
生没年不詳で戦国時代の武将で、美濃国宇留魔(鵜沼)城主。
名は大沢次郎左衛門正秀、斎藤氏の家臣『寛永諸家系図伝』や『濃陽諸士伝記』によれば、斎藤道三、斎藤義龍、斎藤龍興の三代に仕え鵜沼城を任されていた。
戦国時代にしては、常識外れの体格を誇る身長七尺を超えたと伝わる巨漢の持ち主大沢次郎左衛門です。
可児才蔵や前田慶次らと比される規格外の武勇を持ちながら、彼の人生は意外なほど謎に包まれています。
※.上記の可児才蔵をクリックして頂くとビデオが出てきます。
※.上記の前田慶次をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方はクリック「してください。
とりわけ注目されるのは、大沢次郎左衛門が斎藤道三の娘を妻に迎えたという伝承だが、もし事実なら、彼は織田信長と娘婿同士の“義兄弟”になりますが、これを見るとちょっと違います。
▲斎藤道三の子供の一覧
ここ上記に斎藤道三の子の一覧がWikipedliaを写メしましたものを載せます。
『寛永諸家系図伝』には記述がなく史実の可能性はかなり低くくWikipedliaウィキペディアには記載されていました。
巨漢武将・大沢次郎左衛門の実像に迫る。
身長2メートル超えは本当か?次郎左衛門の驚異的な体格
戦国時代で身長2メートル超えの巨漢として知られる「大沢次郎左衛門」の存在は、歴史上の文献においてその驚異的な体格が伝えられています。
「七尺」「二間近い」などと(現代換算で180cm超える2m超と推定される)2メートル超と伝えられるほどの巨漢が伝わっているのは、戦国時代では、強さが噂として拡散する社会だった、数字は誇張※でも存在感は誇張ではない「記録に残らずとも、記録に残った武士」であったと思います。
※.誇張(こちょう)とは、おおげさに表現すること。
怪力エピソードの一つ、次郎左衛門が鎧を着たまま複数人を相手にした逸話など槍・太刀が「玩具のようだった」と語られる理由、これが誇張と分かっていても否定しきれない背景があった。
美濃国(現・各務原市)の鵜沼城主であり、豊臣秀吉の調略で織田信長に降った後、柴田勝豊や豊臣秀吉、豊臣秀次らに仕えた武将として知られています。
▲鵜沼城跡と木曽川と犬山橋鉄道橋
「戦国最強の巨漢」として記録や伝承が残る大沢次郎左衛門は身長が2メートルを超えていたと伝わる、戦国時代の美濃国鵜沼城主、この鵜沼城が美濃の斎藤氏にとってかなり重要な位置に建っていたことは間違い無いでしょう。
織田軍は、この拠点をどう攻略したのか?
出自も実名も不明な人物である 大沢次郎左衛門は大沢正信の子と伝わるが生没年は不詳です。
実名についても諸説あり正秀の他、基康、正重、正継、正次、為康、正盛など複数の名が伝えられています。
そのため実像のつかみにくさが伺えます。
比較的信頼度が高い『信長公記』に大沢次郎左衛門に関する記述が存在されてます。
それによると、永禄7年(1564年)8月、織田信長は美濃国へ侵攻し宇留魔城=鵜沼城(現・各務原市)を攻略した。
次郎左衛門が同書に登場するのは、この一ヶ所だけです。
ところが、『太閤記』では、全く異なる展開が記載されています。
永禄9年(1566年)、信長に敵対していた次郎左衛門は木下秀吉の調略によって信長の軍門に降ったという。
翌年正月に秀吉と共に清洲へ向かった次郎左衛門は、信長に殺害されかけたが秀吉のとりなしによって命を救われたという劇的な逸話が記されています。(大河ドラマでは、これが採用されてます。)
鵜沼城開城
永享年間(1429-41年)和泉国からきた大沢薩摩守利治※1よって鵜沼城は築城されたようだが、鵜沼城の歴史ははっきりとしないことが多い。
