秀吉と家康の関係がいまいち、よくわからない。
何故かというと秀吉は百姓の出、一方家康は城持ちの大名の出、なのに秀吉が先に天下人になって、家康を顎で使ったか?
先ず、家康と秀吉の関係は、織田信長に仕えていた。
当時は、家康は信長の同盟者、片や秀吉は信長の家臣、雲泥の差だったはずの両者が逆転してしまったのか?
ううん、いや、待てよ「おや?」と思われますが、信長が亡くなった本能寺の変を境に、天正10年(1582年)頃から信長の跡目相続の件で、秀吉と対立した。
家康は織田信雄に組みして、秀吉と「小牧・長久手の戦い」に参戦したが、途中で織田信雄が秀吉と和睦を結んだので、家康は梯子を外された形で大義がなくなってしまい負けてしまった。
その戦で、秀吉は徳川家康と織田信雄を屈服させたのに、なぜか家康を取り込もうと、妹の朝日姫を家康のもとに嫁がせようとする。
秀吉の方が人質を出して、何とかわしの家臣になってくれと言わんばかりに出た、そして秀吉の関白宣下は天正13年の7月11日(旧暦)に正親町天皇の命によって行われて、天正14年12月19日(旧暦)に太政大臣に任命されています。
そして、堀尾吉晴・生駒正俊を朝比姫の夫・佐治氏のもとに派遣して500石の加増を条件に離縁を命じた、そんんな話聞けるわけないが、天下人の言う事だから、佐治氏は本意でなく離縁して出家したとも、その後の詳しいことはわかっていない。
家康は秀吉が関白太政大臣になったので、申し出を承諾して、天正14年(1586年)に迎え入れ、その時、朝日姫44歳、家康45歳、朝日姫は浜松城(現・浜松市)から駿府城(現・静岡市)に移ったのに伴い駿河御前と呼ばれるようになった。
そうして秀吉と家康の関係は、秀吉の母である大政所・仲の子、朝日姫を妻にした。
また、家康の三男・秀忠の妻であるお江は、淀殿の妹、これで深い関係を築いた秀吉であった。
家康は領国五ヵ国、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を支配の拠点とした、ところか天正18年(1590年)、秀吉の命令で小田原の北条氏を攻め滅ぼしたて関東へ転封の沙汰が下った。
徳川家康を関東に転封を命じた
家康の本領は三河国、長年にわたる家康の活躍と努力によて、この頃には遠江・駿河・甲斐・信濃と領地を広げて行った。
したがって、秀吉は家康と家臣たちに、慣れ親しんだ土地を離れて関東に転勤するように命じられて不満たらたら。
断れば織田信雄のようになる。
天下人になろうという秀吉にとって強大な軍事力を持つ家康は脅威でした。
家康を京・大阪に近い土地から箱根の険の東に追いやることにより関東への封じ込めが行えると思ったのです。
移封は旧領に比べて、100万石以上の加増、ただし、北条氏の息のかかった土地を治めねばならず、うまく統治できなければ新領の240万石はただの数字です。
当時の関東は水はけの悪い湿地帯が広がっていて、家康の家臣から反対が巻き起こったのは、三河・遠江と違い、関東が荒れ果てた土地であったからで、江戸城の手前まで日比谷入江が入り込み、本丸と二の丸をつなぐ汐見坂からは海が眺められました。
家康の家臣は、関東への転封は乗り気ではなかったが、家康自身は乗り気だった。
家康は関東の土地を調べ、ここが穀倉地帯に開発できると考え,戦国武将の戦いは領地、つまり農地を奪い合うゼロサムゲームです。
当時は、米1万石につき250人前後の兵員を動員することが出来ましたので、軍事力増強には領土が必要だったのです。
家康は新田開発により領地を増やそうと考え,江戸湾に流れ込んでいた利根川を東へと導き、太平洋につなぎ,江戸を洪水から守るようにし、広大な新田を開発していきます。
旧来制度の打破
家康の家臣から反対が巻き起こったのは 、湿地の問題もありましたが、先祖伝来の三河の土地を離れたくないのが一番大きな理由です。
盟友だった信長は清洲、犬山、岐阜、安土と本拠地を次々と変え、家臣も異動させ、それまでの戦国武将の家臣は兼業農家で、農作業がない時に戦争をしていました。
信長は兵農分離を行い、いつでも機動的に動かせる軍隊を作り上げています。
家康の場合、三河を地盤とする武士団が中心で、鎌倉武士以来の『一所懸命』で土地を守ることを身上とした強い武士団でしたので、家康にとっては宝でもありましたが組織を近代化していくうえでは障害でもありました。
秀吉の関東への移封命令は、内部改革だけではなかなか進められない兵農分離を外圧で一気に行えるチャンスでした。
家康は家臣団に、「ここで断れば、秀吉に徳川つぶしの口実を与えるだけだ。ここは我慢して新天地でがんばろう。」と伝え、納得させました。
実際にこの後、尾張・伊勢から家康の旧領への転封を拒んだ織田信雄は100万石を没収されています。,
江戸城へ入る
家康は苦労は多いが、徳川家臣団を革新できるチャンスと考え、負けて得しようと秀吉の命令に従います。
1590年8月1日、八朔の日に家康は江戸城に入ります。
『八朔の日』というのは稲の実りを願う行事が行われる農業にとって大切な日で、家康はこの日を選びました。
新田を開発し、領国経営をしっかり行い、関ヶ原の戦いの際には実収300万石もの強国となりました。そして天下取りに大手をかけます。