本多正信は通称を弥八郎と呼ばれていた。
正信の父は本多俊正で、もともと松平家の重臣・酒井忠尚の下で働いていた、忠尚が謀反を起こしたために、共に家康と戦うこともあったが、永禄7年(1564年)9月に俊正は臣従している。
曽祖父の代から松平家に仕えていた、あまりの貧しさのため、正信は鷹匠をして生活を支えていたといわれます。
家康と正信は歳も近く、4歳の差、竹千代(家康)6歳のときに人質生活になったとき、正信は10歳の時から家康の近侍として今川家に随行しています。
正信は、天文7年(1538年)生まれ、家康は天文11年(1542年)生まれなので4歳年上、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは正信も戦った。
そのとき、丸根砦の戦いで膝を負傷しそれ以降は足を引きずって歩いたともいわれているが、真偽の程は定かではない。
そんな中、永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆では、父・俊正は家康方についているるが、息子・正信の方が酒井忠尚の城に立て篭もり一揆側に着くことになった。
正信が一揆側に付いたことが、家康にそれだけのダメージを与えたかは定かでない。
ということで一向一揆側につき、家康とは敵対することになります。
当時、本多一族は、本多忠勝をはじめ、そのほとんどが一向宗門徒でしたが、忠勝ら多くは、信仰よりも家康への忠義を優先にした。
▲本多一族
一向宗から、浄土宗に改宗し、一揆方と戦いました。
しかし正信は、兄の重貞も家康方として戦う中、改宗せずに、弟の本多正重や渡邉守綱といった家康家臣と共に一揆方につく道を選んだ。
正信は松平家中で出世していたとは言い難く、改宗してまで家康に仕え続けようという気が薄かったのかもしれません。
一揆方に付いた正信は、参謀格として一揆軍の主力に一人になっていったが、渡邉守綱のように自ら槍を持って戦うことはなかったものの、軍師として一揆軍を指導したとされています。
家康は同時期に、松平家重臣の酒井忠尚や吉良義昭など、四方八方に敵を抱えており、後に三方ヶ腹の戦い、伊賀越えと並んで、家康の三大危機の一つとして語られています。
それでも家康は、水野信元※1の助力を得て優位に戦いを進め、一向一揆勃発から3ヶ月あまりで、半ば強引に調和に持ち込んで成功した。
※1.水野信元とは、母・於大の方の異父兄のため伯父に当たる。
家康は、三河領主としての権力を確立するために、自分を裏切った家臣に厳しく接し、渡邉守綱など一部の家臣を除き、その多くは追放されたといいます。
一向一揆後、正信は三河を出奔して家康と袂を分ける
本多正信は、三河を脱出して浪人となり、諸生活送ったと言われます。
この時に、弟の本多正重は三河に残り、後に赦免され家康に仕え、掛川城攻めや三方ヶ原の戦いで活躍をしていきます。
※上記の掛川城の戦い・三方ヶ原の戦いをクリックしていただくと関連記事があります。興味」ある方は読んでください。
一方、正信は三河を出奔した後諸国を歩き周り京都へ向い、当時畿内を掌握していた三好長慶の重臣・松永久秀の元へ身を寄せていたとされます。
この後、松永久秀は、自身の関与は不明ながらも、足利義輝の暗殺、東大寺大仏殿焼討ちと歴史に悪名を残して行くようになります。
三河脱出時は28歳だった正信も、松永久秀の元で、幾多のこうした出来事を間近で見ていた可能性もあると言えるでしょう。
正信は松永久秀からは厚遇されていたようで、久秀は正信のことを「徳川の侍を多く見てきたが、多くは武勇一辺倒の輩だったが、正信だけは、強がらず柔らかからず、また卑しからず世の常の人ではないであろうと思った」と正信を高評価していました。
やがて正信は、松永久秀の元を離れ、加賀に赴気、加賀一向一揆の武将となったと伝わります。
松永久秀は、織田信長の上洛後に信長に従うようになっていたので、家康との関係もあり、久秀のもとにはいられなくなったのかもしれません。
