松平元康は、一人っ子と思ってた方が多いようですが、正室・於大の方との間はその通りですが、実は異父兄弟妹6人と異母兄弟妹6人います。
広忠の継室・真喜姫との間に市場姫がいますですが、家康の生まれる前に忠政・忠最の兄弟がいます。
父・松平広忠は大永6年(1526年)に生まれ天文18年(1549年)に亡くなった戦国武将です。
戦国時代に西三河の岡崎城(現・岡崎市)を拠点に勢力を伸ばし、東の今川氏・西の織田氏からの侵攻を受けるなかで領土を守るため奮闘していた松平宗家8代です。
領土を守ため今川氏に協力を求め竹千代(家康)を人質に出し、正室・於大の方は、14歳のとき岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、翌年竹千代(家康)を産んだが満1歳(数え3歳)のとき離縁された。
その後、母は阿久比の地(現・愛知県知多郡)で暮らしていたが、天文16年(1547年)には、兄・水野信元の意向で知多郡安古屋城(坂部城、現・阿久比町)の城主・久松俊勝と再婚し家康の異母兄弟妹6人を産んでいる。
父・松平広忠の異母兄弟妹
松平忠政
母は大給松平氏の松平乗正の娘(名を「お久の方」)といった。
於大の方が輿入れして岡崎城に入ると、母・お久の方は忠政を連れて三河国桑谷村移り住んだ。
樵暗恵最
松平広忠の庶子で僧侶、家康の異母兄弟で同年同月同日生まれとされている。一説には於大の方の双子だといういわれがある。
母はお久の方、永禄5年(1562年)に今川氏から独立して岡崎城に帰った元康(家康)は、この親子を訪ねて面会したという。
この母子は、故・松平広忠の位牌に参り、位牌に「道幹大弾正門尊霊」と自筆を認めた。
このとき、於大の方は出家し尼となり、「妙淋」と称し、元夫・広忠の菩提のための寺の建立を家康に請い、松平広忠の名前を寺号とした瑞雲山広忠寺を桑谷村建立した。
家康の異母兄弟の樵暗恵最がそこの住職になったと伝わっている。
これにはちょと不自然があって、於大の方が天文10年(1541年)には40歳前後とする記録があるとすると、当時15歳の広忠に側室がいるとは不自然である気がしてならない。
よって忠政・恵最兄弟は広忠の子ではないという説もあるが本当のことはわからないです。
継室の子・市場姫
元康(家康)の父・広忠は当時基盤が弱く今川氏に頼っていたので、織田方の水野信元の縁者の於大の方を妻としておくわけにはいかず離縁して、継室・真喜姫(田原城主・戸田康光の娘)を貰って、二人の間に生まれた子に市場姫がいた。
父・広忠亡き後、家督を継ぎ継承すると、市場姫を市場姫を八ツ面城主・荒川義広に嫁がせた。
荒川義広との間に弘綱、家儀、木崎殿(松平親能室)をもうけるが、永禄6年(1563年)からの三河一向一揆において、義広は一揆方に荷担し家康に刃向ったので、怒った家康によって義広は八ツ面城を追われたが、市場姫は家康の妹であることからお咎めはなかった。
後に筒井順慶の養嗣子・筒井定次に嫁いだといわれている(異説あり)。
母・於大の方の異母兄弟妹
▲於大の方、家康の母であり下記の母でもある
於大の方の子・久松康元
久松俊勝と前妻との間に長男あり。
久松俊勝と於大の方との間にできた次男、永禄3年(1560年)3月、異父兄・松平元康と会見して康元と改名して、それに伴い松平姓を下賜されたという(『寛政譜』※1他。
※1.寛政譜とは、『寛政重修諸家譜』と略称される、寛政年間(1789年〜1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集で1,530巻。
永禄5年(1562年)上ノ郷城主になる。
天正18年(1590年)落城後の小田原城の守備にあたり、同年下総国関宿藩2万石の所領を与えられ、翌19年(1591年)には4万石に加増、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康の代理で江戸城の留守居役を勤めている。
康元の娘の多くは、異父兄・徳川家康の養女となり、有力大名家へ政略結婚で嫁ぎ、徳川家の権力基盤の安定の基となった。
慶長8年(1603年)に死去、享年52歳家督は嫡男の忠良が継いだ。
男子は従兄弟にあたる徳川御三家や駿河大納言忠長に配属された。
康元の家は子や孫の代で所領を大きく削減された。
於大の方の子・久松康俊
久松俊勝と於大の方の間に生まれた三男、最初は久松勝俊とされる。
永禄3年(1560年)3月、異父兄・松平元康と会見して康元と改名して、それに伴い松平姓を下賜されたという(『寛政譜』※1他。
名を松平康俊と改めている。
永禄6年(1563年)、元康(家康)の命により今川氏真の人質として駿河国に赴くが、永禄11年(1568年)に武田信玄が駿河に侵攻した際、今川氏に仕える三浦与一郎が武田方に寝返り、このとき松平康俊を伴ったため、信玄大いに喜び康俊を甲斐国に送って警護の下に置いた。
