美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

丹波の赤鬼・赤井直正

赤井直正(丹波の赤鬼)の子供たち!黒井城落城後の足跡と悲劇の運命(33文字

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「丹波の赤鬼」と恐れられ、織田信長や家臣・明智光秀をも苦しめた猛将・赤井直正

黒井城の戦いで見せた勇猛さは後世まで語り継がれていますが、直正が病に倒れ、黒井城が落城した後に遺された「子供たち」がどのような運命を辿ったのかご存知でしょうか。

 

 

最新の史料調査により、黒井城を脱出した赤井直正の子供である3兄弟の足跡が明らかになりました。

藤堂高虎に仕えるも謀反の疑いで切腹に追い込まれた長男、そして過酷な戦国を生き延びて血脈を繋いだ弟たち――。

 

本記事では、知将・赤井直正の凄みとともに、落城後に繰り広げられた遺児たちの知られざるドラマを分かりやすく解説します。

 

 

 

赤井直正とはどんな武将?「猛将」かつ「知将」ばれた理由

戦国時代、兵庫県丹波市周辺を治めていた赤井直正は、織田信長明智光秀といった大名たちを大苦戦させたことで知られる武将です。

敵から恐れられるほどの圧倒的な強さ(猛将)と、相手の裏をかく巧みな作戦(知将)の両方を持ち合わせていました。

 

 

「丹波の赤鬼」の異名と赤井氏・家紋のルーツ

直正の代名詞といえば、「丹波の赤鬼」という強烈な異名です。

戦場で見せた赤鬼のような凄まじい武勇からそう呼ばれ、あの織田信長でさえも直正の強さを認めていたと伝えられています。

 

 

赤井氏は、歴史ある武士の家柄(信濃小笠原氏の流れ)で、鎌倉時代に丹波の地へ移り住んできた一族です。

直正は一時期、叔父の家を継いで「荻野」と名乗っていましたが、後に赤井家へ戻り、一族の中心人物として丹波に強い勢力を築きました。

 

 

また、赤井家の家紋には「三つ柏」が使われています。

の葉は神様のお供え物を載せる特別な葉とされ、縁起が良いことから多くの武士に好まれました。

直正はこの誇りある家紋を掲げ、丹波の武士たちを束ねていたのです。

 

 

 

明智光秀を撃退!「黒井城の戦い」で見せた圧倒的策略

直正の名を全国に知らしめたのが、明智光秀率いる織田軍を返り討ちにした「黒井城の戦い」です。

信長の命を受けた光秀は大軍を率いて直正の居城・黒井城を力ずくで取り囲みました。

▲赤井直正が明智軍応戦しおてるイメージイラストです

 

 

絶体絶命に見えた直正ですが、ここで見事な作戦を仕掛けます。

 

 

味方のふりをさせていた近隣の武将(波多野氏)と裏で密かに連絡を取り合い、タイミングを合わせて光秀の背後を襲わせたのです。

 

 

前からは直正、後ろからは波多野軍という挟み撃ちに遭った明智軍は大混乱に陥り、光秀は命からがら逃げ延びるしかありませんでした。

 

武力だけに頼らず、敵の心理を突いたこの挟み撃ち作戦こそが、直正が「知将」と称賛される大きな理由です。

 

 

 

 

黒井城の落城と脱出――「赤鬼」亡き後の赤井一族

明智光秀の猛攻を一度は跳ね返し、丹波の地を死守していた赤井直正でしたが、その栄華は長くは続きませんでした。

 

赤鬼と恐れられた猛将が去った後、残された黒井城と一族には過酷な運命が待ち受けていたのです。

 

 

 

直正の病死と頼みを失った黒井城の最後

光秀を撃退し、丹波の独立を保っていた直正でしたが、その3年後である天正6年(1578年)、突如として首の腫瘍(現代の悪性腫瘍や感染症などと推測されています)により病死してしまいます。

50歳前後でのあまりにも早い死でした。

 

 

圧倒的なカリスマ性と戦術で丹波の武士たちを束ねていた大黒柱を失ったことで、赤井一族の結束は大きく揺らぎます。

直正の死を好機と見た明智光秀は、再び大軍を率いて丹波へ侵攻を開始。

 

 

直正亡き後の黒井城は、叔父の赤井幸家などが必死に防衛の指揮を執りましたが、光秀の周到な包囲網と兵糧攻めの前に徐々に追い詰められていきました。

 

 

そして天正7年(1579年)8月、ついに防えきれなくなった黒井城は明智軍の総攻撃を受けて落城。

戦国時代屈指の山城は炎に包まれ、丹波は完全に織田・明智の手に落ちることとなりました。

 