しかし、一世紀に渡って加賀国を支配した加賀一向一揆も、柴田勝家を中心とした織田氏の北陸方面軍に押され、天正8年(1580年)に石山本願寺が信長と和睦すると衰退の一途を辿りました。
正信は一揆とは運命を共にせず、加賀を去って再び流浪の身になり、越後国などを流浪していたとされたています。
しかし、正信は、三河に残っていた正信の家族を保護していた、旧知の大久保忠世の執りなしによって徳川家に帰参を果たしました。
正信が帰参した時期は諸説あるものの、武田氏滅亡から本能寺の変にかけての時期だったとされています。
徳川家には少ない謀略化となる本多正信
流浪時代の経験を活かし、家康の信任を獲得していき、軍師としての道を歩んでいくことになります。
帰参した正信は、経緯は不明ながらも、本能寺の変が起きた時には家康の側にいて、正信は、伊賀越えで家康帰還に大きく貢献したとされており、畿内には、三好氏や松永久秀・伊賀者らを活用したと想定されます。
※上記の伊賀越えをクリックしていただくと関連記事があります。興味ある方は読んでください。
正信は、伊賀越えをきっかけに信任を得たとされており、これ以降、家康の軍師として側で仕えることになりました。
家康も、正信が帰参する際には、自ら使者を正信のもとに送っているので、正信を重用したいという思いはあったのでしょう。
本能寺の変直後の武田遺構をめぐる天正壬午の乱では、戦場での活躍はなかったものの、徳川領となった甲斐で、旧武田家臣の所領の安堵を行う奉行として、復帰早々重要な役割を果たしました。
この他には、正信の活躍は見えていないものの、小牧長久手の戦い後の1586年には、豊臣秀吉が徳川家重臣に官位を推薦した際に、本多忠勝や榊原康政と同格の従五位下佐渡守を与えられています。
このことから、家康の軍師として側近くで活躍していたことは確かで、三河以来の譜代家臣が重臣のほとんどを占める中、諸国を放浪した正信は、今までの家中にない大胆な発想で家康を支えたと推測されます。
同時期には、徳川家を長年支えた酒井忠次・石川数正が相次いで隠居、出奔しており、軍師としての正信の活躍の場はますます広がることになります。
小田原征伐後、家康が関東に移封されると、相模玉縄で1万石の領地を与えられ、三河一向一揆後は家康に忠実に仕え続けた渡邉守綱を大きく上回る大名並みの地位を得ました。
この頃の正信が、家康と水魚の交わりと評される程の意思疎通を果たしていたエピソードに、家康が上洛戦の勝算を家臣に問いかけたというものがあります。
家臣たちは東海道に配置された豊臣家の家臣・中村一氏や堀尾吉晴に勝てるかという話ばかりする中、正信は、一切口を開かず神妙な顔をしていました。
正信は、会津を領し、徳川家の後方を抑える蒲生氏郷に牽制され、関東を出ることすらできないと考えており、家中で家康と正信のみが、今後の展望を見据えることができていたという話です。
関ヶ原の戦いまでの正信は、伏見は肥前名護屋にいることの多かった家康とは別に、江戸城の徳川秀忠のもとに付き従って、関東の統治を担っていました。
家康も、自分と考えを共有する正信がいれば、自分の分身として、関東統治を問題なく行えると考えていたのでしょう。
秀吉死後の混乱の中でも、正信は行き当たりばったりではない、将来的に家康が最も大きな果実を得られるような献策を次々と行いました。
その中でも特徴的なのが、五奉行の石田三成が加藤清正や福島正則ら武断派諸将に襲撃された七将襲撃事件での対応です。
家康を追い落とそうと躍起になっていた石田三成は、あえて家康の元に助けを求め、家康としては三成を討ち取る絶好の機会となりましたが、正信はあえて、三成を助けることを提案しました。
正信は家康に、三成に挙兵の機会を作らせ、敵と味方を区別し、一網打尽にすべきと提案し、後の関ヶ原の戦いにつなげたといいます。
他にも、前田利長を脅して、利長の母、芳春院を人質に取り、前田家を降ろしたり、会津の上杉征伐を行うことで、三成挙兵を促したのも正信の献策だといわれています。
