徳川家康の子供は。11男と5女がいて、うち4人は幼くして亡くなっていますが、残りの12人の子供の子供がいて、その子供達には子供がいる、いわゆる孫がいます。
正室の子・筑山殿の間にできた信康の子は:登久姫(小笠原秀政の正室)・国姫あるいは熊姫、妙高院(本多忠正の正室)・萬千代の3人です。
長女の亀姫は男の子:家昌・家治・忠政・忠明、女の子:1人(大久保忠常室)などがいますが、正室と側室とは違いますが、家康亡き後は側室の子が将軍として活躍しています。
第二代将軍・秀忠も側室の子、はじめて側室にした西郷局といって、桶狭間の戦い後に鵜殿長照と戦った後に娘を側室にしています。
徳川秀忠には、側室がいたかいなかったのかというといなかった。
正式に認められた側室はいないが、手を付けたて子供まで産ませた女性はいます。
一人は長丸を産んだ家女という身分の低い女性と、もう一人も同じお静と言う女性、この子は保科家に養子に出されて、後の保科正之です。
▲皇居(江戸城)
家康の孫たち何人いたか
あとは側室の於万の方の子で家康の次男・松平秀康の子は:治枝・松姫(早逝)・忠直・忠昌・喜佐姫・直政・吉松・直基・直良・呑栄ら。
側室・西郷局の子で家康の次女・督姫は:北条氏直との間に2女、再婚した池田輝政との間に5男2女、側室。
同じく西郷局の子で家康の三男・徳川秀忠の子母はお江:千姫・珠姫・勝姫・初姫・徳川家光・忠長・松姫(和子姫)・別の女性に長丸(早死)ともう一人の女性が保科正之をもうけている。
同じく西郷局の子で家康の四男・松平忠吉の子は正室に迎えたのが、井伊直政の娘・政子:梅貞大童子。
側室・下山殿の子で家康の三女の振姫の子:蒲生秀行との間に蒲生忠
郷と蒲生忠和の2人と1女祟法院(加糖忠広正室)、再婚で浅野長晟との間に浅野長治・浅野浅野光晟を産むも振姫は16日後に死去する。
側室・於都摩の子で家康の五男・武田信吉の子は:なし。
側室・茶阿局の子で家康の六男・松平忠輝の子は:徳松と於竹姫の2人。
同じく於都摩の子で家康の七男・松平松千代の子は:なし。
側室・相応院の子で家康の八男・松平仙千代の子は:なし。
側室・お久の方orお梶の方の子で家康の四女で松姫早死。
側室・相応院の子で家康の九男・徳川義直(尾張徳川家)の子は:光義(光友)・京姫(広幡忠幸室)の2人。
側室・お万の方の子で家康の十男・徳川頼宣(紀州徳川家)の子は:光貞・茶々姫・修理・松平頼純・松姫です。
同じくお万の方の子で家康の十一男・徳川頼房(水戸徳川家)の子は:松平頼重・光圀・松平頼隆・松平頼利・松平頼雄・松平頼泰・松平頼以・松平房時・鈴木重義・大姫ほか。
※上記のお万の方をクリックしていただくと、側室・お万の方の詳しい記事があります。 興味ある方はご覧になってください。
側室・お梶の方の子で家康の五女・市姫として生まれるも、野苺を摘んでいる際毒虫に刺され3歳で天折れしたといわれる。
孫の一般に知られてる名前は、徳川秀忠の子・千姫と徳川頼房の子で水戸黄門の光圀だと思いますので、この二人を取り上げたいと思います。
徳川秀忠の正室は、淀殿の妹・江といい、信長の妹・お市の方の三女です。
秀忠との間には3男・5女を設けていてますが、母親は再々婚なので、初婚のときの子がいます。
初婚の時の相手は、豊臣秀吉の姉の子・豊臣秀勝といって秀吉の甥ですが病死してしまいます。
まず、ここに子供の母親・江の系図を載せます。
興味ある方は、ここをクリックして見てください。
▲徳川秀忠と正室・お江の子供たち
家康の跡を取って第2代征夷大将軍になった、徳川秀忠の子共達を書きます。
千姫・珠姫・勝姫・初姫・家光・忠長・和子姫・正之の3男5女、徳川将軍直系の家康の孫です。
▲家康の孫の母親たち
戦国の乱世に翻弄された秀忠の子・千姫
千姫は徳川家の駒として利用され、宿敵である豊臣家へ嫁ぎます。
慶長2年(1597年)4月11日、千姫は山城国伏見城内の徳川屋敷を産まれました。
▲大阪城
祖父は後に江戸幕府初代将軍・徳川家康、父は家康の息子・三男の秀忠、母は信長の妹・お市と浅井長政の三女・お江です。
父は側室は持たず、お江との間に7人の子をもうけ、千姫は第一子でした。
豊臣家の将来を憂いた秀吉は、五大老の筆頭として力を付けていた家康に、息子の秀頼の後見人となるように頼み込みます。
さらに秀吉は家康に裏切られないよう、わずか2歳の千姫を秀頼と婚約させ、豊臣と徳川の結びつきを強めて、秀吉は亡くなった。
慶長8年(1603年)千姫は7歳で豊臣家へ嫁ぎ、この時点で豊臣秀頼は11歳でした。
千姫と秀頼は従兄妹同士の関係でした。
さらに政略結婚という複雑な背景のもとでの結婚でしたが、この二人の関係は良好だったが長くは続かなかった。
豊臣家と徳川家の間に軋轢が起こり、家康は慶長19年(1614年)の大阪冬の陣と翌年の夏の陣が勃発。
この時千姫は19歳でした。
千姫は秀頼と淀殿の助命を何度も嘆願しますが、聞き入れられず2人は自害に追い込まれ、大阪城は落城、秀吉が亡くなって16年後のことです。
千姫は助け出され、秀頼の側室の娘が処刑されそうになった際には、千の養女にすることで願いを聞いてもらって命は助けてもらいました。
千姫事件
豊臣家を滅ぼす際に、孫娘を無事助け出した者には、「千姫を娶らせよう」と約束を結んだといわれます。
そして大阪城から千姫を助けたのは坂崎直盛でした。
関ヶ原の戦いで武功を挙げ、石見津和野3万石を賜った人物です。
坂崎直盛は、家康との約束通りなら千姫と結ばれる筈でしたが、千姫が直盛を拒絶します。
理由は助ける際に負った顔の火傷が気持ち悪いということでした。
江戸に届けられる途中、千姫は本多忠勝の孫である、桑名城主・本多忠刻に一目惚れしてしまいます。
父・秀忠は「千姫は秀頼と共に自害すべきだった」と冷ややかに反応する一方、家康は本多忠刻へ恋慕の情を寄せていると知って、孫娘へ辛い目に遭わせ申し訳ない気持ちで2人の婚姻をまとめた。
