「小牧・長久手の戦い」と聞くと、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と徳川家康が直接対決した大戦として有名ですが、「そもそもなぜこの二人が戦うことになったのか、「詳しいきっかけはよく分からない」という方も多いのではないでしょうか。
実は、この戦いの直接的なきっかけを作ったのは、織田信長の次男である織田信雄です。
秀吉の急速な台頭に強い危機感を抱いた織田信雄が、実力者である徳川家康と手を組んで挙兵したことから事態は一気に風雲急を告げることとなりました。
この記事では、織田信雄が抱いた焦りや徳川家康が味方した思惑、さらには羽柴軍の大将として初陣の大役を担うことになった三好信吉(のちの豊臣秀次)の立場まで、戦いが始まるまでの背景を分かりやすく解説します。
小牧・長久手の戦いのきっかけとは?信雄と秀吉の対立
本能寺の変以降、織田家の主導権を握り天下人への道をひた走る羽柴秀吉。
これに対し、強烈な危機感と不満を募らせていたのが織田信長の次男・織田信雄でした。
ふたりの決定的な対立が、やがて天下を揺るがす「小牧・長久手の戦い」へと発展していくことになります。
織田信雄が抱いた秀吉への危機感と不満
織田信雄は、かつて秀吉とともに柴田勝家を打ち破った「賤ヶ岳の戦い」では同盟関係にありました。
しかし、勝利を収めた後の秀吉の台頭※1▲は、信雄の想像を遥かに超えるものでした。
※1.台頭(たいとう)とは、今まで目立たなかった人や勢力が、頭をもたげて勢力を急激に伸ばし、周囲から注目されるようになることです。
信雄は織田家の家督を継ぐ正統な立場である自負がありましたが、秀吉は織田家の領地を勝手に配分し、信雄をまるで自身の家臣(下臣)のように扱い始めたのです。
さらに秀吉は、織田信雄の居城であった安土城から信雄の退去を要求するなど、圧迫を強めていきます。
「このままでは織田家が秀吉に乗っ取られ、自分も従属させられてしまう——」。
秀吉の独走に対する激しい苛立ちと不満、そして自身の立場が危ういという強い危機感が、信雄を反秀吉の立場へと追いやることになりました。
決定打となった「家老3人の殺害事件」
両者の緊張が頂点に達する中、事態を決定づける大事件が起こります。
それが天正12年(1584年)3月に発生した「信雄による重臣3人の殺害事件」です。
信雄の家臣であった津川義冬、岡田重孝、浅井長時の3名は、裏で秀吉と密通しており、信雄に秀吉へ恭順するよう陰で働きかけているという疑いがありました。
秀吉による「懐柔工作(切り崩し)」を感じ取った信雄は、これ以上の切り崩しを防ぐため、伊勢長島城にこの3名を呼び出し、懐剣をもって即座に処刑・謀殺してしまったのです。
この重臣殺害は、秀吉に対する明確な宣戦布告を意味していました。
秀吉の手先を切り捨て、完全に決裂の道を歩むことを選んだ信雄。
これにより秀吉との激突は不可避となり、信雄は徳川家康へ助けを求めて挙兵へと突き進むことになったのです。
2人の対立の背景に織田信雄が抱いた秀吉への危機感と不満の織田信雄は、かつて秀吉とともに柴田勝家を打ち破った「賤ヶ岳の戦い」では同盟関係にありました。
しかし、勝利を収めた後の秀吉の台頭は、信雄の想像を遥かに超えるものでした。
信雄は織田家の家督を継ぐ正統な立場である自負がありましたが、秀吉は織田家の領地を勝手に配分し、信雄をまるで自身の家臣(下臣)のように扱い始めたのです。
さらに秀吉は、信雄の居城であった安土城から信雄の退去を要求するなど、圧迫を強めていきます。
「
このままでは織田家が秀吉に乗っ取られ、自分も従属させられてしまう——」
秀吉の独走に対する激しい苛立ちと不満、そして自身の立場が危ういという強い危機感が、信雄を反秀吉の立場へと追いやることになりました。
決定打となった「家老3人の殺害事件」
両者の緊張が頂点に達する中、事態を決定づける大事件が起こります。それが1584年3月に発生した「信雄による重臣3人の殺害事件」です。
信雄の家臣であった津川義冬、岡田重孝、浅井長時の3名は、裏で秀吉と密通しており、信雄に秀吉へ恭順するよう陰で働きかけているという疑いがありました。
秀吉による「懐柔工作(切り崩し)」を感じ取った信雄は、これ以上の切り崩しを防ぐため、伊勢長島城にこの3名を呼び出し、懐剣をもって即座に処刑・謀殺してしまったのです。
この重臣殺害は、秀吉に対する明確な宣戦布告を意味していました。
秀吉の手先を切り捨て、完全に決裂の道を歩むことを選んだ信雄。
これにより秀吉との激突は不可避となり、織田信雄が徳川家康に挙兵(軍を起こすこと)を要請したとは、天正12年(1584年)に織田信長の次男・信雄が、羽柴(豊臣)秀吉に対抗するため家康へ支援を求め、小牧・長久手の戦いのきっかけとなった歴史的出来事です。
なぜ徳川家康は信雄の後ろ盾となって挙兵したのか?