※1.大沢薩摩守利治とは、宇留間城(鵜沼城)は、室町時代から安土桃山時代かけての山城。
尾張と美濃に国境、犬山城(現・愛知県犬山市)とは木曽川を挟んだ対岸の天然の岩山の上に築かれていた。
永享年間(1429〜40年)に、和泉国出身で美濃の土岐氏・斎藤氏に仕えた大沢薩摩守治利によって築かれたとされているが、築城年代・築城者はハッキリしていない。
以後、大沢氏の居城となった。
天文21年(1552年)生駒道寿に占拠されていた鵜沼城を、斎藤道三の支援を受けて大沢和泉守正信(大沢次郎左衛門正秀の父)が奪い返したした。
長良川合戦では、道三に拾って貰った恩義よりも生き抜くために息子・斎藤義龍軍に参戦した大沢次郎左衛門は、弘治2年(1565年)の「長良川の戦い」で道三と対峙した。
その戦いぶりは「東美濃の虎」と称された。
2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも描写されるなど、斎藤家の実力者として知られる人物です。
斎藤義龍は土岐頼芸(道三に追放された前国主)の落胤ともいわれており、大沢次郎左衛門ら旧来の家臣団にとっては「土岐氏の血を引く」義龍を擁立することが大義名分であったとも考えられています。
永禄6年(1563年)織田信長は、本格的な美濃侵攻のための拠点として尾張小牧山城(現・小牧市)を築城して、尾張清洲城(現・清須市)から拠点を移した。
永禄7年(1564年)織田信清※2の尾張犬山城を落とし尾張統一を果たした。
※2.織田信清とは、信長の父・信秀の娘を妻としています。すなわち信長とは弟妹です。
織田信康※3の子として誕生した。
※3.織田信康とは、信長の父・信秀と兄弟、いわゆる祖父・織田弾正忠家(勝幡織田氏)の当主・織田信定の子。
父・信康が「織田伊勢守家」当主の織田信安の後見人となっていたことからその配下となっていたが、伯父信秀死亡後は、犬山城で独自勢力として行動する。
信清が領地を押領したため険悪な状態となっていた従兄弟の信長より姉(犬山殿)を貰い受けると、弟の広良同様信長に仕える身になった。
永禄元年(1558年)7月12日、浮野の戦い・岩倉城攻略で信長を支援したが、追放された織田信賢の旧領地の分与を巡って信長と諍いを起こし、永禄5年(1562年)反旗を翻し、楽田城を奪う。
しかし、攻勢を強めた信長軍によって支城を次々に攻め落とされ、永禄7年(1564年)5月には居城の犬山城も陥落し、遂に信清は甲斐国へと逃亡、甲斐武田氏の許で犬山鉄斎と称した。
犬山の約5㎞北方の猿啄城(現・坂祝町)攻略は丹羽長秀※4の武勇が光った。
※4.丹羽長秀とは、天文4年(1535年)9月20日)丹羽長政に次男として尾張国春日井郡児玉に誕生、丹羽氏は元々斯波氏の家臣だったが、織田氏の宿老であり、s主君・織田信長に従い天下統一に貢献した。朝廷より惟住の姓を賜ったので、惟住長秀ともいう。
丹羽長秀は猿啄城に連なる西の峰に取り付き、城の水の手(給水地)を押さえるや、東西から一気に強襲した。
信長は木曽川を渡河して東美濃に侵攻するため、木下藤吉郎に対岸の伊木山・鵜沼両城の攻略を命じた。
永禄7年(1564年)8月、松倉城(現・川島町)に着陣した藤吉郎は部隊を2つに分け、川並衆の蜂須賀小六正勝、前野将右衛門長康らは伊木山城を守る伊木清兵衛忠次の調略に、藤吉郎は松倉城主・坪内利定ら坪内党とともに鵜沼城に向かった。
藤吉郎は鵜沼城の西方にある巾上(羽場)に陣を構え、鵜沼城主の大沢正秀、大沢基康と対峙した。
坪内利定※5は大沢正秀氏と旧知だったので、犬山城、伊木山城、猿啄城など周囲の城が織田方に落ちていることを伝え、開城するよう説得する。
