竹千代(家康)は今川家の人質なのに、なぜ義元は最強の教育したのでしょうか?
竹千代は松平家から今川家に人質として差し出されたとき、まだ幼い子供でしたが、義元は竹千代の才能を見抜いていた。
今川義元の逸話の中で、特に有名なものに、人質として引き取った竹千代(後の徳川家康)に「むごい教育をせよ」と家臣に命じたエピソードがあります。
「むごい教育」というと、あなたはどんなものを思い浮かべますか?
厳しく躾けることでしょうか?
いいえ、義元は家康の望むことを全て否定せずに与えるように命じたのです。
これについて、家康の才能を見抜いていた今川義元が、徳川家康を甘やかし、自分で判断できない人間に成長させようとしたと言われています。
現在でも教育の場では、この逸話が例に出されることも多く、納得できる話が多いエピソードだなと個人的には思います。
今川義元はイメージとは異なる、猛将としての逸話も残っていました。
また、当時の慣習の通り人質である家康を厚遇したりと、とても常識的な人でもあったようです。
家康は今川家の人質でも特別扱い
三河の国衆である松平家は、尾張の織田家、駿河の今川氏という戦国大名に従属しなければ生き残れなかった。
父・松平広忠は今川氏に加勢を乞うため、見返りに竹千代(家康)を人質として差し出した。
竹千代は数え8歳から19歳まで今川氏の元で人質として過ごした。
※上記の竹千代をクリックして頂くと人質の記事があります。興味ある人は読んでください。
しかし、実際には人質という印象とはだいぶ違ったようです。
父の早死によって竹千代は8歳で松平家の当主を継がざるを得なかったため、今川義元は竹千代を駿河に招いて庇護下に置き、一人前の武将とするため教育した。
義元は自らの師匠である雪斎という高僧を竹千代の先生に付けてエリート教育を施し、さらに今川一門の女性・瀬名姫と結婚させている。
14歳のとき元服、義元の元をもらい「元義」と名乗った。
17歳のとき初陣を飾った、このとき岡崎城に残してきた家臣たちを率いて戦っている。
その直後に「元康」と改名した、これは今川氏の庇護にあるとはいえ自分は松平家の当主として、祖父・松平清康の「康」の字を付けた。
家康数々のエピソード
家康は、何よりも「義」「誠実さ」を重んじていた、その真っ直ぐな家康の精神を物語るエピソードが残されています。
その一つに、家康が秀吉に言った言葉がある「私にとって一番の宝は、私のために命を賭けてくれる武士500騎」という言葉がある。
それは、家臣に全幅の信頼を寄せていたからこそ、「耐え忍ぶ武士」「主君家康のためには命を惜しまぬ武士」といわれた家康の家臣「三河武士団」がいた。
主のためなら例え火の中水の中でもと、いとわないといわれていたのかも。
自身を超えうる能力の優れた人材発掘、育成にも熱心に力を注いでいたと伝えられる。
また、例えどんな敵だろうと、志を持つ者には忠義を通す、その精神は、後に天下統一を成し遂げる大きな要因になったのではないだろうか。
三方ヶ原の出来事
元亀3年(1572年)12月、遠江に侵攻した武田信玄の武田軍が浜松城を攻めずに、三河へ向かおうし、出陣した家康軍と三方ヶ原台地(現・浜松市)で合戦となった。
織田信長からの援軍を加えても兵力に劣る徳川軍は総崩れとなり、敗走した家康は命からがら浜松城に逃げ帰った。
その時の戦いに敗れた家康が、惨めな自身の姿を絵に描かせた「しがみ像」のエピソードからも、自分自身の弱さを真正面から見つめる姿勢に、見せかけではない本物の強さを感じる。
顰(しがみ)とは、顔をしかめること。この絵は、憔悴し切った家康の表情」が巧みに描かれているとされてきました。
しかし、※注意.家康の「しかみ像」の絵は、平成27年8月に徳川美術館で開かれた講演会で物位(ものい)がついた。