秀吉との対立を深めた織田信雄から助けを求められた徳川家康は、これを快諾して信雄の後ろ盾となり、反秀吉の兵を挙げました。
一見するとリスクの大きい決断に見えますが、そこには家康ならではの緻密な政治的計算と大義名分が存在していたのです。
「織田家の擁護」という家康が得た大義名分
戦国時代において、戦を起こすためには世間や他大名納得させる「正当な理由(大義名分)」が不可欠でした。家康にとって、織田信長の次男である信雄からの要請は、格好の大義名分となります。
かつて盟友であった織田信長への恩義を示し、「織田家の正統な後継者である信雄様を守り、織田家を脅かす秀吉を討つ」という名目を掲げることで、家康は単なる私闘ではなく「正義の戦い」として挙兵することが可能になりました。
この大義名分があったからこそ、織田旧臣や周囲の勢力に対して自身の正当性をアピールし、陣営の結束を高めることができたのです。
秀吉の台頭を食い止めたい家康の計算
もちろん、大義名分だけでなく冷徹な損得勘定もありました。当時の秀吉は、柴田勝家を破って勢力を一気に拡大しており、このまま放置すれば天下の権力を完全に掌握することは明白でした。
もし秀吉が天下人となれば、独立勢力である徳川家も遠からず圧迫され、従属を迫られることになります。
家康は「秀吉の独走を阻むなら、信雄が対立している今この瞬間しかない」と判断しました。
信雄と手を組み、織田家の威光を利用しながら秀吉の足元をすくうことで、勢力均衡を図りつつ自身の政治的発言権を極限まで高めようとしたのです。
羽柴軍の大将に三好信吉(豊臣秀次)が抜擢された理由
信雄・家康の連合軍に対し、自ら大軍を率いて出陣した羽柴秀吉。
両軍が小牧山周辺で対峙し戦況が大きく停滞する中、秀吉陣営の大将(総大将格)として抜擢されたのが、秀吉の甥にあたる三好信吉(のちの豊臣秀次)でした。
まだ若く実績も少なかった信吉(のちの豊臣秀次)が、なぜこの大一番で大将に据えられたのでしょうか。
小牧山城が戦いの主要な拠点
小牧山城が戦いの主要な拠点となった
「尾張防衛の要所であったこと」と「秀吉軍の侵攻を食い止めるための家康の野戦築城戦略」が重なったため、 徳川家康が小牧山城に本陣を置き、そこで対峙することになった主な理由は以下の通りです。
▲小牧山j城
犬山城の落城に対応するため、羽柴軍(池田恒興ら)の奇襲によって織田信雄方の重要拠点である「犬山城」が突如落城しました。
これにより羽柴軍の尾張侵攻ルートが開いてしまったため、家康・信雄連合軍は急ぎ防衛線を構築する必要がありました。
地理的要衝であり、かつて信長が築いた名城だったため、小牧山は濃尾平野を見渡せる孤立した小高い山であり、交通の要衝に位置していました。
かつて織田信長が美濃攻めの拠点として築城した経緯があり、陣を構えるのに最適な地形を備えていました。
大規模な野戦築城(陣城化)で羽柴の大軍を迎え撃つ
家康は小牧山に入城すると、榊原康政らに命じて周囲に堀や大土塁、砦を突貫工事で張り巡らせ、小牧山全体を極めて堅固な「大型要塞」へと改修しました。
数で勝る羽柴軍の正面突破を完璧に防ぎ、持久戦へ持ち込む狙いがありました。
