平定信の寛政の改革
田沼意次のあとを、第8代将軍・徳川吉宗の次男で御三家の田安家の初代当主・田安宗武の7男で、家治亡き後の将軍は第11代・徳川家斉※7です。
※7.徳川家斉とは、橘家出身で前の将軍・家治の養子となり、若くして就任し、天明7年(1787年)〜天保8年(1837年)まで約50年徳川将軍を歴任し、55人もの子女をうけました。
晩年は大奥の繁栄と贅沢な生活を送り、幕府財政の悪化や幕府の緊張緩和を招いた「大御所時代」を築いた。
この中の1人に尾張名古屋城の尾張藩12代藩主・徳川斉荘がいて、その四女・釣姫が美濃国の岩村藩主・松平乗命の正室となりました。
※.上記の釣姫をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。
田沼意次の商業重視から転換し、幕府財政再建と社会秩序の維持・強化を目指した改革で、主な内容は、倹約令、棄損令(旗本・御家人の借金帳消し)、囲米の制(米の備蓄)、七分積金(町費節約・貧民救済)、朱子学の奨励・異学の禁(思想統制)、株仲間の解散などがあり、特に農村復興と財政健全化を重視したが、あまり厳しい統制で町人・農民の不満を招き効果は限定的でした。