元亀元年(1570年)11月、家康の手配によって甲斐国から下山路を経由して三河国に脱出に成功したが、山間部が大雪であったため両足の指を凍傷で失った、家康は幼生時からの忠節を賞し「一文字の刀」と「当麻の脇差」を与え、天正11年(1583年)に駿河国の久能城を与えるも天正14年(1586年)4月死去する。
正室・との間に一女だあるが男はいなかった、康俊の死後、母・於大の方の願いによって、水野忠分(於大の方の弟)の子・松平勝政が婿養子として迎えられて跡を継いだ。
於大の方の子・久松定勝
久松俊勝と於大の方との間にできた四男、永禄3年(1560年)3月、異父兄・松平元康と会見して定勝と改名して、それに伴い松平姓を下賜されたという(『寛政譜』※1他。
松平定勝として、定勝系久松松平家宗家・初代当主、官位は従位四位下・左近衛権少将。
異父兄・元康(家康)に従い長篠の戦い、天目山の戦いに従軍し、また、天正12年(1584年)、信長の跡目争いに巻き込まれ秀吉と戦った、小牧・長久手の戦いで二番乗りを挙げる。
戦後、羽柴秀吉は家康に対して、松平定勝を羽柴家の養子の望むも、生母・於大の方の要望により松平家に残った。
結局、家康は我が子・次男の於義丸(後の桔梗秀康)が秀吉の養子になった。
※上記に桔梗秀康をクリックして貰うと家康の子供達の記事があります。興味ある方は読んでください。
定勝の室の口利きをした、長篠の戦い後、家康は長女の婿になった奥平信昌から徳川家に君従して武田家の人質となっていた一族を犠牲にしていたため、信昌の弟の他、奥平一族の娘が含まれていたので、家康は、その妹を異父弟・定勝の室に迎えた、それが二之丸殿である。
慶長7年(1602年)3月山城国伏見城で家康の十男(後の徳川頼宣)が誕生したため、この男子に定勝の幼名である長福丸の名を譲るよう命じた。
これにより、長福丸の名は紀州徳川家の嫡男の名となる。
※上記の家康の十男をクリックすると家康のどの側室が産んだ子が載っています。興味ある方は読んでください(上と同じです)。
同年8月、母・於大の方が伏見城で亡くなる。
同月末、伝通院の霊柩が伏見城を出立、その護衛に当たる。
慶長10年(1605年)5月、娘の阿姫(くまひめ)が家康の養女となり、山内忠義と婚約する。
家康より化粧料として豊後国山田郷に1000石を阿姫に賜う。
同12年(1607年)、伏見城代に就任する。
元和元年(1615年)、従四位下に昇る。
元和3年(1617年)、6万石を加増され、伊勢桑名藩11万石の城主となる。
一説には翌年に家康が駿府城において薨去した際に、死の床で家康から2代将軍・秀忠の相談役となるように遺言されたとも言われ、後に3代将軍・家光が大老職を設置した際も生前の定勝の存在を意識していたとも言われている。
家康の死後、甥である秀忠から篤く敬われ、元和9年(1623年)7月、秀忠より職を進められるも固辞する。
その2カ月後、左近衛権少将に任ぜられる。
これにより桑名少将殿と奉称される。
寛永元年(1624年)3月14日、居城・伊勢桑名城にて死去した。享年65歳。
家康の妹・多却姫
天文22年、尾張阿久居城にて、久松俊勝と於大の娘として生まれる。
初め、松平忠正に嫁ぎ、家広を産んだ。
しかし、天正5年(1577年)に夫が死去したため、その弟・忠吉に再嫁した。
松平忠吉との間に二子(松平信吉・松平忠頼)を儲けたが、天正10年(1582年)に夫が死去し、多劫姫は再び寡婦となった。
天正12年(1584年)、信濃国高遠城主、保科正直に再々嫁し、保科正貞、 北条氏重、 大涼院 (黒田長政 継室)、清元院(安部信盛室)、貞松院 (小出吉英室)、高運院(加藤明成室)の二男四女を儲けた。
曾孫には、大岡忠相がいる。
家康の妹・松姫
徳川家康の異父妹で生母は於大の方、松平康長に嫁ぎ松平永兼を生む。
家康の妹・於きんの方
永禄12年(1569年)に久松俊勝と家康の生母、水野氏於大の方の間に生まれた家康の異父妹。
竹谷松平家6代目家清の妻で、天正9年(1581年)12月、13歳のときに結婚した。
天桂院とは亡くなったときの法名で、生前は於きんの方と呼ばれていた。
また、「高瀬君」「留(とめ)」ともよばれていたようだ。
輿入れの際は、家康の異父兄妹である於きんの方と竹谷松平家では家格が違い、竹谷松平家側は躊躇したなどの記載がある。
天正10年(1582年)~天正18年(1590年)までは竹谷城に住んでいたようだが、その間の於きんの方の消息を伝える資料は全く見当たらない。
天正18年(1590年)、竹谷松平家が家康より与えられた武蔵八幡山に引越す。
同年天正18年(1590年)10月17日にお産のため亡くなる。享年22歳。