秀吉が向かいの「楽田城」に陣を敷いた
小牧山城が戦いの主要な拠点となった小牧山城を固めた家康に対し、出陣してきた羽柴秀吉は北側の「楽田(がくだ)城」に本陣を置き、両軍が大規模な土塁や砦を築き合ってがっちりと睨み合う形が完成しました。
このように、羽柴軍の電撃的な尾張侵攻に対して家康が先回りして小牧山を完璧な要塞に変えたことで、小牧山周辺がこの大戦の最前線(主戦場)となりました。
なお、小牧山城があまりにも堅固に守られていたため、秀吉も正面攻撃を諦めざるを得なくなり、膠着状態を破るためにあの「三河中入作戦」が立案されることになります。
秀吉の姉・ともの子である信吉を起用した背景
三好信吉は、秀吉の姉・ともの長男であり、秀吉にとっては実の甥にあたる人物です。
当時は三好康長の養子となっていたため「三好信吉」と名乗っていました。
秀吉が信吉を抜擢した最大の理由は、「羽柴家の血縁者による実績作りと後継者としての権威付け」にあります。
この時期の秀吉にはまだ実子がおらず、将来的に羽柴家を背負っていく身内の人材育成が急務でした。
織田家や徳川家という大敵と相対する大戦で信吉に手柄を立てさせ、一軍を率いる将としての実績を与えることで、羽柴一族の中核としての地位を固めさせようとしたのです。
奇襲・三河中入作戦と信吉を待ち受ける試練
小牧山城に籠もる家康軍との戦いが膠着(こうちゃく)状態に陥ると、羽柴軍は突破口を開くために大胆な作戦を打ち出します。
それが、手薄になった家康の本拠地・三河国を直接突く「三河中入(なかいり)作戦」でした。<br/この奇襲作戦の総大将として抜擢されたのが信吉でした。>
池田恒興や森長可といった百戦錬磨のベテラン武将たちが脇を固め、信吉率いる部隊は家康の背後を目指して密かに行軍を開始します。
しかし、初陣同然の若い信吉を待ち受けていたのは、極めて苛烈な試練でした。
この裏をかく動きは百戦錬磨の徳川家康に完全に見抜かれており、白山林(はくさんばやし)で徳川軍の凄まじい奇襲を受けることになります。
重臣たちが相次いで討ち死にする壊滅的な大敗となり、信吉自身も愛馬を失いながら命からがら逃げ延びるという、非常に苦い挫折を味わうこととなったのです。
まとめ
小牧・長久手の戦いは思惑が交錯した決戦となりました。
「小牧・長久手の戦い」は、単なる武力による衝突ではなく、織田家の覇権と天下の主導権をめぐる複雑な思惑が交錯して勃発した決戦でした。
◇織田信雄の危機感:秀吉による圧迫と実権掌握に抗い、重臣殺害を経て決裂へ。
◇徳川家康の決断:織田家擁護という大義名分を得て、秀吉の台頭を食い止めるために挙兵した。
◇三好信吉(豊臣秀次)の試練:羽柴家の後継者育成として大将に抜擢されるも、三河中入作戦で手痛い敗北を経験
秀吉の台頭を阻みたい信雄・家康連合軍と、武威を示して天下人への道を固めたい秀吉陣営。
それぞれの政治的計算がぶつかり合ったことが、この大戦の最大のきっかけといえます。
ドラマで描かれる武将たちの駆け引きや、初陣で苦難に立ち向かう信吉の姿に注目すると、歴史の裏にある人間ドラマがより一層面白くなります。