家康は、雄一自分の考えを汲み取った提案を行う正信を信頼し、友のように接し、正信も家康を大殿と親しげに読んでおり、この主従の信頼関係は、徳川家中の中でも別格だったといいます。
この後、正信は家康の天下取りの総仕上げのために、さらに知恵を働かせていくことになります。
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ついに天下取りを成し遂げる家康に知恵を出した正信
関ヶ原の戦いでは、本多正信は中山道を進む徳川秀忠の軍につけられため、本戦に参加することはなかったものの、正信が家康と繰り上げた策はことごとく的中し、家康は、一気に天下人のの仕上がりました。
正信は、関ヶ原の戦い後、捕虜になった石田三成の子、石田重家の処分を考える際に。三成は関ヶ原の戦いを起こす大功を立てたのだから、その功に免じて助命すべきと、皮肉めいた提言をしたという逸話もあります。
正信は、関ヶ原の戦い後も秀忠付きとして江戸に残り、秀忠は正信を長老として丁重に扱い、正信も秀忠を若殿と呼び、家康同様親しげに接していたといいます。
この頃には正信は、徳川家一の実力者として、諸大名にも一目置かれる存在となっていました。
それを表すように、諸国を流浪していた正信の次男・本多正重が、上杉家執政の直江兼続の婿養子に迎えられ、その後加賀前田家に五万石の高禄で増し抱えられる。
徳川家に警戒される存在である上杉家・前田家は、本多正重と繋がりを持ち、お家安泰につなげようとしており、正信の存在は大名家の存続を左右するまでになっていました。
正信は江戸幕府成立後、大久保忠世の子で、旗本を統べる軍事責任者となっていた、大久保忠勝とともに、ツートップとして初期の幕政を担います。
ただし、大久保忠隣は、1614年に突如として改易を申し渡され、根拠はないものの、忠隣の改易は正信の密告によるものと、後の徳川家の公式記録にも書かれ、正信は、謀略家として印象が一気についてしまいました。
正信は江戸で忠隣を間近に見ており、正信の意見を家康も参考にしたはずですが、正信は徳川家復帰の恩人、大久保忠世の子である忠隣の家族を、心配する手紙を出しており、真相は不明です。
一説には、大久保忠隣は、西国大名や豊臣家と親しかったため、豊臣家討伐に邪魔になるとして改易されたともされており、この後正信は、家康の天下取りの総仕上げ、大阪の陣へ突き進むことになります。
もっとも、大阪の陣では、当時76歳だった正信は出陣はしたものの、息子の正純が、正信に代わって家康の右腕として活躍していました。
正純のもと、豊臣家家老の片桐且元の調略、方広寺鐘銘事件、大坂冬の陣後の堀の埋め立てなどが行われ、1615年の大阪夏の陣にて、ついに豊臣家は滅亡します。
家康は、豊臣家の滅亡を見届け、翌年の1616年に73歳で生涯を閉じました。
正信も、家康の後を追うように、家康の死から約50日後78歳で亡くなりました。
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まとめ
正信は、親戚の本多忠勝や榊原康政とは違い、武功を立てず、謀略のみでのし上がってきたため、他の家臣からは特に嫌われていました。
榊原康政などは、腹黒い正信のことを腸腐れと呼んで蔑んいたほどです。
正信も嫌われていることは重々承知しており、家康から加増を持ちかけられても、相模玉縄の一万石以上の加増は一切受けず、必要以上に恨み妬みを買わないようにしていました。
当然、息子の本多正純にも、この心構えは伝えらており、正純も必要以上の加増は断っていたといいますが、正信死後、正純は次々と加増され、1619年には宇都宮15万石の大身になってしまいます。
これにより正純は一層妬まれるようになり、土井利勝ら次世代の台頭もあったことから、1622年に、宇都宮城釣り天井事件を契機に改易され、流罪処分とされました。
正信の系譜は、最終的には、加賀前田家に仕えた、次男・本多正重飲みが大名並の家として残ります。