家康は「桶狭間の戦い」は、人質生活から解放されるキッカケとなったが、苦難の道が待ち構えていた。
大高城を離れて大樹寺、岡崎城に戻り、そして今川氏と決別した。
永禄11年(1566年)三河から東進して、今川領の制圧を開始した徳川家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の備えた。
遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目、天下を取るためには、先ず武田信玄を叩かないとと判断した。
家康は、元亀元年(1570年)に、岡崎城を嫡男・信康に譲り、また正室・筑山殿を残したま三方ヶ原台地の東南端にて浜松城を改築城し、駿遠経営の拠点にした。
浜松城に移る
浜松城の前身は、15世紀頃に築城された曳馬城(ひくまじょう)、築城時の城主は誰とは不明ですが、一説には今川貞相?かも。
16世紀前半には今川氏を支配下の飯尾氏が城主を務めていたためです。
徳川家康が、元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、城域の拡張や改修を行い、城下町の形成も進めた。
浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。
三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最も高い所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と。ほぼ一直線に並んでいる。
「梯郭式」の築城法を用いている。
「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段城になっている様式が自然の防衛線になるような城になっています。
徳川家康は29歳から45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。
姉川の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いもここから出陣し、また、三方ヶ原の戦いもここから出陣して、苦労してます。
家康の出生は、天正11年(1543年)、浜松城に入ったのが約27歳の若さで戦々恐々を体験して46歳頃から駿府城に移り関ヶ原の戦いに出陣して57際で天下を収めたと思います。
だから浜松城は出世城と呼ばれるんじゃないでしょうか。
城主になった者が全員出世したかどうかはわかりませんが。
出世城に移った藩主たち
松平忠頼
天正10年(1582年)松平忠吉と多却姫(家康の母・於大の方が久松俊勝との間に生まれた異父妹)の間に次男として生まれた。
多却姫は、元々松平忠吉の兄である松平忠正に嫁いだ女性で、忠頼にとっては異父兄(従兄でもある)となる家広がいる。
※上記の多却姫をクリックしてもらうと、家康の異父母兄弟妹の記事があります。興味ある方は読んでください。
忠正の死去時、家広が幼少であったために忠吉が家督を継いだ経緯があるが、忠頼が生まれた、天正10年(1582年)に忠吉も没し、桜井松平家の家督は家広が継ぐことになった。
徳川家康が関東に入ると家広は武蔵松山1万石の大名になってる。
家広は慶長6年(1601年)6月に死去したと記録されている、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで忠頼が活躍してた。
しかし、家広から忠頼に家督は譲られておらず、家広の遺領が忠頼に与えることで家の継承が図られたものであろうと記されているので忠頼が継いだと思える。
事情から、関ヶ原の合戦前後の家督や知行高に関する記事には錯綜が見られるが、松平忠頼は、桜井松平家第7代当主になって、関ヶ原の合戦後に遠江国浜松城主となったが、親族の宴席に招かれた際争論に巻き込まれて横死※1したため、5万石の城地は没収された。
※1.横死(おうし)とは、殺害されたり、不慮の災難にあったりして死ぬこと。
高力忠房
天正12年(1584年)に遠江国浜松(現・浜松市)にて生誕してる。
父は家康に支え、三方ヶ原の戦い・長篠の戦いなどに参戦して手柄を立てた高力正長・母は本多助太夫忠俊の娘。
慶長4年(1614年)に父がなくなると、忠房は16歳で跡目を継いで武蔵国岩槻(現・埼玉県)「の城主となりった。
それ以後、2代将軍・秀忠の一字を賜って忠長と称して秀忠に仕えた。
慶長19年(1614年)から翌年にかけての大阪の陣では大和国(現・奈良県)の押さえとして働き、元和3年(1617年)年に奏者番となっており、元和5年(1619年)に浜松城へ転封され3万1千石を領有した。
また、幕府からも信頼されているため、島原の乱後の戦後処理では、外様大名の多かった九州の取りまとめ屋を任されていた。
浜松在城も約20年間に及び、城下町の町割りや、宿場町としての機能・財政の整備を行うなど、治政にたけていたため、秀忠や家光の行った五社神社・諏訪神社の造営にも力を尽くしている。
松平乗寿
大給松平家宗家6代の父・松平家乗の長男として誕生、慶長19年(1614年)に父の死によって家督を継ぐ美濃国岩村藩主(大給松平家宗家第7代)となる。