元和2年(1616年)に桑名城主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と再婚した。
一方武士としての面目を潰された坂崎直盛は、千姫の輿入れ際に強奪する計画を立てていましが、計画は失敗に終わり、直盛は家臣により殺害され、お家断絶となりました。
家康の孫・徳川光圀
家康と側室・お万の方との間にできた、叔父には、異母(側室・亀)の叔父・徳川義直(尾張徳川家)・同母の徳川頼宣(紀州徳川家)の弟である父・徳川頼房(水戸徳川家)の子である光圀は、寛文元年(1661年)8月に水戸二代目藩主となる。
▲水戸城薬医門
徳川光圀は、常陸国水戸藩の第2代藩主で、寛永5年(1628年)6月10日、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれる。
「水戸黄門」としても知られる。諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。
徳川家康の孫に当たる。
儒学を奨励し,彰考館を設けて朱舜水など俊才を招き,「大日本史」を編纂し水戸学の基礎となった。
実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海を除くと現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。
光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては、石高に対し高い格式のために父・頼房時代から既に悪化していた藩財政に対し、広範な文化事業がさらなる財政悪化をもたらした。
徳川頼房は、水戸に就藩中に病となり、寛文元年(1661年)7月に水戸城にて死去し、徳川頼房の三男の徳川光圀が葬儀を儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に徳川頼房を葬った。
8月19日、徳川光圀は、幕府の上使を受け水戸藩28万石の2代藩主となる。
久慈郡の瑞竜山に水戸徳川家の墓地を造営した理由としては、那珂郡や久慈郡は、旧佐竹氏の本拠地であり取り締まりの意味もあったと考えられる。
(水戸藩の領地は、関ヶ原の戦い以前は佐竹氏の領地であり、佐竹氏は関ヶ原の戦いで豊臣方に加勢したと考えられ出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。)
このころ、徳川光圀は、久慈郡に訪れており、水戸と久慈郡の途中に位置する那珂郡額田村(額田城・鹿嶋神社・八幡神社)にも訪れていた。
光圀の隠居 日乗上人日記が現存 久昌寺
元禄3年(1690年)10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の高松の綱條が水戸藩主を継いだ。
権中納言に翌15日に任じられた。
11月29日江戸を立ち、12月4日水戸に到着、5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所西山荘に隠棲した。
佐竹領民監視もあり、60余人が伺候した。
同年4月、佐々を楠正成が自刃したとされる湊川に派遣し、楠正成を讃える墓を湊川神社に建造させた。
墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれている。
また同年、藩医であった穂積甫庵に命じて『救民妙薬』を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。
元禄6年から数年間、水戸藩領内において八幡潰しと呼ばれる神社整理を行う。
佐竹に繋がる八幡社を整理し寺社改革をし、神仏分離を図ったものである。
藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更された。
元禄7年3月、5代・将軍綱吉の命により隠居後初めて江戸にのぼり、小石川藩邸に入った。
11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、家臣の藤井紋太夫※1を刺殺した。
※1.藤井紋太夫とは、通称名で光圀に重用され仕えていた。光圀の隠居後も、3代藩主・徳川綱條に引き続き仕えて800石の大老となる。光圀が刺殺した理由は、光圀失脚を画策する柳沢吉保に内通したためとされているが真相は不明。
光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後突然刺したという。
現場近くで目撃した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の様子が書かれている。
幕府に出された届出によると、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟の殺害ではなく、以前からの処罰が念頭にあり、当日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。
理由の詳細は不明だが、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。
翌元禄8年1月、光圀は江戸を発ち、西山荘に帰った。
元禄9年12月23日、亡妻・泰姫の命日に落飾する。
寺社改革を断行した光圀であるが、久昌寺に招いた日乗上人らと交流し、年齢を重ねるごとに仏教には心を寄せていたことがうかがえる。
72歳頃から食欲不振が目立ち始め、元禄13年(1700年)12月6日に死去した。73歳(満71歳没)。