※5.坪内利定とは、尾張国松倉城主。鉄砲術に優れていたという。戦国期の松倉城は尾張と美濃の境にあり、戦略上重要な地であった。
坪内利定は織田信長に仕え、境川(木曽川)沿いの国人を纏める役をになっていた。
国人衆には、蜂須賀正勝、前野長康、大沢次郎左衛門、松原内匠、日比野六太夫、青山新七などがいたという。
当時、これら国人衆を川並衆と称した歴史的事実は無い。
このとき城主の大沢次郎左衛門正秀は、木下藤吉郎を通して信長に助命嘆願するのだが、この話がいくつか伝わっている。
『太閤記』によると、大沢正秀を信長の陣所に連れて行った藤吉郎に、信長がこの「男は剛の者として有名だが、いつまた寝返るかわからぬから殺せ」と命令した。
藤吉郎はここで殺してしまったら今後の調略に影響するため反対したが、信長はどうしても殺せという。
そこで藤吉郎は大沢正秀に向かって自分を人質にとって逃げるようにいい、大沢正秀が丸腰の藤吉郎に脇差を突きつけて脱走したとある。
これと似た話が『名将言行録』にある。
もう一つは、藤吉郎は降参した大沢次郎左衛門正秀を犬山城の陣所で信長に謁見させたところ、信長はひそかに藤吉郎を呼び、「この大沢は武勇の誉れ高い男だが、心の変わりやすい男なので味方にするのはどうかと思うので、今夜腹を切らせてしまえ」という。
これを聞いた藤吉郎は、降参した者に腹を切らせれば今後降伏する者がいなくなると反対するが、信長は聞こうとしない。
藤吉郎は仕方がなく戻って思案し、密かに大沢次郎左衛門正秀を招き、「これまで世話をしてきたが、これ以上清洲にいれば問題が起きるので早々にどこへでも逃げるように」、「途中で討たれることも考えられるから、この藤吉郎を人質にとって逃げなさい」と丸腰になって説得した。
大沢正秀はこの恩義に礼をいい、清洲から逃げ出したという。
ところが『武功夜話』になると、さらに具体的になってきて、しかも2種類も紹介されている。
犬山城も落ち、猿啄城にも織田の軍勢が押しかけている今となっては八方塞がりになった大沢次郎左衛門正秀が、長男・基康を木下藤吉郎の陣所に遣わし、降伏開城の旨を申し出た。
大沢基康が藤吉郎に父・大沢正秀の助命を嘆願すると、秀吉は一も二もなく承知し、坪内利定を犬山城にいる信長のもとに遣わしたが、信長の逆鱗に触れてしまった。
「大沢は犬山十郎左をそそのかしたこと二度三度、後世の見せしめのため、ただちに首を打ち落としてしまえ」との命に坪内利定は返す言葉もなかった、というのがひとつ。
やはり坪内利定が信長に嘆願したところ、信長は大沢次郎左衛門正秀を嫌っているらしく容赦しなかった。
坪内利定は大沢次郎左衛門正秀の長男・基康と昵懇なので申し諭せば済むが、仲介の労をとった藤吉郎の安否が気に掛かる。
坪内利定は信長に追い返されるが、思いとどまり生駒八右衛門家長に相談した。
その結果、「いま大沢白左衛門正秀の首を取っては逆効果だ」と重臣たちが信長を説得することになり、正秀の助命嘆願の一件は藤吉郎に一任されたというのがひとつである。
秀吉の人質芝居というの怪しく、秀吉が大沢次郎左衛門正秀の助命嘆願に尽力したことが脚色されて後世に伝わったものと考えられる。
これにより鵜沼城は無血開城し、大沢父子は木下藤吉郎の家臣となる。
この鵜沼城は信長の東美濃攻略の足がかりとなっており、永禄8年(1565年)犬山から15km以上北東に位置する東美濃の金山城(現・可児市)を陥落させることに成功した。
犬山城と金山城を手に入れた信長は、美濃攻略を加速させている。
20年後の小牧・長久手の戦いの緒戦において、犬山城主となった池田恒興が奪取したことでも知られています。