どういう事かと言うと、通称『しかみ像』の絵は、江戸時代中期の尾張藩徳川9代の徳川宗睦(1733年〜1799年)が養子に迎えた徳川治行の妻が紀伊徳川家から嫁いだ、従姫(よりひめ:紀州徳川家7代藩主・徳川宗将の娘)が1780年に持参して来た嫁入り道具に入っていたことが判明した。
従姫の没後1805年に尾張徳川家の“家康ゆかりの物”を収める『御清御長持』に収めた物だという。
家康が考える『大将の器」勇士の使い方
勝頼は勇士の使い方を知らないと言ったことが当たった。
長篠の戦いでのエピソードとして、大正3年(1575年)長篠城から信長へ援軍の要請に向かった鳥居強右衛門を武田勝頼は捕らえて磔にし殺してしまった。
それを聞いた家康は、「武田勝頼は大将の器ではない」勇者を使う方法を知らぬ。
鳥居のような豪の者は、敵であっても命を助け、その志を褒めそやすものなのだ。
これは味方に忠義ということが、どういうどいうものかを教え込むためだ。
自分の主君に対して忠義を尽くす士を憎んで磔にかけるということがあるか。
そのうちに勝頼が武運尽きて滅亡するときは、譜代恩顧の士も裏切って敵となるであろうから、見ているが良い。」と呆れたように言ったが、その通りになった。
家康の自慢の宝
江戸幕府を開いた徳川家康のは、優れた多くの家臣がいた。
特に、三河国時代から仕えていた武士達は「三河武士団」と呼ばれ、その強さが日本中に広まった。
豊臣秀吉が関白だった頃、秀吉が家康に向かって問われた。
秀吉曰く、諸大名を集めて宝物を自慢した、家康に問うたことは「家康殿は、どんな宝物をお持ちか?」と尋ねた。
家康曰く「私は田舎の生まれですので、これといった秘蔵の品はありません。しかし、私の為に命を賭けてくれる武士が500騎ほど配下におります。
この侍達を何にも代え難い宝だと思って、いつも秘蔵しています。」と答えた。
この答えにさすがの秀吉も二の句が告げなかった。といわれます。
思慮あればこその大将
思慮(しりょ)とは、(注意深く)いろいろと思いめぐらした考え。
家来の命を重んじる家康が、奥州九戸の「九戸政実の乱」※2のときのエピソードです。
※2.九戸政実(くのへまさざねのらん)とは、天正19年(1591年)、南部氏一族の有力者である九戸正実が、南部家当主の南部信直及び奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱です。
家康は、武州岩附まで出陣したとき、そこで井伊直政に「出陣して蒲生・浅野と協力し九戸の軍事を計るように」と命じた。
このことを聞いて、本多正信は「直政は重要な執権です。この度の討ち手は、先ず下の者を使わし、もし叶わない時にこそ、直政を使わすのが妥当ではありますまいか殿」といったところ、すると家康は、「思慮のない者、北条氏直などがすることだ、何故ならば、最初に軽い者を使わして埒(らち)が明かないからと言って、次に重い者を使わせば、最初に行った者は面目を失い、討ち死にするほかない。
理由もなく家臣を殺すことになるのは惜しいことだ」と言ったという。
家康は馬術の名手
秀吉の小田原攻めに出陣したときのエピソードです。
谷川にかかった橋が細かったので馬では渡れず、橋の上下を歩いて渡っていた。
家康が橋に差し掛かったとき、それを山の上からたまたま見ていた、丹羽長重・長谷川秀一・堀秀政が、「家康公は有名な馬の名手。細橋を渡るところを見ていよう」と言いながら見ていると、馬は従者に渡し、家康は家臣に背負われて橋を渡った。
それを見ていた3人の将の兵達は「家康公は馬の名手なのに橋を越すことが出来ないなんて、背負われて渡られた」と笑ったが、三将は非常に感心し、「あれほどまでに馬の達人とは、馬上の巧者は危険は冒さないもの。特に秀吉公の御陣前、慎重に危ないことはされない。これは近代の巧者と言うべきだ」と感心したそうだ。