 

 

明智軍の猛攻を前に幼き3兄弟が選んだ落ち延びの道

黒井城が落城するその時、城内には直正が遺した幼い3人の息子たち(3兄弟)がいました。

▲城が落城して3兄弟脱出してイメージイラストです

 

明智軍の猛威が迫るなか、彼らに残された道は「降伏して命を乞うか」「脱出して血脈を繋ぐか」の二つに一つでした。

 

 

家臣たちは「丹波の赤鬼の血をここで絶やすわけにはいかない」と決意します。

燃え盛る城や敵兵の追手をかいくぐり、幼い3兄弟を密かに城から脱出させる過酷な作戦が決行されました。

 

 

長男赤井直義(直之)をはじめとする兄弟たちは、住み慣れた故郷を追われ、見知らぬ土地へと落ち延びていきました。

 

明智光秀に国を奪われ、敗将の子供として逃亡生活を送ることになった彼らは、ここから生き残りをかけた壮絶なサバイバル劇へと身を投じていくことになります。

 

 

 

【新事実】黒井城落城後に赤井直正の子供たちが歩んだ運命

黒井城を脱出した赤井直正の3人の息子たちは、本拠地も庇護者も失った状態からそれぞれの乱世を生き抜くこととなりました。

 

近年の史料調査により、これまで謎に包まれていた彼らの落城後の足跡や、江戸時代へと続く運命の全貌が明らかになってきました。

 

 

 

長男・赤井直義の悲劇|藤堂高虎への出仕と「謀反の疑い」による切腹

長男である赤井直義(なおよし / 直之とも)は、成長後に各地の勢力を転々とした末、築城の名手として知られる大名・藤堂高虎の家臣として出仕しました。

「赤鬼」と恐れられた父の血を引く直義は、藤堂家の中でも武功を立てて頭角を現していきます。

 

 

しかし、その優秀さや一族としての存在感が裏目に出ることとなります。

藤堂家内部の権力闘争や思惑のなかで、直義は突如として「謀反の疑い」をかけられてしまったのです。

 

無実の罪であったとも伝えられますが、最終的に直義は申し開きも認められず、切腹へと追い込まれる悲劇の最期を遂げました。

▲長男・赤井直義は申し開きも出来ず切腹のイメージイラストです

 

父の猛将ぶりを受け継ぎながらも、戦国の世が終わろうとする時代の波に呑み込まれた最期でした。

 

 

次男・三男の生存戦略|生き残りをかけて江戸時代へ繋いだ血脈

長男が悲劇的な運命を辿った一方で、次男と三男は徹底した「生存戦略」によって家名を残すことに注力しました。

彼らはそれぞれ別の家に仕官したり、あるいは各地の力ある大名のもとへ身を寄せたりすることでリスクを分散させました。

 

 

かつて織田信長明智光秀と渡り合った「赤井」の名をあえて前面に出しすぎず、時代の変化に合わせて柔軟に生き方を変化させていったのです。

その結果、彼らは激動の戦国時代を無事に生き延び、江戸時代においても旗本や藩士として家系を維持することに成功しました。

 

 

丹波の地で絶滅したかに思われた「丹波の赤鬼」の血脈は、子供たちの粘り強い生存戦略によって、確かに後世へと繋がれていったのです。

 

 

 

まとめ


黒井城落城の裏に秘められた赤井直正と息子の歴史

丹波の赤鬼」として知られる赤井直正は、勇猛果敢な武勇と巧妙な挟み撃ちの作戦で明智光秀すら退けた名将でした。

しかし、直正の病死後に訪れた黒井城の落城は、残された家族にとって波乱に満ちた新たな歴史の幕開けでもありました。

幼くして城を脱出した3人の息子たちは、戦国の荒波のなかでそれぞれ異なる運命をたどります。

 

長男・直義のように藤堂家に仕えるも謀反の疑いで切腹へと追い込まれた悲劇があった一方で、次男・三男は柔軟に生き方を変えながら江戸時代へとその血脈を繋ぎ止めました。

黒井城の落城は一族の敗北であり終焉に見えますが、その裏には命がけで子孫を逃がした家臣たちの忠義と、時代の猛威に抗いながら生き抜いた「赤鬼の子供たち」の壮絶なサバイバルドラマが隠されていたのです。

 

敗者の側から歴史を紐解くことで、戦国時代という激動のドラマがより一層深い味わいをもって見えてきます。

 

 

-丹波の赤鬼・赤井直正

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。