※上記の松平家乗をクリックして貰うと、家康から一字をもらった若きプリンスの記事がありあます。興味ある方は読んでくだい。
同年冬からの大阪の陣に出陣して戦功を挙げ、寛永9年(1632年)岩村城の鎮護と領民の安泰繁栄を祈願して石室千体仏を建立した。
寛永15年(1638年)美濃岩村藩2万石から遠江浜松藩3万6000石へ加増移封され、寛永19年(1642年)には、徳川家綱付きの老中に任じられ、正保元年(1644年)2月28日には、上野館林6万石に加増転封となってる。
家綱が第4代将軍になると、正式に老中に一人として政務を取り仕切った。
寛永19年(1642年)には家綱付きの老中に任じられた。
※上記の石室千体仏をクリックして貰うと記事があります。興味ある方は読んでください。
太田資宗
慶長5年(1600年)徳川氏の家臣・太田重正の子として誕生、父の妹は英勝院(徳川家康の側室)がある。
青山宗俊
父・忠俊は天正6年(1578年)に浜松で生まれた。はじめは秀忠に仕え、後に家光に仕えることとなる。
大坂の陣で手柄を挙げ、老中となり、元和6年(1620年)には武蔵国岩槻(現:埼玉県)城主となっている。
宗俊は、慶長9年(1604年)に生まれた。
父は青山忠俊、母は大久保治右衛門忠佐の娘。
元和9年(1623年)に父・忠俊が家光の勘気にふれたため、蟄居を命じられると、宗俊も父とともに遠江国小林村へ閉門された。
しかし、それが許されると、宗俊は家光に仕え、寛永15年(1638年)には、江戸城の警備や将軍出行時に護衛をする書院番の頭となっており、武蔵(現:東京都、埼玉県、神奈川県)・相模(現:神奈川県)の両国に3千石を与えられた。
そして、正保元年(1644年)には、江戸城や市内の警備に当たる大番の頭となり、慶安元年年(1648年)、信濃国小諸城主となり3万石を領有した。
寛文2年(1622年)に大坂城代となり、所領も畿内(現:大阪府、京都府、奈良県)に移され、5万石を有した。
延宝6年(1678年)に老齢のために大坂城代を辞職すると、同年8月には太田資次と入れ替わり、浜松城主(所領:5万石)となった。
延宝7年(1679年)76歳で死去。
松平資俊
資俊の父・宗資の姉は、将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院、そのため父・宗資は綱吉に仕え、息子・資俊も綱吉に仕え、綱吉の長男・徳松に仕えており、徳松が死去するとその職を解かれ旗本寄合となっている。
浜松在職中には、浜松町奉行を置いて、宿勢の詳細な調査を行ったり新田の検地を行ったりした。
宝永2年(1705年)に松平の名をもらい、本庄から松平姓に変わった。
松平信祝
松平家は徳川家と関係が深く、信祝も少年時代に綱吉にお目通りが許されている。
また、吉宗からも信頼されており、吉宗の側近として幕政を動かした。
浜松在城中の享保20年(1735年)には浜松城下に目安箱を設置して、文化人としても優れており、浜名湖周辺の古刹や城跡、系図などの調査を行なった。
そして、第14代浜松城主・松平資訓に続き、後の遠州国学の土壌を築いている。
享保14年(1729年)に堀田伊豆守正虎の急死に伴い大坂城代となる。
また、同年に浜松城主となって7万石を領有し、その後、老中となっている。
延享元年(1744年)、62歳で他界。
松平資訓
松平資訓の姉の嫁ぎ先である、第13代浜松城主・松平資俊の養子となっており、資俊の跡を継いで浜松城主となっている。
一度は三河国吉田(現・豊橋市)へと移ったが、その後、再び浜松城へ転封となった。
また、文化人としても優れており、後の遠州国学の土壌を築いている。
井上正経
井上家の先祖は秀忠の乳母の子どもであり、正経の祖父・正岑は老中、父・正之は奏者番や寺社奉行になっているなど、正経は名家に生まれた。
正経自身も寺社奉行や大坂城代などを歴任し、浜松在城中に老中となっている。
水野忠邦
寛政6年(1794年)唐津藩藩主、水野忠光の次男として江戸に生まれる。
兄が早くに亡くなったため、父の隠居後家督を相続し、文化13年(1816年)に武家の礼式を管理する奏者番をしていた。
文化14年(1817年)に老中になるべく自ら希望して、浜松藩へ領土を移し、以来約30年間浜松に在城し、実際は江戸生活が大部分で実務は藩吏に任せていたと思われる。
悪名高い天保の改革は、天保12年(1814年)、48歳のとき幕府財政の再興を目的に、天保の改革に着手。
※上記の天保の改革をクリックしていただくと、その時活躍した遠山の金さんと敵対する鳥居耀蔵の記事があります。興味ある方は読んでください。
農村復興を目的とした人返令や、株仲間の解散、地方に分散していた直轄地を集中させようと上知令を出したり、金利引き下げ政策を出したりと、多くの法令を定めたが、強圧的な改革が非難を受けた。
井上正春
第21代浜松城主・井上正甫の長男として生まれ、父の他界後にその跡を継ぎ、棚倉城主(現:福島県棚倉町)となった。
その後、幕府の要職を経て、館林(現:群馬県館林市)に移り、その後、浜松城主となっている。
浜松在城中には館林の木綿織物技術を浜松へ伝え、浜松の名産であった遠州織物の発展に貢献した。